まず最近の不思議な現象に、NHKの「大リーグ」情報量の多さがある。テレビはNHKのニュースと囲碁番組ぐらいしか見ないから詳しくはわからないが、スポーツニュースはいつも大リーグ中心で、新聞の放送番組欄を見るとNHK 衛星第1ではほとんど毎日大リーグの試合を放送している。NHKは何でこれほど大リーグに力を入れるのだろうか。不思議でならない。これに如何ほどの費用を費やしているのか知らないが、スポーツの健全振興のためにカネの使い道はいくらでもありそうなものである。
私がスポーツに目覚めたのは、敗戦翌年、小学校6年生の時、ソフトボール県大会で準優勝して以来のことである。田舎の小学校が県庁所在地の有名小学校と優勝を争い惜しくも敗れたことは今も語り草になっているが、ボール、バットをはじめグローブもほとんど手作りで、運動靴も靴底がはがれそうになったのを紐でくくって履いていた。田舎から地区代表として汽車で1時間余のS市の旅館に逗留したが、各自米持参だったのを憶えている。アフリカや中南米の子どもたちがハダシでサッカーボール(らしいもの)を蹴って遊んでいるテレビ映像が写ると、なんだか自分の子ども時代を彷彿させられる。
高校ではサッカー部に入ったが、部員が少なく1年からレギュラーとして試合に出された。専門の指導者もいなかったし、県でサッカー部があるのは5校しかなく、そのころサッカーはまだマイナーなスポーツだった。男臭い部室はまるで靴屋のようで、スパイクの底についている擦り切れたり、剥がれたりしたポイントの修理が欠かせない仕事なのだ。砂地のグランドでスライディングをするのだから太ももの外側はいつも摺り剥けて血が滲み出ている。地元密着のJリーグが盛んになり、すばらしい芝の球場で熱戦を繰り広げているのを見ると隔世の観がある。
造船所に就職してサッカー部を創設し、養成工生徒の入部も呼びかけ対外試合ができるようになると、入港した英国、豪州軍艦などの乗組員と親善試合に呼ばれたが、猛牛と格闘するようで話にならなかった。いずれにしても、スポーツは体育としてのみならず精神衛生上の優れものと言えるだろう。
石原慎太郎がオリンピック招致を吹聴しているが、都民は何でこんな男を支持するのかこれまた不思議でならない。「地球の破滅」さえ囁かれているこんにち、莫大な費用と環境破壊、それに国威発揚のナショナリズムを発散する「祭典」が有意義だとはとても思えないからだ。ハダシの子どもたちにサッカーボールをプレゼントした方がずっとましだ。
もう一つ不思議なのは、プロスポーツ選手の桁外れの契約金である。カネまみれの国アメリカ発の悪習なのかも知れないが、これが健全なスポーツと言えるだろうか。おそらくこの影響だろう、ちょっと才能のあるスポーツ選手の親は、まるでわが子を「金のなる木」のように育てているのがいる。親というより、これに目をつけた「業界」の連中が早い段階で「ツバ」をつけているのだろう。
陸上競技で走り幅跳びや走り高跳びなどの選手が観衆席に拍手を求める姿をテレビが写しているが、これまた不思議な光景である。わざわざ雑音を耳にせずとも静かに精神を集中させて競技に臨んだがよさそうなものなのになんでだろう。これは競技の「ショー化」と関係があるのかも知れない。女子マラソンで水着ショーと見紛う衣装で走る選手がいるし、また、新庄選手のような派手な野球選手の例もある。ママさんバレーでもユニフォームはファッション性たっぷりで見栄えがいい。
私の時代のスポーツは影も形もなくなった。完備された競技場で派手な演技を繰り広げる選手たちを見ながら、私は昔が懐かしい。スポーツにみずみずしい処女性があった。そんな時代を過ごせたことに感謝したい。
私がスポーツに目覚めたのは、敗戦翌年、小学校6年生の時、ソフトボール県大会で準優勝して以来のことである。田舎の小学校が県庁所在地の有名小学校と優勝を争い惜しくも敗れたことは今も語り草になっているが、ボール、バットをはじめグローブもほとんど手作りで、運動靴も靴底がはがれそうになったのを紐でくくって履いていた。田舎から地区代表として汽車で1時間余のS市の旅館に逗留したが、各自米持参だったのを憶えている。アフリカや中南米の子どもたちがハダシでサッカーボール(らしいもの)を蹴って遊んでいるテレビ映像が写ると、なんだか自分の子ども時代を彷彿させられる。
高校ではサッカー部に入ったが、部員が少なく1年からレギュラーとして試合に出された。専門の指導者もいなかったし、県でサッカー部があるのは5校しかなく、そのころサッカーはまだマイナーなスポーツだった。男臭い部室はまるで靴屋のようで、スパイクの底についている擦り切れたり、剥がれたりしたポイントの修理が欠かせない仕事なのだ。砂地のグランドでスライディングをするのだから太ももの外側はいつも摺り剥けて血が滲み出ている。地元密着のJリーグが盛んになり、すばらしい芝の球場で熱戦を繰り広げているのを見ると隔世の観がある。
造船所に就職してサッカー部を創設し、養成工生徒の入部も呼びかけ対外試合ができるようになると、入港した英国、豪州軍艦などの乗組員と親善試合に呼ばれたが、猛牛と格闘するようで話にならなかった。いずれにしても、スポーツは体育としてのみならず精神衛生上の優れものと言えるだろう。
石原慎太郎がオリンピック招致を吹聴しているが、都民は何でこんな男を支持するのかこれまた不思議でならない。「地球の破滅」さえ囁かれているこんにち、莫大な費用と環境破壊、それに国威発揚のナショナリズムを発散する「祭典」が有意義だとはとても思えないからだ。ハダシの子どもたちにサッカーボールをプレゼントした方がずっとましだ。
もう一つ不思議なのは、プロスポーツ選手の桁外れの契約金である。カネまみれの国アメリカ発の悪習なのかも知れないが、これが健全なスポーツと言えるだろうか。おそらくこの影響だろう、ちょっと才能のあるスポーツ選手の親は、まるでわが子を「金のなる木」のように育てているのがいる。親というより、これに目をつけた「業界」の連中が早い段階で「ツバ」をつけているのだろう。
陸上競技で走り幅跳びや走り高跳びなどの選手が観衆席に拍手を求める姿をテレビが写しているが、これまた不思議な光景である。わざわざ雑音を耳にせずとも静かに精神を集中させて競技に臨んだがよさそうなものなのになんでだろう。これは競技の「ショー化」と関係があるのかも知れない。女子マラソンで水着ショーと見紛う衣装で走る選手がいるし、また、新庄選手のような派手な野球選手の例もある。ママさんバレーでもユニフォームはファッション性たっぷりで見栄えがいい。
私の時代のスポーツは影も形もなくなった。完備された競技場で派手な演技を繰り広げる選手たちを見ながら、私は昔が懐かしい。スポーツにみずみずしい処女性があった。そんな時代を過ごせたことに感謝したい。