耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“労働とは何か”を教わった今村仁司氏逝く

2007-05-10 12:08:47 | Weblog
 1997年から99年にかけて私は、国立国会図書館と町田市の法政大学大原社会問題研究所にちょくちょくかよっていた。一冊の本を上梓するためである。大原社会問題研究所は西八王子駅からバスで20分ほどの法政大学多摩キャンパス内にある。はじめて訪ねた時私は、研究所の受付で「労働論」に関する和書一覧表をみせて欲しいと依頼した。書籍・雑誌あわせて106件あるなかからその日選び出したのは雑誌『労働史研究』(1984.4)所載の「今村仁司/労働論の新生のために」だった。私が今村仁司(いまむらひとし)氏を知ったきっかけである。

 「労働論の新生は、労働の意味を考えることから始まる」という書き出しのこの論文はA5版2段組20頁のものだが、手元に残るコピーをざっと読み返してみても、「労働」を理解するにきわめて適切な手引きであることがわかる。その一節に「1960年代後半あたりから、労働への思索がだんだんと減少する。労働問題も労働運動も、それほど重味がなくなった」とあり、さらに「労働に代わって登場したのが、消費である。高度成長の時代は、大衆消費の時代である。消費への熱い関心とうらはらに、労働への関心はさびしく舞台から退場する。」と書かれている。いま思い返せば、その当時、中央の労働界に身をおいていた立ち場から「合点」のいく指摘である。

 もう一点、「労働の空虚化」のいきつく先として述べている。
「ひとびとは、より充実した労働体験を求めて、農村へ、山村へ、漁村へと出向く。一方で技術革新のたえざる展開の場となる労働現場があり、他方で、より素朴な、アンチックな労働体験への激しい渇望がある。」
 論文発表から20年後のこんにち、この現象はさらに顕著になっていると言えまいか。

 拙著『労働組合は死んだ』の表紙見開きに、今村仁司著『仕事』から含蓄のある結びの文を拝借させていただいた。

 <現代の課題は依然として「奴隷制からの解放」なのである。人類はかつて一度も奴隷制を解体したことはない。果して今後人類が奴隷制から離脱しうるか否かは、ひとえに労働の実質の変革にかかっている。>

 こんにち、ニート、フリーター、ワーキングプアなど卑俗な言葉が登場しているが、「労働の変容」を注視してきた今村仁司氏がこうした現象をどう観ていたか私は知らない。だが、次の言葉からおよその見当はつく。

 <遊戯性と結合した「労働」を仕事とよぶ。近代では、人間的諸活動が労働一般に解消する傾向が強いが、この傾向を逆転させて「労働の仕事化」を構想するのが「労働からの解放」の理念であった。…「労働の解放」とは、単に外的強制条件を撤廃することにとどまらず(そこで停止するとラディカルな労働社会=「煉獄的」社会が生まれる)、「労働」自体の奴隷的性格を廃棄することである。…>(『仕事』/弘文堂)

 ワーキングプアなどの存在する現実は「煉獄的社会」というべきだろうか。

 毎日新聞記事には「80年代、ニューアカデミズムブーム火付け役の一人」で、近年は「明治期の宗教哲学者、清沢満之を研究していた」とあるが、65歳とは若すぎる。ご冥福を祈りたい。