美輪明宏のヒット曲に『ヨイトマケの唄』(1966年)がある。
♪ 父ちゃんのためなら エンヤコラ
母ちゃんのためなら エンヤコラ
もひとつおまけに エンヤコラ
1.今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
工事現場の昼休み
たばこふかして 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
働く土方の あの唄が
貧しい土方の あの唄が
(この「土方」が禁止句としてこの唄をNHKでは放送中止とした)
高校に入学したのは1950(昭和25)年4月だが、卒業までの夏・冬・春の休みの間はほとんどアルバイトで過ごした。隣り村の石切り場や村にある大きな堤の築堤工事など、多くはいわゆる「土方(どかた)」だった。何人かの仲間と組んで出かけたが、築堤工事では、われわれが「モッコ担ぎ」をするかたわらで、「“カァちゃん”土方」たちが唄の調子に合わせて「ヨイトマケ」をしていた。そこで彼女たちが歌っていた唄はたいてい「卑猥」な唄で、笑いを含んで未成年のわれわれを挑発する手合いのものだった。まだ、昔のいろんな因習が色濃く残っていた田舎の時代である。美輪明宏の『ヨイトマケの唄』の舞台もそれと相前後する時代の活写と言えるだろう。
民俗学者・宮本常一が、辺境の地で黙々と生きていた日本人の存在を浮かび上がらせた書『忘れられた日本人』(岩波現代文庫)は、村のカァちゃんたちに「冷やかされた」あの頃の記憶を強烈に呼び戻す。決して楽ではない生活、いや楽ではないからこそ明るく振舞う女たちは、「卑猥」な唄を介して労働から解放される。次の記述はどうだろう。ラジオやテレビが普及しだした頃の中国地方での聞き書きである。
<「田植がたのしみで待たれるような事はなくなりました」。田を植えつつ老女の一人がこう話してくれた。田植のような労働が大きな痛苦として考えられはじめたのは事実である。それには女の生き方もかわって来たのであろう。やはり早乙女話の一つに、
「この頃は面白い女(おなご)も少うなったのう……」
「ほんに、もとには面白い女が多かった。男をかもうたり、冗談言うたり……ああ言う事が今はなくなった」
「そう言えば観音様(隣村にいた女)はおもしろい女じゃった」
「ありゃ、どうして観音様って言うんじゃろうか」
「あんたそれを知らんので」
「知らんよ……。観音様でもまつってあったんじゃろか」
「何が仏様をまつるようなもんじゃろか。一人身で生涯通したような女じゃけえ、神様も仏様もいらだった」
「なして観音様ったんじゃろうか」
「観音様ってあれの事よ」
「あれって?」
「あんたも持っちょろうが!」
「いやど、そうの……」
「あれでもう三十すぎのころじゃったろうか。観音様が腰巻一つでつくのうじょって(うずまって)いたんといの。昔の事じゃのう。ズロースはしておらんし、モンペもはいておらんから、自分は腰巻していると思うても、つくなめば前から丸見えじゃろうが……」
「いやど、そがいな話の……」
「そうよ、それを近所の若い者が、前へまたつくなんで、話しながら、チラチラ下を見るげな。「あんたどこを見ちょるんの」って観音様が例の調子でどなりつけたら、若いのが「観音様が開帳しているので、拝ましてもろうちょるのよ」と言ったげな。そしたら「観音様がそがいに拝みたいなら、サァ拝みんさい」って前をまくって男の鼻さきへつきつけたげな。男にとって何ぼええもんでも鼻の先へつきつけられたら弱ってのう、とんでにげたんといの。それからあんた、観音様って言うようになったんといの。それからあんた、若い者でも遊びにでも行こうものなら「あんた観音様が拝みたいか」っておいかえしたげな」
「わしゃ足が大けえてのう、十文三分はくんじゃが……」
「足の大けえもんは穴も大けえちうが……」
「ありゃ、あがいなことを、わしらあんまり大けえないで」
「なあに、足あとの穴が大けえって言うとるのよ」
「穴が大けえと、埋めるのに骨がおれるけに」
「よっぽど元気のええ男でないとよう埋めまいで……」
「またあがいなことを……」
これも田を植えながらの早乙女たちの話である。植縄をひいて正条植をするようになって田植歌が止んだ。田植歌が止んだからと言ってだまって植えるわけではない。たえずしゃべっている。その話のほとんどがこんな話である。
「この頃は神様も面白うなかろうのう」
「なしてや……」
「みんなモンペをはいて田植するようになったで」
「へえ?」
「田植ちうもんはシンキなもんで、なかなかハカが行きはせんので、田の神様を喜ばして、田植を手伝うてもろうたもんじゃちうに」
「そうじゃろうか?」
「そうといの、モンペをはかずにへこ(腰巻)だけじゃと下から丸見えじゃろうが田の神さまがニンマリニンマリして……」
「手がつくまいにのう(仕事にならないだろう)」
「誰のがええ彼のがええって見ていなさるちうに」
「ほんとじゃろうか」
「ほんとといの。やっぱり、きりょうのよしあしがあって、顔のきりょうのよしあしとはちがうげな」
「そりゃそうじゃろうのう、ぶきりょうでも男にかわいがられるもんがあるけえ……」
「顔のよしあしはすぐわかるが、観音様のよしあしはちょいとわからんで……」 「それじゃからいうじゃないの、馬にはのって見いって」
こうした話が際限もなくつづく。
「見んされ、つい一まち(一枚)植えてしもうたろうが」
「はやかったの」
「そりゃあんた神さまがお喜びじゃで……」
「わしもいんで(帰って)亭主を喜ばそうっと」>
なんとおおらかな人たちだろう。ここには『古事記』の世界が垣間見える。これが半世紀前に生きていたわが国の人たちとは信じ難くなった自分が、何ともみすぼらしい人間になったものだと思えてくる。
♪ 父ちゃんのためなら エンヤコラ
母ちゃんのためなら エンヤコラ
もひとつおまけに エンヤコラ
1.今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
工事現場の昼休み
たばこふかして 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
働く土方の あの唄が
貧しい土方の あの唄が
(この「土方」が禁止句としてこの唄をNHKでは放送中止とした)
高校に入学したのは1950(昭和25)年4月だが、卒業までの夏・冬・春の休みの間はほとんどアルバイトで過ごした。隣り村の石切り場や村にある大きな堤の築堤工事など、多くはいわゆる「土方(どかた)」だった。何人かの仲間と組んで出かけたが、築堤工事では、われわれが「モッコ担ぎ」をするかたわらで、「“カァちゃん”土方」たちが唄の調子に合わせて「ヨイトマケ」をしていた。そこで彼女たちが歌っていた唄はたいてい「卑猥」な唄で、笑いを含んで未成年のわれわれを挑発する手合いのものだった。まだ、昔のいろんな因習が色濃く残っていた田舎の時代である。美輪明宏の『ヨイトマケの唄』の舞台もそれと相前後する時代の活写と言えるだろう。
民俗学者・宮本常一が、辺境の地で黙々と生きていた日本人の存在を浮かび上がらせた書『忘れられた日本人』(岩波現代文庫)は、村のカァちゃんたちに「冷やかされた」あの頃の記憶を強烈に呼び戻す。決して楽ではない生活、いや楽ではないからこそ明るく振舞う女たちは、「卑猥」な唄を介して労働から解放される。次の記述はどうだろう。ラジオやテレビが普及しだした頃の中国地方での聞き書きである。
<「田植がたのしみで待たれるような事はなくなりました」。田を植えつつ老女の一人がこう話してくれた。田植のような労働が大きな痛苦として考えられはじめたのは事実である。それには女の生き方もかわって来たのであろう。やはり早乙女話の一つに、
「この頃は面白い女(おなご)も少うなったのう……」
「ほんに、もとには面白い女が多かった。男をかもうたり、冗談言うたり……ああ言う事が今はなくなった」
「そう言えば観音様(隣村にいた女)はおもしろい女じゃった」
「ありゃ、どうして観音様って言うんじゃろうか」
「あんたそれを知らんので」
「知らんよ……。観音様でもまつってあったんじゃろか」
「何が仏様をまつるようなもんじゃろか。一人身で生涯通したような女じゃけえ、神様も仏様もいらだった」
「なして観音様ったんじゃろうか」
「観音様ってあれの事よ」
「あれって?」
「あんたも持っちょろうが!」
「いやど、そうの……」
「あれでもう三十すぎのころじゃったろうか。観音様が腰巻一つでつくのうじょって(うずまって)いたんといの。昔の事じゃのう。ズロースはしておらんし、モンペもはいておらんから、自分は腰巻していると思うても、つくなめば前から丸見えじゃろうが……」
「いやど、そがいな話の……」
「そうよ、それを近所の若い者が、前へまたつくなんで、話しながら、チラチラ下を見るげな。「あんたどこを見ちょるんの」って観音様が例の調子でどなりつけたら、若いのが「観音様が開帳しているので、拝ましてもろうちょるのよ」と言ったげな。そしたら「観音様がそがいに拝みたいなら、サァ拝みんさい」って前をまくって男の鼻さきへつきつけたげな。男にとって何ぼええもんでも鼻の先へつきつけられたら弱ってのう、とんでにげたんといの。それからあんた、観音様って言うようになったんといの。それからあんた、若い者でも遊びにでも行こうものなら「あんた観音様が拝みたいか」っておいかえしたげな」
「わしゃ足が大けえてのう、十文三分はくんじゃが……」
「足の大けえもんは穴も大けえちうが……」
「ありゃ、あがいなことを、わしらあんまり大けえないで」
「なあに、足あとの穴が大けえって言うとるのよ」
「穴が大けえと、埋めるのに骨がおれるけに」
「よっぽど元気のええ男でないとよう埋めまいで……」
「またあがいなことを……」
これも田を植えながらの早乙女たちの話である。植縄をひいて正条植をするようになって田植歌が止んだ。田植歌が止んだからと言ってだまって植えるわけではない。たえずしゃべっている。その話のほとんどがこんな話である。
「この頃は神様も面白うなかろうのう」
「なしてや……」
「みんなモンペをはいて田植するようになったで」
「へえ?」
「田植ちうもんはシンキなもんで、なかなかハカが行きはせんので、田の神様を喜ばして、田植を手伝うてもろうたもんじゃちうに」
「そうじゃろうか?」
「そうといの、モンペをはかずにへこ(腰巻)だけじゃと下から丸見えじゃろうが田の神さまがニンマリニンマリして……」
「手がつくまいにのう(仕事にならないだろう)」
「誰のがええ彼のがええって見ていなさるちうに」
「ほんとじゃろうか」
「ほんとといの。やっぱり、きりょうのよしあしがあって、顔のきりょうのよしあしとはちがうげな」
「そりゃそうじゃろうのう、ぶきりょうでも男にかわいがられるもんがあるけえ……」
「顔のよしあしはすぐわかるが、観音様のよしあしはちょいとわからんで……」 「それじゃからいうじゃないの、馬にはのって見いって」
こうした話が際限もなくつづく。
「見んされ、つい一まち(一枚)植えてしもうたろうが」
「はやかったの」
「そりゃあんた神さまがお喜びじゃで……」
「わしもいんで(帰って)亭主を喜ばそうっと」>
なんとおおらかな人たちだろう。ここには『古事記』の世界が垣間見える。これが半世紀前に生きていたわが国の人たちとは信じ難くなった自分が、何ともみすぼらしい人間になったものだと思えてくる。