耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“虐殺”現場を訪ねて~中国・撫順市平頂山殉難同胞遺骨館

2007-04-05 21:29:54 | Weblog
 “虐殺”現場がそのまま発掘され、累々と横たわる膨大な数の遺骸が見る者の目を射る。阿鼻叫喚そのままの空気が、時を経て館内に鬼哭しゅう(口偏に秋)しゅうとして漂う。長い楕円の順路を廻るあいだ私は、「なぜ?」「なぜ?」と心中で反芻し続けていた。

 幼子(おさなご)を ひしと抱きしむ 母子(おやこ)あり
       ただ祈るのみ 南無阿弥陀仏

 同行のY氏の歌だが、「恨」の形相で迫る遺骸に、いつしか掌を合わせ念仏を唱えるしかなかった。

 「平頂山事件」は1932年9月16日の出来事である。
 
 「平頂山事件」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%82%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 
 この年3月1日、日本の傀儡国家「満州国」の建国宣言がなされ、現地では不穏な情勢が続いていた。事件2日後の9月18日は満州事変から1周年にあたり、反満抗日武力抵抗(俗に匪賊という)は総決起の構えであった。これに対し満州国を実質支配する関東軍は「匪賊」の掃討作戦を徹底し、農民に変身しては襲撃を繰り返す神出鬼没の「匪賊」を追って、各地の村民に酷い危害を加えることも少なくなかった。平頂山村の虐殺はそのもっとも凄惨な例である。

 日本の敗戦後、事件の関係者は、<国民政府の戦犯法廷で裁かれたが、直接実行者である井上清一中尉(当時)はじめ軍関係者はすでに他の地に去っており、逮捕を免れた。代わって現地に留まっていた炭鉱関係の民間人11名が逮捕され、1948年1月3日、うち7名が死刑判決を下され、同年4月19日に刑が執行された。死刑になった民間人たちは、実際には事件との関係は薄かったと見られている>(wikipedea)

 直接実行者とされる井上清一中尉とはどういう人物か。ここから澤地久枝著『昭和史のおんな』(文芸春秋・1980年初版)にある「井上中尉夫人“死の餞別”」をみてみよう。

 井上中尉夫妻は大阪住吉区に住んでいた。井上中尉は数えの29歳、千代子夫人は岸和田高女を卒業したばかりの21歳。結婚した翌年の昭和6年12月13日、井上中尉は部下とともに満州へ出征することになっていた。その前日夕方、自宅に戻ると異変があった。

 <井上中尉が自宅玄関まできて、「井上は終日連隊にあり、御用の方はその方に」と貼り紙がしてあるのを不審に思った。玄関をあがるとただならぬ喘鳴がきこえる。奥座敷に駆け込んだ夫がみたのは、六畳の部屋に白木綿をしきつめ、刃渡り1尺の白鞘の短刀で右咽頭部を切り、ほとばしる鮮血の海によこたわって最後の息をひきとろうとしている妻の姿であった>

 遺書が3通残されて<台所には夫の首途(かどで)を祝うべく、赤飯と鯛の準備がしてあった>という。澤地は、千代子の自害が何に起因するか今も謎だと書いているが、ここから事態は異様な展開を始める。<戦地に赴く軍人と死をもってその夫を送る妻ーこの自決事件は、昭和6年末にあっては、戦争に傾斜しようとする時代の趨勢をさきどりし、女性のあるべき役割を示唆するのに都合のよい、格好の出来事であった>。

 井上中尉は「出発を延期することは自害した妻の意思に反する」と言って、翌13日予定通り出発する。事件が公表されたのはこの後である。<井上千代子の葬儀は、12月15日第37連隊将校団によって阿倍野新斎場でおこなわれた。会葬者1500余、母校の岸和田高女はこの日臨時休校とし、全職員他400名が参列…>とある。 国粋大衆党総裁笹川良一も弔辞を述べている。

 <…壮烈崇高鬼神を泣かしむ故女史の夫君に対する餞別死は日本婦道を中外に宣揚したるものにして大日本全国民を感激せしめたり。その薫烈たる遺芳は永く世風婦道の亀鑑たり…>

 こうして美談が仕立てられ、四つの映画会社が陸軍当局の許可を得て映画化する。翌7年3月には「大阪国防婦人会」が陸軍の直接指導下で発足、2年後「大日本国防婦人会」へと発展、会員数55万人を擁する団体(10年後には1千万人)になった。井上中尉夫人の自刃がきっかけという。

 <井上清一は朝鮮で勤務中の昭和10年に再婚したのち、陸士の区隊長をつとめ、18年1月に陸軍大学校専科を卒業していることがわかった。その後、参謀として広島県呉市に勤務、中佐で敗戦をむかえている。…井上自身は、44年8月にパーキンソン氏病で亡くなっていた。>

 『戦争と人間』の著者五味川純平の資料助手をしていただけに澤地久枝の調査は徹底している。澤地は<今度、改めて資料を検討してみて、根っからの職業軍人であった井上清一は、むしろ沈黙を守って戦後を生き、そして沈黙のまま、謎を残して死んだのではないかという気持ちが次第に強くなった。>と書いている。

 
 
 私は中国・撫順市へは二度行った。いずれも「撫順戦犯管理所」訪問が目的だったが、平頂山の「殉難遺骨館」には二度目の1990年6月8日、市の対外友好協会の案内で訪れた。平頂山は市中心部より南方約16キロに位置する小高い山である。有名な撫順炭鉱の西露天掘りに隣接している。炭鉱の露天掘り参観所から見渡すと向こうの果ては霞んで見えず、その巨大な空間に驚かされる。資源の乏しい日本がこの地に目をつけた理由がひと目で頷けるのだ。地元民をはじめとする中国人民が支配権を握った日本軍部に反感を抱いたとしてもおかしくない。「平頂山事件」の惨禍は、傀儡軍がこの反感を平定し、中国人民の見せしめとして起こしたものと言えよう。

 直接実行者の井上清一中尉は、この事件発生の9ヶ月前、自害した妻千代子の葬儀にも参列せず渡満している。しかも、仕立てられた『烈婦の夫』としての人生を歩み始めたばかりであった。山すそに集めた全村民を虐殺し、それを隠蔽するためダイナマイトで山を爆破、崩落させて埋めてしまった。狂気の沙汰というしかない。そのうえ、実行者の軍人たちは戦犯に問われず、民間人が身代わりにされた。最近、沖縄戦の「集団自決」が教科書から末梢されたが、これもある軍関係者の都合のよい証言に基づくという。

 安部晋三政権は、「南京大虐殺」をはじめ「性奴隷(従軍慰安婦)」「強制連行・強制労働」などの歴史を歪曲し、侵略戦争そのものさえ否定しようとしているが、「平頂山殉難同胞遺骨館」をぜひ一度訪ねて欲しい。宙に向って手を差し伸べ大きく口を開いて訴える遺骸や幼子を抱く母子の遺骸を前に、それでも安部首相は侵略戦争を否定するだろうか。