20年前の5月16日、私は9泊10日の中国東北地方への旅に出た。
旅の一つの課題だった中国側との会談を終え、18日、北京空港09:55発でハルピンに向け出発、10:35ハルピン空港に着いた。空港から市内への道路は新しく建設中で、幅およそ100mはあろうかと思える道路が、丁度、天安門前を想像させるように一直線に延びている。その両端にはかなり大きく育ったポプラの木が整然と立ち並び、出迎えの案内人によると、この道路建設を予定して随分前に植えられたものだという。解放後、人民大会堂を11ヶ月で造ったとか、北京駅を数ヶ月で仕上げたなど、中国という国のやり方はわれわれの尺度では測れないところがある。
ハルピンは異国情緒豊かな巨大都市だった。この日は斯大林公園、地段街を散策、松花江遊覧などで過ごし、翌日12:55、伊藤博文が暗殺されたハルピン駅を発ってチチハルに向ったが、実はこの時、このハルピン市内の一角に≪闇の部隊≫が存在していたことを私は迂闊にも知らなかった。“731部隊”を題材にした森村誠一の『悪魔の飽食』(角川文庫)を読んだのは後のことである。
参照:「悪魔の飽食」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E9%A3%BD%E9%A3%9F
“731部隊”については未だ闇の部分が多いと言われているが、そんななか、去る4月9日の「読売新聞(中部)」は<病原体の生体実験 毎日2~3人解剖>と題しつぎのニュースを掲載した。
<旧日本軍731部隊の衛生兵(早稲田大で細菌学を学ぶ)だった三重県尾鷲市の大川福松さん(88)が8日、大阪市で開かれた国際シンポジュウム『戦争と医の倫理』に出席、「毎日2~3体、生きた人を解剖した」と証言した。当時の体験を人前で明かしたのは初めてで、「不正なことは、社会に、はっきり示さなあかんと思うようになった」と語った。>
731部隊を見て分かるとおり、日本軍の生物化学兵器研究者は最高学府を卒業した者が多く、その研究者のほとんどが戦後の大学医学部に戻り、日本医学会の重鎮に納まったので、731部隊についてタブー視する傾向が強かったが、近年、旧幹部の引退でそのタブーが除かれつつあり、この記事に見られるように関係者の新たな証言が続いているのである。
参照:「731部隊」http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A
「七三一部隊元隊員証言記録」http://tenjin.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm
現在、最も信頼できる「731部隊」のドキュメント記録は青木冨美子著『731』だろう。わが国の一部勢力が歴史を直視しようとせず近・現代史の改竄に執着しているようだが、隠蔽しようとすればするほど綻びがひろがるのが過去の教訓でもある。「731部隊」の正体が明らかになり、これが戦犯として裁かれればその責が「天皇」に及びかねないと怖れ、ハルピンの巨大な施設は消され、家族を含む関係した人物や資料はソ連の侵入前にいち早く国内に逃避した。占領軍最高司令官マッカーサーが厚木に降り立ち最初に言った言葉が「ルーテナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」だったことでわかるとおり、アメリカの「禁断の兵器」への執着は異常なほど強く、それが「731部隊」との裏取引を生んだというのが大方の見方である。本書はその経緯を丹念に追いつつ新資料の発見に結びつけ、本文を次のように結んでいる。
<「終戦メモ1946」に記された11月20日のアメリカ将校との会談は、巣鴨刑務所に繋がれ裁かれるはずだった石井四郎が土壇場で手に入れた唯一、生き延びるための扉だった。かつての石井部隊隊長は彼らの研究を米国へ手渡し、しかも自宅で「若松荘」を営むことを強要されたのである。細菌兵器という妖怪に取り憑かれた石井四郎というマッド・サイエンティストは、こうしてひとりの平凡で小心な男になった。
石井四郎という男は、生き延びるために何でも受け入れた。組織を挙げて秘密にしていた「禁断の兵器」についての研究を売り渡し、サバイバルの方法を手に入れた石井四郎には、もはや軍人の矜持もなければ、科学者の狂気もなかった。彼に取り憑いた「妖怪」はその居場所を変え、石井四郎から遥かに離れていった。>
石井四郎の片腕だった内藤良一は戦犯を逃れたあと米軍に取り入り「ブラッド・バンク」(ミドリ十字の前身)を設立、のちに「薬剤エイズ事件」を引き起こす。一時731部隊隊長を努めた北野政次はこの会社の顧問だった。
戦争責任を問われなかった天皇、A級戦犯だった岸信介が総理大臣になるなど、その負の遺産を背負ったまま今日のわが国が存在する。あすは「憲法記念日」。あの戦争の決着はまだついていないことを痛感しつつ、わが国の憲法に思いを寄せてみたい。
旅の一つの課題だった中国側との会談を終え、18日、北京空港09:55発でハルピンに向け出発、10:35ハルピン空港に着いた。空港から市内への道路は新しく建設中で、幅およそ100mはあろうかと思える道路が、丁度、天安門前を想像させるように一直線に延びている。その両端にはかなり大きく育ったポプラの木が整然と立ち並び、出迎えの案内人によると、この道路建設を予定して随分前に植えられたものだという。解放後、人民大会堂を11ヶ月で造ったとか、北京駅を数ヶ月で仕上げたなど、中国という国のやり方はわれわれの尺度では測れないところがある。
ハルピンは異国情緒豊かな巨大都市だった。この日は斯大林公園、地段街を散策、松花江遊覧などで過ごし、翌日12:55、伊藤博文が暗殺されたハルピン駅を発ってチチハルに向ったが、実はこの時、このハルピン市内の一角に≪闇の部隊≫が存在していたことを私は迂闊にも知らなかった。“731部隊”を題材にした森村誠一の『悪魔の飽食』(角川文庫)を読んだのは後のことである。
参照:「悪魔の飽食」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E9%A3%BD%E9%A3%9F
“731部隊”については未だ闇の部分が多いと言われているが、そんななか、去る4月9日の「読売新聞(中部)」は<病原体の生体実験 毎日2~3人解剖>と題しつぎのニュースを掲載した。
<旧日本軍731部隊の衛生兵(早稲田大で細菌学を学ぶ)だった三重県尾鷲市の大川福松さん(88)が8日、大阪市で開かれた国際シンポジュウム『戦争と医の倫理』に出席、「毎日2~3体、生きた人を解剖した」と証言した。当時の体験を人前で明かしたのは初めてで、「不正なことは、社会に、はっきり示さなあかんと思うようになった」と語った。>
731部隊を見て分かるとおり、日本軍の生物化学兵器研究者は最高学府を卒業した者が多く、その研究者のほとんどが戦後の大学医学部に戻り、日本医学会の重鎮に納まったので、731部隊についてタブー視する傾向が強かったが、近年、旧幹部の引退でそのタブーが除かれつつあり、この記事に見られるように関係者の新たな証言が続いているのである。
参照:「731部隊」http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A
「七三一部隊元隊員証言記録」http://tenjin.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm
現在、最も信頼できる「731部隊」のドキュメント記録は青木冨美子著『731』だろう。わが国の一部勢力が歴史を直視しようとせず近・現代史の改竄に執着しているようだが、隠蔽しようとすればするほど綻びがひろがるのが過去の教訓でもある。「731部隊」の正体が明らかになり、これが戦犯として裁かれればその責が「天皇」に及びかねないと怖れ、ハルピンの巨大な施設は消され、家族を含む関係した人物や資料はソ連の侵入前にいち早く国内に逃避した。占領軍最高司令官マッカーサーが厚木に降り立ち最初に言った言葉が「ルーテナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」だったことでわかるとおり、アメリカの「禁断の兵器」への執着は異常なほど強く、それが「731部隊」との裏取引を生んだというのが大方の見方である。本書はその経緯を丹念に追いつつ新資料の発見に結びつけ、本文を次のように結んでいる。
<「終戦メモ1946」に記された11月20日のアメリカ将校との会談は、巣鴨刑務所に繋がれ裁かれるはずだった石井四郎が土壇場で手に入れた唯一、生き延びるための扉だった。かつての石井部隊隊長は彼らの研究を米国へ手渡し、しかも自宅で「若松荘」を営むことを強要されたのである。細菌兵器という妖怪に取り憑かれた石井四郎というマッド・サイエンティストは、こうしてひとりの平凡で小心な男になった。
石井四郎という男は、生き延びるために何でも受け入れた。組織を挙げて秘密にしていた「禁断の兵器」についての研究を売り渡し、サバイバルの方法を手に入れた石井四郎には、もはや軍人の矜持もなければ、科学者の狂気もなかった。彼に取り憑いた「妖怪」はその居場所を変え、石井四郎から遥かに離れていった。>
石井四郎の片腕だった内藤良一は戦犯を逃れたあと米軍に取り入り「ブラッド・バンク」(ミドリ十字の前身)を設立、のちに「薬剤エイズ事件」を引き起こす。一時731部隊隊長を努めた北野政次はこの会社の顧問だった。
戦争責任を問われなかった天皇、A級戦犯だった岸信介が総理大臣になるなど、その負の遺産を背負ったまま今日のわが国が存在する。あすは「憲法記念日」。あの戦争の決着はまだついていないことを痛感しつつ、わが国の憲法に思いを寄せてみたい。