村には戦前から“久間炭鉱”という良質の石炭を産する中規模の炭鉱があった。村のほぼ中央の小高い山に坑口があって、周辺に何棟もの社宅が建ち、この社宅に住む同級生が何人かいた。戦後、その近くに“光武炭鉱”が創業する。いずれも地名を冠した社名だが、新しい“光武炭鉱”は、一時、久間炭鉱をしのぐ勢いで殷賑を極め、村の様相を一変させた。石炭景気に沸いていた頃だから、「宵越しの金は持たぬ」“坑夫”たちの荒っぽい気性が、穏やかな村の空気を乱さずにおかなかった。村で最初の殺傷事件があったのもその頃である。
そんな村の炭鉱では寡聞にして知らないが、日本の近代化を担った炭鉱史を覗き見れば、苛酷な労働に呻吟する人びとが多かったらしい。戦前ばかりではない。上野英信著『追われゆく坑夫たち』(岩波書店)によれば、1950年代の記録として想像を絶する炭鉱労働者が存在する。三井三池炭鉱など、日本の労働運動に輝かしい足跡を残した「炭労」の影で、組合もなく、暴力団まがいの経営者に泣かされた労働者たちである。彼らは、戦前の坑内労働そのままを受け継いで生きていた。上野英信は“地獄”の住人たちから地獄の話を聞きとっている。
『あなくり節』
♪ 汽車は炭ひく せっちん虫ゃ尾ひく 唐津下罪人はスラ(修羅)を曳く
唐津下罪人のスラ曳く姿 江戸の絵かきも かきゃきらぬ
七つ八つから カンテラさげて 坑内下がるも 親の罰
戦前の記録を中村政則著『労働者と農民~日本近代を支えた人々』(小学館ライブラリー)からみてみよう。
<石炭をぬきにして日本の工業化は、ほとんど考えることはできない。また、石炭は戦前日本の財閥のドル箱でもあった。
三井・三菱などの大財閥が巨大な富をきずきあげる基盤となったのも石炭産業であったし、麻生太吉・貝島太助・安川敬一郎が地元の炭鉱王として産をなし、筑豊(福岡県東北部)炭業界の御三家として名をはせることができたのも石炭のおかげであった。しかし、これら大財閥や地元炭鉱王の繁栄と名声は、疑いようもなく幾十万、幾百万とも知れぬ坑夫たちの、奴隷的労働のうえにきずきあげられたものであった。>
「富」の形成にはいろいろの方法があるだろう。ある種の特許品を開発して富をなした人もいる。戦時景気にのって軍への納入品で儲けた人もいる。農林畜産業で産を成した人もいる。「富」を築くにはそれなりの努力と運がつきものと言えるかも知れない。だが、一般庶民の場合は、宝くじで当てる以外、簡単に「富」が手にいる道理はない。コツコツ爪に火を灯すように子等の将来を思って貯えるしかないのだ。ところが、炭鉱王と呼ばれた事業主たちの「富」は、使役人を雑巾のように絞り上げて、本来ならかれ等のふところに帰すべき報酬を掠め取って築き上げられたものだった。中村政則は書いている。
<…炭鉱は、法の支配よりも、実力=暴力の支配する世界でもあった。
嫌な人繰り邪慳な堪場(かんば) 情知らずの納屋頭(なやがしら)
とうたわれたように、絶対の権限をもつ納屋頭が坑夫たちの生殺与奪の権をにぎり、坑夫を「半奴隷的」に制圧、支配していた。人繰りとは坑夫の入坑督励や欠勤者補充など、人のくりあわせをする納屋専属の世話人であり、勘場とは納屋での賃金会計所、あるいはその係の者である。明日をも知れぬ自己の生命に坑夫の気持ちはおのずとすさみ、炭鉱では飲酒・喧嘩・賭博・女遊びなどがたえなかった。>
奈良時代の金山、銀山の記録も残っているが、秋田の大葛金山や佐渡の金・銀山、それに足尾銅山のつらく哀しい「金掘り大工(坑夫)」の話は前に書いた。鉱山労働者は、昔から命がけの苛酷な労働を強いられていた。
二度と来まいぞ 金山(かなやま)地獄 来れば帰れる あてもない
竪坑三千尺 下れば地獄 死ねば廃坑の 土となる
佐渡金山で歌われた唄である。坑内労働が歴史的に苛酷であったのは事実である。だが、生産量の飛躍的拡大を遂げる近代において、労働の実態は大きく変化してきた。そのなかで特徴的なものを二つ挙げよう。
一つは、昭和の十五年戦争中には多くの「女坑夫」が存在したこと。
<女坑夫の数は昭和12年6月末現在で4097人、昭和13年6月末にはさらにふえて6862人となった。女坑夫は筑豊の炭鉱でとくに多かった。…
「わたしは昭和12年に、甘木(甘木市)からここに来ましたと。昭和16年2月に主人が怪我しました。採炭の函(はこ)出ししよって、函がどまぐれて(転倒して)ね。尻を30数針縫ったんですばい。足の親指も切れてさがっとりました。その入院中に労務(係)から来て、採炭に出ろ、出んならおなご(女)が坑内に下がれ、どっちもいやなら社宅を出てもらおう、というてなんべんも来ましたたい。まだ入院中ですばい。怪我人は動かせんからわたしが入りました。入りはじめはこわいですたい。採炭の後山(あとやま)は朝鮮(人)がしよりました。…」(森崎和江『まっくら~女坑夫からの聞書き』)>
二つには、現代でも未解決の政治問題「朝鮮人・中国人強制連行、強制労働」で、これはわが国現代史の隠しようもない恥部である。中村政則著からその一端をみてみよう。
<昭和49年4月、尾崎陞(のぼる)を団長とする朝鮮人強制連行真相調査団は、九州地方の調査をした。そのさい、『フクニチ』新聞の記者が随行取材し、同年4月27日付同紙は、57歳になる文有烈(ムンユリヨル)の証言を、つぎのようにまとめている。
「昭和18年の1月中旬。(結婚して半年もたたないかれが)新妻と一緒に夕食をとっていると、面(村)の役人と警察官がズカズカとあがりこんできた。「一緒に来い」。それはウムを言わせぬ強制力をもっていた。家の周囲を、大勢の警察官がとりまいていた。どこに連れて行かれるかもわからないまま面役場に到着すると、同じように連行された約50人と大型トラックに乗せられた。関釜(下関~釜山)連絡船の中で旧正月を迎えた。三日がかりで筑豊の麻生赤坂炭鉱へ。
文さんは妻のことを想い出しては毎晩泣いた。炭鉱について最初の三日間は坑内見学。四日目から仕事につかされた。それまでドンブリいっぱいの食事がとたんに少なくなった。午前5時に起きて朝食をとってもとうてい昼間でもちこたえるものではない。昼の弁当も一緒に食べても空腹は満たせなかった。弁当を先に食べていたことがばれると桜の木の棒でたたかれた。就労時間は午前6時から午後8時までという重労働。一度坑内に入ると仕事が終わるまであがれず、太陽を見るのは日曜日ぐらい。それも日曜日は、「自分の顔が写る」ぐらい水っぽいオカユしか与えられなかった。…
文さんの日給は二円だった。しかし金は見たこともない。日本人(の)労務(係)が「クニに送金してやる」といって全然現金を渡さなかったからだ。」>
昭和14年から20年にかけて115万人余の朝鮮人が、また昭和18年から20年に4万2000人の中国人が強制的に連行され、日本はまさに強制収容所列島と化していたという。「毎日、苛酷な強制労働にあえぎ、凄惨なリンチに怯え、また望郷の念にかられて「オモニ・ポコシッポ」(お母さん、会いたい」と心のなかで叫んだ。」と中村は書いているが、ここにも「炭鉱王“麻生”」の名が登場する。
時代は変わって、この「炭鉱王」の孫が宰相になった。現在生き残った強制連行・強制労働の当事者は少なくなったが、かれ等の貶められた悔しい記憶は決して消えてはいないはずだ。それを思うと、自国の歴史に慙愧の念が湧くとともに、過去の清算なしに次々に登場する厚顔な国の指導者を愧じずにおれない。宰相・“麻生太郎”の次の妄言を読み返せば、彼を宰相に選んだこの国のこころが病んでいるのではないかとさえ思えてくる。
【“麻生太郎”の妄言】
「下々の皆さん、こんにちは、麻生太郎です」(1997年総選挙の立会演説会)
「野中広務のような出身者を日本の総理にはできないわな~」(2001年)
「独断と偏見かもしれないが、私は金持ちのユダヤ人が住みたくなる国が一番いい国だと思っている」(2001年4月日本外国人特派員協会)
「創始改名は朝鮮人が望んだものだ。日本はハングル普及に貢献した」(2003年の東大の学園祭の講演)
「安さだけなら核(武装)のほうがはるかに安い」(2003年5月)
「高齢者の85%は周りが迷惑するくらい元気だ」(2006年9月)
「(日本の農産物輸出に関し)78,000と16,000円はどっちが高いか、アルツハイマーの人でも分かる」(2007年7月富山県高岡市の講演)
「消えた年金は突き合わせて受給者はもっと貰えるかもしれない。こらあ、欲の話だろう」(2007年12月)
「(従軍慰安婦の存在について)客観的に証拠はない」(2007年)
「アメリカの中東問題は解決できない。アメリカ人はブロンドで青い目だから。日本人は信頼される。幸い我々は黄色い顔だから」(2007年)
「ドイツは(野党だった)ナチスに一度やらせてみようということで政権を与えてしまった」(2008年8月4日、江田五月参議院議長を表敬訪問した際)
「これ(2008年8月末に愛知県などを襲った豪雨災害)が、安城もしくは岡崎だったからいいけど、この名古屋で同じことが起きたら、この辺全部洪水よ」(2008年9月14日、名古屋市で行われた自民党総裁選街頭演説)
国民の真っ当な意思で、この国が一日も早く甦ることを願うばかりだ。
そんな村の炭鉱では寡聞にして知らないが、日本の近代化を担った炭鉱史を覗き見れば、苛酷な労働に呻吟する人びとが多かったらしい。戦前ばかりではない。上野英信著『追われゆく坑夫たち』(岩波書店)によれば、1950年代の記録として想像を絶する炭鉱労働者が存在する。三井三池炭鉱など、日本の労働運動に輝かしい足跡を残した「炭労」の影で、組合もなく、暴力団まがいの経営者に泣かされた労働者たちである。彼らは、戦前の坑内労働そのままを受け継いで生きていた。上野英信は“地獄”の住人たちから地獄の話を聞きとっている。
『あなくり節』
♪ 汽車は炭ひく せっちん虫ゃ尾ひく 唐津下罪人はスラ(修羅)を曳く
唐津下罪人のスラ曳く姿 江戸の絵かきも かきゃきらぬ
七つ八つから カンテラさげて 坑内下がるも 親の罰
戦前の記録を中村政則著『労働者と農民~日本近代を支えた人々』(小学館ライブラリー)からみてみよう。
<石炭をぬきにして日本の工業化は、ほとんど考えることはできない。また、石炭は戦前日本の財閥のドル箱でもあった。
三井・三菱などの大財閥が巨大な富をきずきあげる基盤となったのも石炭産業であったし、麻生太吉・貝島太助・安川敬一郎が地元の炭鉱王として産をなし、筑豊(福岡県東北部)炭業界の御三家として名をはせることができたのも石炭のおかげであった。しかし、これら大財閥や地元炭鉱王の繁栄と名声は、疑いようもなく幾十万、幾百万とも知れぬ坑夫たちの、奴隷的労働のうえにきずきあげられたものであった。>
「富」の形成にはいろいろの方法があるだろう。ある種の特許品を開発して富をなした人もいる。戦時景気にのって軍への納入品で儲けた人もいる。農林畜産業で産を成した人もいる。「富」を築くにはそれなりの努力と運がつきものと言えるかも知れない。だが、一般庶民の場合は、宝くじで当てる以外、簡単に「富」が手にいる道理はない。コツコツ爪に火を灯すように子等の将来を思って貯えるしかないのだ。ところが、炭鉱王と呼ばれた事業主たちの「富」は、使役人を雑巾のように絞り上げて、本来ならかれ等のふところに帰すべき報酬を掠め取って築き上げられたものだった。中村政則は書いている。
<…炭鉱は、法の支配よりも、実力=暴力の支配する世界でもあった。
嫌な人繰り邪慳な堪場(かんば) 情知らずの納屋頭(なやがしら)
とうたわれたように、絶対の権限をもつ納屋頭が坑夫たちの生殺与奪の権をにぎり、坑夫を「半奴隷的」に制圧、支配していた。人繰りとは坑夫の入坑督励や欠勤者補充など、人のくりあわせをする納屋専属の世話人であり、勘場とは納屋での賃金会計所、あるいはその係の者である。明日をも知れぬ自己の生命に坑夫の気持ちはおのずとすさみ、炭鉱では飲酒・喧嘩・賭博・女遊びなどがたえなかった。>
奈良時代の金山、銀山の記録も残っているが、秋田の大葛金山や佐渡の金・銀山、それに足尾銅山のつらく哀しい「金掘り大工(坑夫)」の話は前に書いた。鉱山労働者は、昔から命がけの苛酷な労働を強いられていた。
二度と来まいぞ 金山(かなやま)地獄 来れば帰れる あてもない
竪坑三千尺 下れば地獄 死ねば廃坑の 土となる
佐渡金山で歌われた唄である。坑内労働が歴史的に苛酷であったのは事実である。だが、生産量の飛躍的拡大を遂げる近代において、労働の実態は大きく変化してきた。そのなかで特徴的なものを二つ挙げよう。
一つは、昭和の十五年戦争中には多くの「女坑夫」が存在したこと。
<女坑夫の数は昭和12年6月末現在で4097人、昭和13年6月末にはさらにふえて6862人となった。女坑夫は筑豊の炭鉱でとくに多かった。…
「わたしは昭和12年に、甘木(甘木市)からここに来ましたと。昭和16年2月に主人が怪我しました。採炭の函(はこ)出ししよって、函がどまぐれて(転倒して)ね。尻を30数針縫ったんですばい。足の親指も切れてさがっとりました。その入院中に労務(係)から来て、採炭に出ろ、出んならおなご(女)が坑内に下がれ、どっちもいやなら社宅を出てもらおう、というてなんべんも来ましたたい。まだ入院中ですばい。怪我人は動かせんからわたしが入りました。入りはじめはこわいですたい。採炭の後山(あとやま)は朝鮮(人)がしよりました。…」(森崎和江『まっくら~女坑夫からの聞書き』)>
二つには、現代でも未解決の政治問題「朝鮮人・中国人強制連行、強制労働」で、これはわが国現代史の隠しようもない恥部である。中村政則著からその一端をみてみよう。
<昭和49年4月、尾崎陞(のぼる)を団長とする朝鮮人強制連行真相調査団は、九州地方の調査をした。そのさい、『フクニチ』新聞の記者が随行取材し、同年4月27日付同紙は、57歳になる文有烈(ムンユリヨル)の証言を、つぎのようにまとめている。
「昭和18年の1月中旬。(結婚して半年もたたないかれが)新妻と一緒に夕食をとっていると、面(村)の役人と警察官がズカズカとあがりこんできた。「一緒に来い」。それはウムを言わせぬ強制力をもっていた。家の周囲を、大勢の警察官がとりまいていた。どこに連れて行かれるかもわからないまま面役場に到着すると、同じように連行された約50人と大型トラックに乗せられた。関釜(下関~釜山)連絡船の中で旧正月を迎えた。三日がかりで筑豊の麻生赤坂炭鉱へ。
文さんは妻のことを想い出しては毎晩泣いた。炭鉱について最初の三日間は坑内見学。四日目から仕事につかされた。それまでドンブリいっぱいの食事がとたんに少なくなった。午前5時に起きて朝食をとってもとうてい昼間でもちこたえるものではない。昼の弁当も一緒に食べても空腹は満たせなかった。弁当を先に食べていたことがばれると桜の木の棒でたたかれた。就労時間は午前6時から午後8時までという重労働。一度坑内に入ると仕事が終わるまであがれず、太陽を見るのは日曜日ぐらい。それも日曜日は、「自分の顔が写る」ぐらい水っぽいオカユしか与えられなかった。…
文さんの日給は二円だった。しかし金は見たこともない。日本人(の)労務(係)が「クニに送金してやる」といって全然現金を渡さなかったからだ。」>
昭和14年から20年にかけて115万人余の朝鮮人が、また昭和18年から20年に4万2000人の中国人が強制的に連行され、日本はまさに強制収容所列島と化していたという。「毎日、苛酷な強制労働にあえぎ、凄惨なリンチに怯え、また望郷の念にかられて「オモニ・ポコシッポ」(お母さん、会いたい」と心のなかで叫んだ。」と中村は書いているが、ここにも「炭鉱王“麻生”」の名が登場する。
時代は変わって、この「炭鉱王」の孫が宰相になった。現在生き残った強制連行・強制労働の当事者は少なくなったが、かれ等の貶められた悔しい記憶は決して消えてはいないはずだ。それを思うと、自国の歴史に慙愧の念が湧くとともに、過去の清算なしに次々に登場する厚顔な国の指導者を愧じずにおれない。宰相・“麻生太郎”の次の妄言を読み返せば、彼を宰相に選んだこの国のこころが病んでいるのではないかとさえ思えてくる。
【“麻生太郎”の妄言】
「下々の皆さん、こんにちは、麻生太郎です」(1997年総選挙の立会演説会)
「野中広務のような出身者を日本の総理にはできないわな~」(2001年)
「独断と偏見かもしれないが、私は金持ちのユダヤ人が住みたくなる国が一番いい国だと思っている」(2001年4月日本外国人特派員協会)
「創始改名は朝鮮人が望んだものだ。日本はハングル普及に貢献した」(2003年の東大の学園祭の講演)
「安さだけなら核(武装)のほうがはるかに安い」(2003年5月)
「高齢者の85%は周りが迷惑するくらい元気だ」(2006年9月)
「(日本の農産物輸出に関し)78,000と16,000円はどっちが高いか、アルツハイマーの人でも分かる」(2007年7月富山県高岡市の講演)
「消えた年金は突き合わせて受給者はもっと貰えるかもしれない。こらあ、欲の話だろう」(2007年12月)
「(従軍慰安婦の存在について)客観的に証拠はない」(2007年)
「アメリカの中東問題は解決できない。アメリカ人はブロンドで青い目だから。日本人は信頼される。幸い我々は黄色い顔だから」(2007年)
「ドイツは(野党だった)ナチスに一度やらせてみようということで政権を与えてしまった」(2008年8月4日、江田五月参議院議長を表敬訪問した際)
「これ(2008年8月末に愛知県などを襲った豪雨災害)が、安城もしくは岡崎だったからいいけど、この名古屋で同じことが起きたら、この辺全部洪水よ」(2008年9月14日、名古屋市で行われた自民党総裁選街頭演説)
国民の真っ当な意思で、この国が一日も早く甦ることを願うばかりだ。