去る17日早朝4時からのNHKラジオ「心の時代」は、「南無の会」名誉会長松原泰道老師の「『菜根譚』を読む」という対談番組だった。冒頭の話が、球界の野人で400勝投手金田正一選手と対談した時のことで、会うといきなり「あんた毎朝、御天道様(おてんとさん)拝(おが)んどるか」と言われたそうである。「お天道様」とは“太陽を敬い親しんでいう語”(大辞泉)だが、金田選手は幼い頃から母に毎日「おてんとさん」を拝むよう躾けられたという。世の中すべて「お見通し」の「おてんとさん」ほどエライものはないというわけだ。読み書きのできないその母を金田選手は「国宝」と言っていたらしい。
参照:「金田正一」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%B8%80
「おてんとさん」の話が出たのは「天人相関論」が随所にみられる『菜根譚』との関連からである。『菜根譚』の著者、洪自誠は中国明朝末期の人で、はじめ儒教を学んでいたが、明王朝が衰退し、社会不安が起こって政治的弾圧を受け隠遁を余儀なくされたことから道教や仏教へ関心を寄せた洪自誠が、儒仏道三教の思想を背景として著した清言集(処世訓)が『菜根譚』である。(中村しょう〔王偏に章〕八・石川力山共訳『菜根譚』/講談社学術文庫・参照)
松原泰道老師の講話をはじめて聞いたのは十数年前、有楽町の「よみうりホール」で開催された<南無の集い>においてである。
参照:「南無の会」http://homepage3.nifty.com/namunokai/
当日、松原泰道老師がどんな話をされたのか忘れたが、筑前琵琶奏者の上原まりさんが、荘厳、艶やかな舞台装置の中で仏教諸派「声明(しょうみょう)」に合わせすばらしい演奏を披露されたのを思い出す。
参照:「上原まり」http://www.ueharamari.jp/
「南無の会」は“特定の宗派にこだわらず、広く仏教を学ぶ会”とされ、全国各地に支部があって毎月定例の「南無の会辻説法」を開いている。また、月刊誌『ナーム』の発行や地方講演会を開催するなど仏教の伝道活動をおこない、さきの「南無の集い」は「南無の会」の年次総会にあたる。私が「南無の会」を知ったのは四半世紀も前のことで、同会主催の地方講演「クマさんの養生説法」ー公立菊池養生園診療所所長竹熊宣孝先生ーを聞いたのがきっかけだった。竹熊先生の「養生園精神」は“医は農に、農は自然に学ぶ”にあるといい、「自分のいのちは自分で守る」のが基本と提唱していたことが印象に残っている。
『菜根譚』は私の愛読書の一つでもあるが、満百歳の松原泰道老師が月刊誌『大法輪閣』に「わたしの菜根譚」と題し連載されていたらしい。老師の著『一期一会』(総合労働研究所刊)にこんなことが書いてある。
<わたくしたち夫婦にとって、たった一人の男の子である長男の哲明(38歳・1980年当時)が、家内の胎内に宿って間もなく、家内は腹膜炎を病んだ。医師は母体を案じて胎児をおろすことを家内にすすめるが、家内はどうしても承知しない。わたくしも家内の両親も医師の忠告にしたがうよう説得したがうけあわない。
さいわい彼を生むことができたが、わたくしは彼に終身償うことのできない痛みを負っている。…>
この一文で老師の人となりを知ることができよう。本書で老師は“母の死は、語るに忍びない”との作家吉川英治の文も引用している。私にも思い当たることだけに胸を打つ話である。
<さいごの息づかいらしいのが窺われたとき、ぼくたち兄妹は、ひとり余さず母の周囲に顔をあつめて、涅槃の母に、からだじゅうの慟哭をしぼった。腸結核は、実に苦しげなものである。
ぼくは、どうかして母が安らかな永眠につかれるように、という祈りみたいな気持ちから、ついつまらない知恵が働いて
“お母さん、お母さんは、きっと天国に迎えられますよ。ほら、きれいな花が見えるでしょう。美しい鳥の声がするでしょう”
そしたら、母は、ぼくをにぶい目でみつめながら
“よけいなことをおいいでない”と乾いた唇で、かすかに叱った。
母は、ふとんの下で、妹たちの手を握りしめていたのである。“みんな、仲よくしてね”と、次にいった。それきりだった。
ぼくは、三十歳で母と別れるまで、母に叱られた覚えは、二度か三度しかない。それなのに、母が、ぼくへいったことばの最後は、叱咤であった。
-よけいなことを、おいいでない。それから、たった三十秒か四十秒の後に、母は子供らの前から物しずかに去っていった。(「忘れ残りの記」)>
満百歳の松原老師は、朝5時に起きてまず新聞三紙に目を通し、講話などのスケジュールをこなし、今なお向学心旺盛という。頭が下がる。多分、老師は次の言葉を忠実に実行されているのではあるまいか。
“少ニシテ学ベバ、壮ニシテ為スアリ
壮ニシテ学ベバ、老イテ衰エズ
老イテ学ベバ、死シテ朽チズ” ~佐藤一斎『言志録』
参照:「金田正一」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%B8%80
「おてんとさん」の話が出たのは「天人相関論」が随所にみられる『菜根譚』との関連からである。『菜根譚』の著者、洪自誠は中国明朝末期の人で、はじめ儒教を学んでいたが、明王朝が衰退し、社会不安が起こって政治的弾圧を受け隠遁を余儀なくされたことから道教や仏教へ関心を寄せた洪自誠が、儒仏道三教の思想を背景として著した清言集(処世訓)が『菜根譚』である。(中村しょう〔王偏に章〕八・石川力山共訳『菜根譚』/講談社学術文庫・参照)
松原泰道老師の講話をはじめて聞いたのは十数年前、有楽町の「よみうりホール」で開催された<南無の集い>においてである。
参照:「南無の会」http://homepage3.nifty.com/namunokai/
当日、松原泰道老師がどんな話をされたのか忘れたが、筑前琵琶奏者の上原まりさんが、荘厳、艶やかな舞台装置の中で仏教諸派「声明(しょうみょう)」に合わせすばらしい演奏を披露されたのを思い出す。
参照:「上原まり」http://www.ueharamari.jp/
「南無の会」は“特定の宗派にこだわらず、広く仏教を学ぶ会”とされ、全国各地に支部があって毎月定例の「南無の会辻説法」を開いている。また、月刊誌『ナーム』の発行や地方講演会を開催するなど仏教の伝道活動をおこない、さきの「南無の集い」は「南無の会」の年次総会にあたる。私が「南無の会」を知ったのは四半世紀も前のことで、同会主催の地方講演「クマさんの養生説法」ー公立菊池養生園診療所所長竹熊宣孝先生ーを聞いたのがきっかけだった。竹熊先生の「養生園精神」は“医は農に、農は自然に学ぶ”にあるといい、「自分のいのちは自分で守る」のが基本と提唱していたことが印象に残っている。
『菜根譚』は私の愛読書の一つでもあるが、満百歳の松原泰道老師が月刊誌『大法輪閣』に「わたしの菜根譚」と題し連載されていたらしい。老師の著『一期一会』(総合労働研究所刊)にこんなことが書いてある。
<わたくしたち夫婦にとって、たった一人の男の子である長男の哲明(38歳・1980年当時)が、家内の胎内に宿って間もなく、家内は腹膜炎を病んだ。医師は母体を案じて胎児をおろすことを家内にすすめるが、家内はどうしても承知しない。わたくしも家内の両親も医師の忠告にしたがうよう説得したがうけあわない。
さいわい彼を生むことができたが、わたくしは彼に終身償うことのできない痛みを負っている。…>
この一文で老師の人となりを知ることができよう。本書で老師は“母の死は、語るに忍びない”との作家吉川英治の文も引用している。私にも思い当たることだけに胸を打つ話である。
<さいごの息づかいらしいのが窺われたとき、ぼくたち兄妹は、ひとり余さず母の周囲に顔をあつめて、涅槃の母に、からだじゅうの慟哭をしぼった。腸結核は、実に苦しげなものである。
ぼくは、どうかして母が安らかな永眠につかれるように、という祈りみたいな気持ちから、ついつまらない知恵が働いて
“お母さん、お母さんは、きっと天国に迎えられますよ。ほら、きれいな花が見えるでしょう。美しい鳥の声がするでしょう”
そしたら、母は、ぼくをにぶい目でみつめながら
“よけいなことをおいいでない”と乾いた唇で、かすかに叱った。
母は、ふとんの下で、妹たちの手を握りしめていたのである。“みんな、仲よくしてね”と、次にいった。それきりだった。
ぼくは、三十歳で母と別れるまで、母に叱られた覚えは、二度か三度しかない。それなのに、母が、ぼくへいったことばの最後は、叱咤であった。
-よけいなことを、おいいでない。それから、たった三十秒か四十秒の後に、母は子供らの前から物しずかに去っていった。(「忘れ残りの記」)>
満百歳の松原老師は、朝5時に起きてまず新聞三紙に目を通し、講話などのスケジュールをこなし、今なお向学心旺盛という。頭が下がる。多分、老師は次の言葉を忠実に実行されているのではあるまいか。
“少ニシテ学ベバ、壮ニシテ為スアリ
壮ニシテ学ベバ、老イテ衰エズ
老イテ学ベバ、死シテ朽チズ” ~佐藤一斎『言志録』