耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

吉野~西行庵を訪ねて

2007-04-22 11:41:43 | Weblog
 はじめて桜の吉野を訪ねたのは一年前のことである。ついでに室生寺、長谷寺も再訪したが、近鉄大阪線の「室生口大野駅」から室生寺に向うバスから大野寺の見事な桜が目についた。これは帰りに立ち寄って写したものである。
 吉野はたっぷり時間をとって、まず奥千本口までバスで行く。そこから西行庵までの雨上がりの道のりは決して楽ではなかった。かねて願いの西行庵にこだわったのは白州正子の『西行』(新潮文庫)に触発されてのことである。引用文<>を挿みつつ辿ってみる。

 <うきよには留めおかじと春風の
  散らすは花を惜むなりけり

  諸共にわれをも具して散りね花
  浮世をいとふ心ある身ぞ

 …西行が吉野へ籠ったのは、待賢門院への思慕から解放されるためであったと、私はひそかに思っているのだが、女院(にょういん)の面影を桜にたとえたのは今はじまったことではなく、ここに掲げた二首なども、女院の死を、散る花の美しさにたとえたとしか思われない。

  花に染む心のいかで残りけむ
  捨てはててきと思ふ我身に
 
 時にはそんな告白もしているが、心ゆくまで花に没入し、花に我を忘れている間に、いつしか待賢門院の姿は桜に同化され、花の雲となって昇天するかのように見える。ここにおいて、西行は恋の苦しみからとき放たれ、愛の幸福を歌うようになる。

  ねがはくは花のしたにて春死なむ
  そのきさらぎの望月の頃       
 
 西行は北面の武士で佐藤義清(のりきよ)といい、妻子ある前途有望の身であった。それが23歳の若さで出家隠遁したのである。直接の原因は親友の急逝にあるとされているが、白州正子は『源平盛衰記』が伝える物語を引いていう。

 <さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋故とぞ承る。申すも恐ある上臈(じょうろう)女房を思懸け進(まゐ)らせたりけるを、あこぎの浦ぞと云ふ仰(おほせ)を蒙りて、思い切り、官位(つかさくらゐ)は春の夜見はてぬ夢と思ひなし、楽み栄えは秋の夜の月西へと准(なぞら)へて、有為の世の契を逃れつつ、無為の道にぞ入りにける。(崇徳院の事)

 …断っておくが、私は西行の出家の原因がつきとめたいわけではない。前章で述べたように、それは自分の魂を鎮めるためで、原因ということをいうなら、ほかにいくらでも見出せると思う。私が知りたいのは、在俗時代に体験したさまざまの思いが、西行の歌の上にどのような影響を与えたか、ことに失恋の痛手は、誇り高い若武者を傷つけ、生涯忘れがたい憶い出として、作歌の原動力となったような気がしてならない。
 先日、角田文衛氏の『待賢門院たま(王偏に章)子の生涯』(朝日選書)を読んで、「申すも恐ある上臈」とは、鳥羽天皇の中宮、待賢門院にほかならないことを私は知った。>

 
 角田氏の著書はまことに「奇怪」としか言いようのない平安王朝の裏面を暴きだしていて驚くばかりである。吉野の西行庵は、「奇怪」な世から身を隠すに格好の山奥にあった。西行はここだけでなく、山のあちこちに庵を結んでいたというが、ここを芭蕉が訪れて有名になったらしい。

 西行庵を引き返し、奥千本から歩いて下山した。奥はまだ蕾のままだったが、下るにつれて蕾は膨らみ、花へと変化していく。下界はすでに満開を過ぎようとしていた

 


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