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ライブ インテリジェンス アカデミー(LIA)

日本の伝統文化の情報を国内外に配信していくための団体です。 その活動を通じ世界の人々と繋がっていく為の広報サービスです。

伯夷列伝が稽古の台本 【一茶庵稽古追想】

2021-09-14 14:15:59 | 文化想造塾「煎茶」

以前、通っていた煎茶の稽古はサロン的な教場だった。男性の夜の語らいを楽しむところだった。

その語らいの台本が掛軸で、書かれている内容(漢詩・画)を解きあかしていくサロン塾のようなものだった。

毎回、その季節や旬のストーリーが表現されていた。

苦手な分野と思いながらも、そのサロンで求められるのは「想像力」だったように思う。

時の経過とともにいい歳したオジサンたちでも藹々と盛り上がっていった。

 

 

ある夜の稽古の台本は、黒板に書かれていた司馬遷の史記にある伯夷列伝の

「伯夷・叔斉(はくいしゅくせい)」だった。

伯夷・叔斉は、中国の殷・周の交代期のころ伯夷と叔斉の兄弟が、

父文王の死後すぐに周の武王が殷の紂王を討ったことを、不義、不仁として周の作物を食することを拒み、

首陽山に隠れワラビだけで食い凌いだが、ついに餓死したという伝説を表現したもの。

その行いが儒家によって孔子以来の「仁」と高く評価されたという。

それで司馬遷が伯夷列伝を「史記」の最初に置いた、と言われている。

その伯夷列伝を紹介する。

 

 

武王已平殷亂、天下宗周 


ぶおうすでにいんのらんをたひられげ、てんかしゅうをそうとす

而伯夷・叔齊恥之、義不食周粟

しかるにはくい・しゅくせいこれはじ、ぎもてしゅうのぞくをくらわず
隠於首陽山、采薇而食

しゆやうざんにかくれ、びをとりてこれをくらう
及餓且死作歌

うえてまさにしなんとするにおよびうたをつくる
其辞曰、 
登彼西山兮、采其薇矣

そのじにいはく、かのせいざんにのぼり、そのびをとる
以暴易暴兮、不知其非矣

ぼうにもってぼうにかえ、そのひをしらず


神農・虞・夏、忽焉沒兮


しんのう・ぐ・か、こつえんとしてをはる
吾安適歸矣


われいづくにかてききせん
于嗟徂兮 命之衰矣

ああ、ゆかん、めいこれれおとろへたり、と
遂餓死於首陽山

ついにしゆやうざんにがしす

由此観之、怨邪非邪

これによりてこれをみれば、うらみたるか、あらざるか

 

このストーリーは後世によく登場する。以前、中国古典の教科書にもよく使われていた。

このお軸(写真)は、昭和18年に、ガダルカナル島から日本軍撤退の知らせをいち早く聞いた、

如意山人というお坊さんが、戦争の激変を「伯夷叔斉」をモチーフに一茶菴で描いたものである。

賛には「高嶺頭上見春色」と書かれてあった。

 

 

トップ画像 / 伯夷叔斉の画像より転載

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真夏の夜に、冷水の煎茶が喉を下る 【一茶庵煎茶追想】 

2021-08-12 14:27:44 | 文化想造塾「煎茶」

このお軸を詠むと、老人はのんびりとひとりで酒を傾けながら

爽やかな風を肌に感じながら優遊自適に画や書を楽しむ、といったことが書かれている。

深読みすれば、俗世から離れ、寂しさ切なさの心情が詠みとれる。

 

 

詠み解きながら、冷水で淹れた煎茶を楽しむ。一煎目は二つある急須の一つに冷水を適量注ぐ 。

そしてもう一つの急須に移しかえる。茶葉を計り、湯のみをふく。

計った茶葉を空になっている急須に入れる。そこに移しかえた急須の冷水を入れてしばし時間をおく。

茶葉が冷水を吸って葉が開く。飲みごろである。一煎目は爽やかな味が喉を下る。そして二煎目は・・・。

 

なぜ、こんな面倒なことをするのか、とお思いになるだろう。

そのひと手間が煎茶の味をつくり出すと言っても過言ではない。

器や冷水(また湯)の温度や、間を整えることで茶葉から最良の味が抽出される。

そして、二煎(二回)、三煎(三回)と淹れる。味は、その都度変化する。

まろやかさを楽しむのか、苦み渋さを楽しむのか、その時の心模様にあわせて淹れるのが煎茶の醍醐味である。

 

夏の暑い夜に、煎茶で舌鼓をうちながら悠々な時が流れた。二煎目からは少し苦み渋さがたっていた。

 

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「自娯」の心が、煎茶を絶妙にする

2021-08-10 11:11:36 | 文化想造塾「煎茶」

数年前に、文人会一茶庵の佃宗匠からいただいた「おいしいお茶 9つの秘伝(佃一輝 著書)」を

読み返す機会があった。著書の冒頭トビラに下記のような言葉が書かれていた。

 

お茶のうまさは、 葉と湯と間から生まれる。

 

おいしいお茶をいれるには、茶葉を選び、水とその温度をうかがい、

何よりも、間が大切である。これに良き器が加われば、完璧となる。

「煎茶三絶」ともいうべき、極意と自分で愉しみ、自分を楽しむ「自娯(じご)」の心が、煎茶の味を絶妙にする。

 

稽古のときに、宗匠がよくいわれた言葉である。

改めて、心に沁みる。

 

 

※この記事は2017年6月「心と体のなごみブログ」に掲載したものを加筆し転載

 

リポート & 写真 / 渡邉雄二 著書 / おいしいお茶9つの秘伝(著者:佃一輝 発行日本放送出版協会)

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洗塵橋を渡れば、別世界

2021-08-09 11:05:54 | 文化想造塾「煎茶」

文人会一茶庵では年に一度、大阪府和泉市にある久保惣(くぼそう)美術館の茶室で煎茶会を開催している。

筆者も稽古の一環として煎茶会に何度か参加したことがある。

 

同美術館は、森の中に包まれているかのように自然と一体になっている。

茶室は美術館の正面入り口から一番遠いところにある。

森の小路をくぐり抜け、敷地内に流れる松尾川を渡ると、

その奥に惣庵(非公開)と聴泉亭(ちょうせんてい)がある。

昭和12年、二代目久保惣太郎氏が、表千家不審庵 残月亭を写し建てた茶室。

 

 

その松尾川に架る太鼓橋に「洗塵橋(せんじんばし)」(写真)と書かれていた。

この名を見て、俗の世界のすべての塵を洗い落とすために架けられた橋。

浮世を離れたひと時を過ごすための清め橋なのであろう。渡れば、別世界。俗の世界から離れていく。

 

 

■美術館紹介(久保惣美術館HP参照)

和泉市久保惣記念美術館は、昭和57年に開館した和泉市立の美術館です。日本と中国の絵画、書、工芸品など東洋古美術を主に約11,000点を所蔵。「久保惣」(久保惣株式会社)は、明治時代からおよそ100年にわたり綿業を営み、泉州有数の企業として大きく発展した。
初代久保惣太郎氏(1863-1928)が明治19年(1886)に創業。昭和52年の廃業を機に三代惣太郎氏が代表して、所縁の地である和泉市の地域文化発展と地元への報恩の意を込め、美術品、および美術館の建物、敷地、基金が和泉市へ寄贈され、昭和57年10月に、寄贈者を顕彰する館名をつけ、久保家旧本宅跡地に開館したのが「和泉市久保惣記念美術館」である。

 

※この記事は2011年10月の「心と体のなごみブログ」に掲載したものを加筆し転載

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関雪記念館の煎茶会で、「ムーラン」と「呉昌碩」を語る 【一茶庵煎茶追想】

2021-07-14 11:00:57 | 文化想造塾「煎茶」

昨日、白沙村荘(はくさそんそう)橋本関雪記念美術館と文人煎茶・一茶庵共催の煎茶会が行われ、

手伝人として参加した。梅雨晴れの日曜日、午後1時30分から4時まで

美術館と存古楼(ぞんころう)に分かれ2席行われた。

 

 

美術館では、大正7年に描かれた関雪の名作といわれる「木蘭(ムーラン)」をガラスケースから取り出し、

関雪のお孫さんにあたる橋本家御当主橋本眞次氏が “関雪の世界” を朗々と披ろう。

そして関雪がこよなく愛した煎茶を来場者とともに堪能。                     

この「木蘭(ムーラン)」の話になると、ご当主も力が入る。

中国に伝わる民話で老病の父に代わり、娘の木蘭が男装して従軍。

各地で勲功を上げ、自軍を勝利に導いて帰郷するというストーリーのもの。

帰郷の途につく木蘭と従者が、馬を休ませている場面。

従者から少し離れた木陰で兜を脱ぎ、束の間少女の優しい顔に戻る木蘭が鮮やかな群青の衣服で描かれている。

 

 

一方、存古楼では、一茶庵宗家嫡承 佃梓央氏が関雪と親交があった、

近代中国の大文人・呉昌碩(ごしょうせき)の名筆を、美術館同様にガラスケースから取りだし、

読み解きながら解説。呉昌碩を通し関雪の文人画家として生き様を紹介した。

この席では極上の玉露がしみる一席となった。

 

久々の着物に動きが鈍ぶったが、大文字を借景に眺める庭は、京独特の蒸し暑さを忘れさせてくれた。

 

※この記事は2019年7月「心と体のなごみブログ」に掲載したものを加筆し転載

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