耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“恐るべし、貴ぶべし”

2007-04-09 20:19:25 | Weblog
 都知事選は、某スポーツ紙で語ったという美輪明宏の論評「都民の民度が低すぎる」に尽きる。だが気になることがある。某ブログが指摘しているように霊友会(信者数約440万)、創価学会(約800万)、立正佼成会(約300万)、生長の家(約85万)、崇教真光(約50万)、その他仏所護念会などの新興宗教だけで、その10分の1が都内に在住するとしておよそ200万人にのぼる。その8割が投票して160万、これに保守の牙城と言われる「日本会議」が石原に投じれば圧勝間違いなしというのだ。わが国の政治が創価学会の掌中にあることは紛れもない事実だが、都知事選でもそれが実証されたとみていいのだろう。“貴ぶべし”とは言えないまでも“恐るべし”と言うべきだろう。

 気分転換のために、貴い記事を引用しておく。

 <1993年12月2日、「重源狭山池改修碑」発見のニュースが全国を駆け巡った。狭山池は大阪狭山市にある日本最古の溜池で、築造当初のコウヤマキ製の樋の年輪から、616年頃に造られたことで知られる。7世紀は古代国家が池や溝の開発を推進した時代である。西除川の流れをせき止めて狭山池が生れると、下流域の開発が急速に進み、次々と集落が誕生した。
 狭山池は奈良時代に行基によって改修された。[行基年譜]には狭山池を改修し、天平3年(731)に狭山池院と尼院を建てたことがみえる。養老7年(723)の「三世一身法」施行は地方豪族を積極的に開墾へと向かわせたが、行基は彼らと組んで池や溝を開発し、その周囲に寺や福祉施設を建設した。狭山池もその一例で、当初の堤の上に積まれた高さ60センチの盛土が、行基による改修時のものと考えられている。天平宝字6年(762)にはさらに大規模な改修が行われ、貯水量は築造当初の二倍になったと推定されている。
 次に狭山池を大改修したのが重源(1121~1206)である。平氏に焼かれた東大寺を復興したことで知られる重源は、生涯になした作善の数々を[南無阿弥陀仏作善集]に書き上げている。そのなかに狭山池改修の項もあり、堤が崩れて山野のようになっていたのを樋を石に替えて改修したと記すが、改修の経緯や時期については不明のままだった。
 平成の改修に伴う発掘調査で池の中から発見された「重源狭山池改修碑」は、長さ192センチ、幅58.5センチ、厚さ79.5センチの和泉砂岩製、摂津、河内、和泉の50余郷の人々の要請を受け、建仁2年(1202)2月7日から4月27日まで、僧侶・俗人を問わず、乞食や「」までが力を合わせて石を引き、堤を築いたことを刻んでいる。このとき重源は82歳。東大寺南大門の金剛力士像が完成し、東大寺総供養がおこなわれるのは翌年11月のこと。東大寺復興の最中、多くの人々の要請を受け、僅か81日間で工事を終えたのはさすがに重源と言いたくなるが、この早さには理由があった。
 重源は水を取る樋を木から石に替えた。このとき重源が利用したのが古墳の石棺だった。石棺の両端を打ち欠けば簡単に樋管に転用できる。重源らしい大胆な発想である。そのために10数基の古墳があばかれたようだ。大仏復興の際、重源が勅許なく大仏背後の山を除去したことを知った九条兼実は、日記に「恐るべし、貴ぶべし」とかいた。それから812年が過ぎて、私もまた同じ言葉をつぶやいている。>(西山厚/月刊誌『一冊の本』2002.12月号)
 
 猛々しいことを口にして民を愚弄する人物が跋扈する世の中だが、わが国歴史をひもとけばこんな“貴い”人に巡り会える幸せがある。有難いことである。(大仏建立については改めて書く)