古傷の頸椎が痛いです。
第二十一番「金毘羅山 満願寺」・・・よく覚えています。と、言うより、何度もお参りしています。
ウィキより、伽藍の画像もウィキより、
「満願寺(まんがんじ)は、愛媛県今治市朝倉にある寺院。山号は金毘羅山。宗派は高野山真言宗。本尊は薬師如来。新四国曼荼羅霊場の第38番札所・四国三十六不動尊霊場第21番札所である。
御詠歌:思うこと 伊予いよ願え 満願寺 あらたにあたふ 黄金八千代に
伝説では、当山の谷で村人が光り輝くものを見たという、それを祀ったのが始まりで、それは金毘羅殿の金毘羅権現の背後に絶対の秘宝として祀られ、今となっては誰も見てないので何であるかもわからない。 それからの後、大宝元年(701年)遣唐使として中国に渡って三論の法を学び、養老元年(717年)帰国後、奈良・大安寺に住し三論宗を広めた道慈律師が、天平6年(734年)南海道を巡錫中、当山・霊仙山にて本尊薬師如来の開眼法要の導師を勤めた。これによって三論宗にて開創とされる。その後、天長6年(829年)空海が大安寺別当に補された影響で、真言密教が宗義になったと伝えられている。
守護地頭の時代から地方の権力者との結びつきが強く、戦国時代は霊仙山城主・中川山城守親武の祈願所だった。天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐軍により霊仙山は落城し本陣であった当寺は灰燼に帰する。その後、慶長時代に再建が進められ、戦禍や疫病などから護るため金毘羅大権現を厄除け守護神として勧請し、神仏混交の寺として復興した。
明治初期の神仏分離令で、神仏混交の当寺も危機にみまわれたが、時の住職・恭恵は、五基あった当寺の「金毘羅本殿」への丁石を「不動殿大門」への丁石へと檀徒の石工の尽力を得て一夜で彫り直し、本殿中央の金毘羅権現像と入れ替え脇仏不動明王像を中央へ祀ることにより翌朝やってきた役人の検査から逃れ、一時期廃寺になるも、神仏混合の形で再建され檀徒衆の根強い信仰に支えられ現在に至る。
令和3年10月10日から17日まで、本尊薬師如来と金毘羅大権現の33年に1度の開帳とそれに合わせて全堂が開帳された。」
童子名 大光明童子 御真言 のうまく さまんだかんまん きりく
・・・護摩堂の「不動護摩」を何度か拝みました。面白いもので、高野山真言宗の御護摩は、どの県の寺院で拝んでも、御本尊さんが、お不動さんでも、観音さんでも、毘沙門さんでも、弁天さんでも・・・同じ「気」を感じます。
鎮守の「金毘羅殿」には、御本尊・金毘羅大権現と、
脇侍に、不動明王像と、吉祥天さんが祀られています。
最初、なぜ「吉祥天さん?」と思ったのですが、何か神仏からのメッセージが降りたような気がして、すぐ合点がいきました。(あくまで、降りてきた「気が」しただけです)
神仏習合の「日本では」、「吉祥天さん」は、「毘沙門天さん」の、お妃です。
その場合、毘沙門天さんは「ニギハヤヒノミコト」、
お妃の、吉祥天さんは「ミカシキヤヒメノミコト」、御子の善膩師童子 (ぜんにしどうじ) は、「ウマシマチノミコト」と言われます。
そして、インドでは別々の神ですが、「日本では」、クベーラ (毘沙門天) と、
クンビーラ (金毘羅) は、発音が似ているため、「同一視」されています。
すなわち、クベーラと同一視されるクンビーラ (金毘羅大権現) は、「大物主大神」と習合していますので、
クベーラ=クンビーラ=「大物主大神」=「ニギハヤヒノミコト」=妃神の「ミカシキヤヒメノミコト」と習合する「吉祥天さん」が、金毘羅大権現の脇侍として祀られている・・・の、だと思いました。(私論です・・・が、境内で感じたことです)
今、真後ろで、ヒヨドリのヒヨが、ずっと鳴いています ((´∀`*))
画像は、私が2018年に、成田山大阪別院の本堂にて、拝謁した、
「ウカノミタマ女神 (ミカシキヤヒメノミコト) 」と、「ニギハヤヒノミコト」です。神画アートの、持田大輔さんに製作していただいた、御神画 (非売品) です。
ではまた。
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