耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“町内囲碁クラブ”~週一回の楽しみ

2007-04-30 21:53:09 | Weblog
 <戦後、中華人民共和国との国交回復に先鞭をつけた自民党の長老、松村謙一氏は1959年に北京を訪れ、副首相・外交部長の陳毅氏と復交、貿易等に関して会談したが、両者の主張に大きな隔たりがあってどうにも歩み寄れなかった。数日の会談で疲れ切った陳氏は明日は一日休養しようと提案し、「ところで、あなたは碁を打つか」と訊いた。「碁は大好きだ」と松村氏が答えると「それはいい、明日は政治の話はよしにして、二人で碁を打とう」ということになった、陳毅将軍は解放戦争当時も常に布の碁盤をポケットに、袋に入れた碁石を馬の鞍に結びつけ、決して部下に手間をかけなかったといわれている。翌日、両氏は囲碁で一日を過ごし、心から打ちとけることができた。困難をきわめた政治向きの話は一応棚上げし、ともかく貿易はやろうということになったのである。>(大室幹雄著『囲碁の民話学』/岩波現代文庫)

 私が碁を覚えたのは高校を卒業して間もなくだったと記憶するから、半世紀以上前になる。この間、ほとんど碁石を手にしなかった時期もあったが、そんな時もNHK日曜番組「囲碁の時間」は楽しみに見てきた。一昨年、町内に「囲碁クラブ」ができて毎週日曜日午後メンバー10人が公民館に顔を揃える。隣町には70人の会員を擁する大「囲碁クラブ」があって、われわれのメンバー内にはそちらにも加入して腕を磨いている人もいる。私の棋力は一応“四段格”に認定されているが、棋力に関係なく人間同士のつき合いが実に楽しい。先の陳毅将軍と松村謙一氏の会談余話は囲碁をたしなむ人なら例外なく合点のいく話だろう。

 先にあげた『囲碁の民話学』にはいろいろ面白いことが書かれているが、10数年前に上海市老幹部大学(日本の「老人大学」にあたる)との囲碁交流を企画した時の資料(出所不明)から参考になる部分を記しておく。


<囲碁の起源>
 堯・舜の時代に遡るとされているが、実際の記録は『春秋左氏伝』にみられ「えき(大の上に亦)者は碁(いし)を挙げて定まらざれば、其の相手に勝てず」と言い、囲碁にたとえて、ぐずぐずしていては、折角の好機も逃がしてしまう、と語っている。周代(BC1122~BC221)、囲碁は「えき」と呼ばれ、春秋戦国時代、すでに広く普及していたことがわかる。また古書は、魏の武帝・曹操(155~220)がプロ級の腕前であったと記しており、呉の大帝・孫権の兄・孫策と幕臣・呂範との対局は、現存する最古の棋譜とされている。

<囲碁のわが国伝来>
 正確な時期ははっきりしない。735年、吉備真備が唐から持ち帰ったとする説があるが、すでに早く、中国の南北朝時代(479~502)に朝鮮半島を経て、日本に伝わっていたとする説が有力。『源氏物語』には、宮中での「碁あそばす」様が描かれており、平安時代には、皇族、貴族の間に碁が広く普及していたことがわかる。

<史上初の「日中対局」>
 公式の対局は中国の史書「旧唐書」の「宣宗本紀」にきちんと記されている。宣宗は、唐第16代の皇帝。大中2年(848)3月のこととして、「日本国の王子、入朝して方物を貢ぐ。王子、碁を善(よく)す。帝、待詔(唐代の官名)の顧師言をして之と対手せしむ」とある。また、「杜陽雑編」には、王子が玉局(玉製の碁盤)と玉棋子(玉製の碁石)を日本から携えてきたこと、王子が接戦の末、顧師言に負けたことなど、事のしだいが詳しく書かれている。

<囲碁十訣>
 唐代は中国古代文化が美しく花開いた時期だった。囲碁の隆盛も唐代をひとつのピークにしている。唐代髄一の名手といわれ、「唐代棋壇第一国手」と呼ばれた王積薪は、多くの棋書を残しているが、最も有名なのが「囲碁十訣」として知られる次の口訣だろう。

1.勝ちをむさぼるべからず。
2.界(相手の勢力範囲)に入るには、よろしく緩やかなるべし。
3.彼(相手)を攻める時にも、我(自分)を顧みよ。
4.子(石)を棄てても、先手を争え。
5.小を捨てて大を救え。
6.危に逢っては、すべからく棄てるべし。
7.軽速(軽はずみ)は、これをつつしむべし。
8.(石の)動きはすべからく応じあうべし。
9.彼の強きところでは、自らを保つにしかず。
10.大勢窮すれば、持碁を求めよ。
 
 


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