耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

大仏の上人“重源”という人

2007-04-11 14:19:47 | Weblog
 前回触れたが、俊乗房重源(ちょうげん)”は恐るべき人である。崩壊して荒れ果てた狭山池の改修のために、10数基の古墳を暴いて石棺を掘り出し、その両端を打ち欠いて樋管に転用したというのだから驚く。民衆救済のための大胆な「菩薩行」とみるべきだろう。

 参照:「俊乗房重源」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%8A%E4%B9%97%E5%9D%8A%E9%87%8D%E6%BA%90
 
 この重源は、源平の争乱で消失した東大寺の復興を成し遂げたことでも知られている。中世は飢饉と戦乱の時代といわれているが、その最中の治承4年(1180)、平重衡によって大仏は焼かれた。その大仏の再興を望む声が世に満ちて、翌養和元年(1181)、重源が造東大寺大勧進職に就いた頃の様子を、鴨長明は『方丈記』に「これ(大飢饉)によりて、国々の民、或は、地を捨てて、境を出で、或は、家を忘れて、山に棲む。…乞食、道のほとりに多く、愁え悲しむ声、耳に満てり」と書いている。この時、重源は61歳である。

 こうした世情の中で東大寺の再建は財政的、技術的に難関をきわめた。この難関を打開したのは、戦乱や飢饉・地震などの災いから逃れんとする大衆の熱狂的な大仏復興の願いであった。五味文彦著『大仏再建』(講談社選書メチエ)はいう。

 <その際、注目したいのは、この大仏の信仰とともに鎌倉新仏教が広まりをみせた点である。法然や栄西などをはじめとする新仏教の運動はこの大仏の供養と時を同じくして始まっている。…さらに鎌倉幕府の成立と成長が大仏の供養と時を同じくしていることも忘れてはならない。…このように中世の民衆を最初に熱狂に巻き込んで、その熱い視線を受けとめたのが大仏なのであった。>

 大仏再興を望んだのは民衆だけではなかった。朝廷や幕府の権力者にとっても荒れた世情の平安を取り戻すいわば「法力」が望まれていた。重源の大仏勧進が曲がりなりにも順調だったのはこうした背景があったからだという。しかし、最大の難関は鋳造の技術的な問題だった。大仏のような大きな物の鋳造はわが国の鋳物師の技術では不可能で、この技術者の確保が難問だったのである。

 ここで三度入宋したという重源の組織力と情報収集力がものをいう。寿永元年(1182)鎮西に渡来し、船が破損して帰国できないでいた陳和卿(ちんなけい)という宋の商人を重源は探し当てる。この商人は専門的な鋳物師ではなかったが、弟の陳仏寿の他五人の技術者を連れていたらしい。『大仏再建』は記す。

<(寿永2年)5月19日の鋳造のようすをみると、まず重源と陳和卿とが苦心して作った大きな炉三口が大仏の後ろの山に据えられ、7千から1万斤ほどの銅が、50から60石ほどの炭で燃やされ、そこに錫湯が注がれた。大河の流れが江海に注がれるがごとく、火炎は空中に上り、音は雷電のごときもので聞くものを驚かせた、と伝えている。>

 これだけをみても復興工事がいかに大々的な難工事であったかが分かる。しかも源平の戦がまだ続く中での作業だったが、ようやくこの年の7月、平氏は安徳天皇を擁して都落ちを決断、六波羅邸に火をつけて西海に落ちていく。文治元年(1185)壇ノ浦の合戦で平氏一門が滅亡するが、この年8月、大仏開眼供養が行なわれる。ところが、頼朝による義経追討のあおりで奥州藤原氏から金の上納が遅れ、大仏の金鍍金は首の部分だけという中途半端な状態での開眼供養となった。この時の金鍍金がどのように行なわれたか同書に記述がないが、天平の大仏の例を見てみよう。

 <大仏の正式名は「東大寺盧舎那仏像」というが、造立当初は光り輝いていたという。塗金に要した黄金は60キロにも達し、作業には5年がかかった。まず鋳肌を平滑に磨く。たがねで鋳張りをとり、やすりでならし、砥石でといだ。鍍金の方法は金を水銀の中で溶解しアマルガムをつくる。金1に対し水銀5くらい使ったらしい。仏体を平滑に磨いたあと、鋳物の面は青梅または石榴の酸できれい拭き、その面の上を硬い布ぎれなどにアマルガムをつけてこすると一面白色となる。この白い面を350度くらいの温度で焼くと、水銀がとんで黄金の面が現れる。これを布でよく磨き3回くらいくり返すと鍍金が完成する。加熱時に発生する水銀の蒸気は非常に有害で、すでに大仏殿が完成した堂内での鍍金作業では水銀中毒に冒された労働者が夥しい数にのぼった。>(『労働と健康の歴史第6巻』/労働科学研究所)

 参照:「東大寺大仏」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F

 重源が成し遂げた大仏復興の過程でも、おそらくこうした労働者の労働災害は避けられなかったと思われる。大仏に限らず、いまわれわれが観賞する豪華絢爛な建造物や美術品の多くは、歴史に刻まれた匠・工たちの影に労苦を背負った名もない夥しい人々が存在したことを忘れてはなるまい。