戦災殉難者慰霊碑
戦災殉難者慰霊碑来歴
大東亜戦争末期昭和20年3月17日アメリカ合衆国B29爆撃機の神戸大空襲に遭った此の地、大輪田橋下暗渠内で多数の
方々が被爆死されました。あの悲惨な状態、猛火のもと恐怖と悔しさの地獄図は日本人として未来永劫、忘れる事はないでしょ
う。生き残った町住者が、尊い生命を失われた人々に深く心からご冥福をお祈りすると共にこの悲運を永く後世に伝える為、出
在家町協議会の手で此の地に慰霊碑を建立しました。協議会は恒例行事として、ご命日には町住者による慰霊祭を施行しており
ます。殉難死された方々の安らけき事を只管祈り続けん。
昭和22年9月 出在家町協議会 敬白
戦災殉難者慰霊碑
神戸市兵庫区中之島2丁目 大輪田橋東詰め北側です。参道入口は約50m東になります。
写真 左 表 戦災殉難者慰霊碑
写真 右 裏 昭和二十二年九月 建之 平成八年十月 再建 出在家町協議会
終戦から1年、非常に困難な生活中、慰霊碑は建立されました。そして阪神淡路大震災の困難の中でもいち早く再建されま
した。
住吉神社由緒と歴史 大輪田橋の対岸にあります。戦災前の付近の様子がわかります。
神戸港の西に続く海岸線、和田岬の手前、兵庫の津は、古来風浪を避ける場所が無く、大風浪の時には船を避難させることが
出来ず、地元では難儀をしていた。
明治十年新川が完成、船の通運が全く安全になったので、地元商家住民の熱望に依り、海の守護神と仰ぎ奉る住吉大神を守護
神に勧請せんとす熱意が実り、浪速の住吉大社より御勧請することになり、地元の人々の敷地奉献の至誠により約700坪の境
内地を造成し、豪壮な住吉造の社殿を竣工し、明治11年6月3日、遷座奉祝祭を斎行した。
爾来、神社裏(西側)東方の能福寺に繋がる道路左右には、商家が軒を連ね、大正末年には、市電が柳原から中之島へ通じ、
また、南西側に清盛塚が移設され、神社裏の道路左右は「清盛塚商店街」と名付けられ殷賑をきわめるに至った。
残念にも大東亜戦の戦火により社殿以下付属舎悉く罹災したが昭和39年氏子、崇敬者の赤誠溢れる助力奉賛により社殿以下
を復興建立した。
平成十年は御創祀120年に当たり、奉祝に大石鳥居の奉建あり、これを機に附属舎、境内整備等の奉賛事業を完了、平成
11年7月25日に奉祝祭を斎行した。
昭和10年の地図
兵庫駅の南の貨物駅部分がキャナルタウン兵庫です。長さで南西の半分程度がURのキャナルタウンウエストとなります。右
上の黄色印が兵庫大仏、右下の黄色印部分が大輪田橋、住吉神社、清盛塚です。
小説キャナルタウン 9 新兵庫運河物語 4 兵庫大仏能福寺 大仏尊大法会(2017.5.19)
に大仏筋商店街の昭和13年頃の写真があります。
戦災殉難者慰霊祭 平成30年3月17日(73回忌)
昭和20年3月10日の東京大空襲に始まる非軍事施設に対する絨毯爆撃(無差別爆撃)は、12日名古屋、13・14日
大阪、そして17日は神戸に及びます。
10時から慰霊碑の前でご遺族、町住者の皆様が参列され慰霊祭が執り行われました。「来歴」の大輪田橋下暗渠は現在はブ
ロックで塞がれていますが、ご住職の後ろに見える石積みの中の白っぽい部分です。当時の地図から見ると橋の下を南北に通り
抜かる通路であったのかも知れません。空襲を避けて多くの人々が避難していました。焼夷弾によって発生した大火災の巨大な
炎が吸い込まれるようにして通り抜けました。煙突(煙道)の役目を果たしたのでしょうか。50人もの方が亡くなりました。
きっと誰もが一番安全な避難場所と考えていたのでしょう。「来歴」からも悔しさ無念さが伝わって来ます。
読経に続いて参列のみなさまが焼香されました。私も御焼香をさせていただきました。合掌。
最後にご住職の御法話がありました。私にまでお供えのお下がりを頂くことになりました。恐縮の至りであります。
「殉難死された方々の安らけき事を只管祈り続けん」今も続く皆様の心であります。
戦災殉難者慰霊碑来歴がある所が慰霊碑参道入口になります。
大輪田橋
大輪田橋の南側からの全景です。コンクリートの三連のアーチ橋で昭和44年まで市電も走っていました。橋脚の上の欄干
部分に4本の太い鉄筋の頭が出ています。完成当初はおそらく福田橋と同じように街灯が付いていたと思われます。
親柱には大輪田橋大正13年6月竣功の文字が見えます。橋の中央からのキャナルタウンウエスと7号棟のアップです。下
の林の中に住吉神社の屋根があります。林の左端に清盛塚の相輪部分が突き出しているのが見えます。
写真 左 阪神・淡路大震災で折れた親柱(欄干の手前)右が銘板
写真 右 大輪田橋戦災・震災復旧モニュメント 銘板
平清盛公ゆかりの地名にちなむこの大輪田橋は大正13年の竣工以来、二度の大きな災害に遭っています。昭和20年3
月17日の神戸大空襲では、水を求め、この橋に避難した多数の市民が、炎にまかれ犠牲になりました。橋にはその時の
炎で黒く焼け焦げた跡が、今も残っています。そして50年後の平成7年1月17日の阪神・淡路大震災により、この橋
自体の親柱が崩れ落ちる被害を受けました。
ここに、戦災と震災を経験した「生き証人」でもある親柱をモニュメントとして再構成し、その時節の冬の星座をかた
どった照明によって、私たちの記憶に永くとどめるとともに、鎮魂の意を示すものです。
平成10年10月 神戸市 (原文はキリスト教曆で表示されています。)
神戸市の方は戦災殉難者慰霊碑来歴をお読みになっていないのかも知れません。「大東亜戦争」で始まる戦災殉難者慰
霊碑来歴の迫力・真心は望むすべもありませんが。
親柱のカタツムリは平成10年の震災復興のモニュメントとして付けられました。カタツムリはきれいな水と空気が無
いと生きられないそうでいつまでもその環境が守られるようにとの願いが込められているそうです。なぜカタツムリ?の
気もしますが初めから大輪田橋にカタツムリが這っていたのではないようです。
写真 左 南側の近くから見た大輪田橋です。
写真 右 大輪田橋から見たキャナルタウン兵庫。左からUR賃貸キャナルタウンウエスト7号棟、キャナルタウン中央
(公社 分譲)、キャナルタウンイースト(神戸市営)となります。
「恋するリス君の団地散歩」で検索していただいたらキャナルタウンウエストの美しい夜景がの動画がご覧頂けます。
スイートホームをお探しのようですが、残念ながらUR賃貸ではリスは住めません。
弟橋? 妹橋? 福田橋 神戸市垂水区
大輪田橋が大正13年生まれなのに対して、福田橋は大正15年生まれです。橋の場合は弟と言うのでしょうか。妹なので
しょうか。大輪田橋が三連のアーチ橋に対し福田橋は二連のアーチ橋。まるで大輪田橋の設計図の中央部のアーチを消しゴム
で消して図面を転用したかのように似ています。後ろの鉄橋はJRです。平行して山陽電車が走っています。明治21年山陽
鉄道(現 JR)が明石まで開通します。大正6年には兵庫電気軌道(現 山陽電鉄)が明石まで開通します。
大正15年当時は明石郡垂水村。昭和3年垂水町になり昭和16年神戸市に編入されます。大正8年神明国道(国道二号線)
が明石まで開通します。
須磨には武庫離宮(現 須磨離宮公園)、舞子には有栖川宮別邸(現 舞子ビラ)が有り、須磨から舞子の一帯は別邸や別荘、
居住制限の無くなった外国人の異人館や高級住宅が並びます。木造時代の舞子駅には貴賓室がありました。異人館警察署とし
て有名であった垂水警察署は約300m西にありました。(大正時代に別荘として建てられた建物は移築され兵庫県篠山市の
お菓子の里丹波の「ミオール館」として健在です。)
橋の上流側からと、上からの写真です。端正な美しさです。
この上には何があったのでしょうか。それとも台だけ。今も当時の街灯が健在である事は小さな感動です。
大輪田橋はその美しさと歴史において有名です。福田橋は全国的な知名度は及ばないかも知れませんが垂水の大正ロマンを
伝える橋として地元の人々に親しまれ土木学的にも評価されている橋です。大輪田橋と福田橋を並べて見てみますと明治と昭
和に挟まれて影の薄いですが大正と言う時代の豊かさ感じるような気がします。
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