昨日、昔の同志だった旧友“F”君が久しぶりにわが家にやって来た。彼は70歳を過ぎた現在も「溶接工」の現役である。これにはちょっとしたわけがある。
わが国が近代化を遂げる明治の頃から「渡り職人」というのがいた。腕に磨きをかけた職人が、稼ぎの多い職場を渡り歩いたわけだ。「ぜひうちに来てくれ」と声がかかる場合、あるいは自分で「利き腕」を売り込んで少しでも多い稼ぎを得る場合とがあった。あちこちから「ぜひうちに来てくれ」と懇請される“F”君は現代の「渡り職人」である。彼は「特殊溶接」の優れた技術を持っている。鉄の溶接だけでなく、ステンレスその他特殊鋼の「溶接技術」だ。これは佐世保重工業に在職していた当時身につけた技術である。根が実直で負けず嫌いな彼は、会社がLNG(天然ガス)タンクの試作などをやっていた関係で、その技術をたっぷり習得していた。
一時期、職場の熱い推薦をうけ労働組合の職場執行委員に選ばれた。「オレは中卒でそんな器ではない」と断っていた彼だが、執行委員になってから労働法などを自学自習し、会社側との交渉も組合執行部の中でぴか一になった。“労使協調”至上主義が職場を支配し、私たち同志は激しい「アカ」攻撃をうけたが、彼は一貫して私たちの側に居つづけた。そのため1978年の大合理化以降、優れた技術を持ちながら不本意な出向、昇給・賞与の差別などつらい仕打ちを受けた。そんな昔話も出たが、「渡り職人」“F”君の体験は、こんにち社会問題になっている「ワーキングプア」などの“労働”に一石を投じる内容を含んでいた。
“労働”に関しては以前にも書いた(07.5.10『“労働とは何か”を教わった今村仁司氏逝く』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070510)が、“F”君からいまなお「渡り職人」が健在であることを聞かされ少なからず驚いた。佐世保重工を退職(1987年)後、最初に声がかかって働いた時の日給は14,500円だったらしい。現在の日給は30,000円を超えるという。ここには「正規雇用」か「非正規雇用」かの垣根はなく、雇い主は“労働の価値”に見合った賃金を支払う。雇用主との間に気に入らないことがあると、彼はたびたび「そんなら辞める」と尻をまくった話をしたが、これは“労働”の主導権が労働者にあることを示す。“労働”を語るうえからこれは、“特殊技能”を持つ“F”君の例外的な話とみるべきだろうか。
彼は某社であったこんな話をした。彼は長男に自分の技術を伝授し、しばらく行動をともにしていたが、その日昼食時間になっても長男ほか数名が戻ってこない。不審に思って会社事務所に聞くと知らないという。やむなく彼らの現場に行って見るとまだ仕事中だ。そばにいた責任者に「何をやっとるのか」と聞くと、「昼までに完了する仕事が遅れたので続行している」という。「そんならなんで事務所に連絡をしないのか」「事務所には言っています」。そんな埒の明かないやりとりで頭にきた“F”君は事務所に戻って副所長に食ってかかった。
「この会社では従業員がどこでどんな仕事をしているのか把握していないのか」
「そんなことはありませんよ」
「あんたは昼休み時間に仕事させているのを知らんかったろ」
「いや、それは聞いてなかった」
「それでよく管理者が務まるもんだ!」
そう言って彼は副所長に自分の体験を語った。「俺が昔いた造船所で連絡ミスのため数人の死者を出した。隔室内への梯子を撤去し、別の退去口を周知していなかったため、たまたま火災になった室内から逃げることができなかったのだ。俺はこんな悲劇を二度と起こしちゃいかんといつも思ってきた。不測の事態に備え、作業員が適切に対応できるよう連絡を密にするのが管理者の責任と思うが、どうか?」副所長は「いやまことに申し訳ない。いいことを教えてもらった」と頭を下げたらしい。これに類する体験談をいくつか聞いた。
一事が万事、一従業員ながら仕事の上で気づいたことを正直に訴えるのが彼の信条なのだ。彼は言う。「やっぱ、組合運動をやったのが今生きているよ」。
「渡り職人」の“労働”の実態を解析すれば、「非正規雇用労働者」たちがかかえる問題の解決策が見えてくるように思えてならない。つまり、“労働”の主体者である労働者から分離してしまった“労働”の復権のため何をなすべきか。言うまでもなく「団結」以外にない。“労働”が正当な価値で評価されるための「団体交渉」と使用者の不当行為に対する「同盟罷業」。これを成立させるための「労働組合」の結成である。道は険しいかもしれないが、「ワーキングプア」「フリーター」など忌まわしい言葉の氾濫をなくすためにも、当事者たちにがんばって欲しいと思う。
わが国が近代化を遂げる明治の頃から「渡り職人」というのがいた。腕に磨きをかけた職人が、稼ぎの多い職場を渡り歩いたわけだ。「ぜひうちに来てくれ」と声がかかる場合、あるいは自分で「利き腕」を売り込んで少しでも多い稼ぎを得る場合とがあった。あちこちから「ぜひうちに来てくれ」と懇請される“F”君は現代の「渡り職人」である。彼は「特殊溶接」の優れた技術を持っている。鉄の溶接だけでなく、ステンレスその他特殊鋼の「溶接技術」だ。これは佐世保重工業に在職していた当時身につけた技術である。根が実直で負けず嫌いな彼は、会社がLNG(天然ガス)タンクの試作などをやっていた関係で、その技術をたっぷり習得していた。
一時期、職場の熱い推薦をうけ労働組合の職場執行委員に選ばれた。「オレは中卒でそんな器ではない」と断っていた彼だが、執行委員になってから労働法などを自学自習し、会社側との交渉も組合執行部の中でぴか一になった。“労使協調”至上主義が職場を支配し、私たち同志は激しい「アカ」攻撃をうけたが、彼は一貫して私たちの側に居つづけた。そのため1978年の大合理化以降、優れた技術を持ちながら不本意な出向、昇給・賞与の差別などつらい仕打ちを受けた。そんな昔話も出たが、「渡り職人」“F”君の体験は、こんにち社会問題になっている「ワーキングプア」などの“労働”に一石を投じる内容を含んでいた。
“労働”に関しては以前にも書いた(07.5.10『“労働とは何か”を教わった今村仁司氏逝く』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070510)が、“F”君からいまなお「渡り職人」が健在であることを聞かされ少なからず驚いた。佐世保重工を退職(1987年)後、最初に声がかかって働いた時の日給は14,500円だったらしい。現在の日給は30,000円を超えるという。ここには「正規雇用」か「非正規雇用」かの垣根はなく、雇い主は“労働の価値”に見合った賃金を支払う。雇用主との間に気に入らないことがあると、彼はたびたび「そんなら辞める」と尻をまくった話をしたが、これは“労働”の主導権が労働者にあることを示す。“労働”を語るうえからこれは、“特殊技能”を持つ“F”君の例外的な話とみるべきだろうか。
彼は某社であったこんな話をした。彼は長男に自分の技術を伝授し、しばらく行動をともにしていたが、その日昼食時間になっても長男ほか数名が戻ってこない。不審に思って会社事務所に聞くと知らないという。やむなく彼らの現場に行って見るとまだ仕事中だ。そばにいた責任者に「何をやっとるのか」と聞くと、「昼までに完了する仕事が遅れたので続行している」という。「そんならなんで事務所に連絡をしないのか」「事務所には言っています」。そんな埒の明かないやりとりで頭にきた“F”君は事務所に戻って副所長に食ってかかった。
「この会社では従業員がどこでどんな仕事をしているのか把握していないのか」
「そんなことはありませんよ」
「あんたは昼休み時間に仕事させているのを知らんかったろ」
「いや、それは聞いてなかった」
「それでよく管理者が務まるもんだ!」
そう言って彼は副所長に自分の体験を語った。「俺が昔いた造船所で連絡ミスのため数人の死者を出した。隔室内への梯子を撤去し、別の退去口を周知していなかったため、たまたま火災になった室内から逃げることができなかったのだ。俺はこんな悲劇を二度と起こしちゃいかんといつも思ってきた。不測の事態に備え、作業員が適切に対応できるよう連絡を密にするのが管理者の責任と思うが、どうか?」副所長は「いやまことに申し訳ない。いいことを教えてもらった」と頭を下げたらしい。これに類する体験談をいくつか聞いた。
一事が万事、一従業員ながら仕事の上で気づいたことを正直に訴えるのが彼の信条なのだ。彼は言う。「やっぱ、組合運動をやったのが今生きているよ」。
「渡り職人」の“労働”の実態を解析すれば、「非正規雇用労働者」たちがかかえる問題の解決策が見えてくるように思えてならない。つまり、“労働”の主体者である労働者から分離してしまった“労働”の復権のため何をなすべきか。言うまでもなく「団結」以外にない。“労働”が正当な価値で評価されるための「団体交渉」と使用者の不当行為に対する「同盟罷業」。これを成立させるための「労働組合」の結成である。道は険しいかもしれないが、「ワーキングプア」「フリーター」など忌まわしい言葉の氾濫をなくすためにも、当事者たちにがんばって欲しいと思う。