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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

お蔭参り

2021-05-13 06:12:09 | 日記

「お蔭参り」(おかげまいり)は江戸時代に起きた伊勢神宮への集団参詣で、数百万人規模のものが60年周期で3回おきました。土地に縛り付けられた百姓の旅の規制が厳しかった江戸時代でしたが、伊勢神宮参詣の旅はほぼ無条件で通行手形を発行してもらえました。

伊勢名所図会

我が国の国家体制は681年の天武天皇の律令制定の詔に発し、689年の飛鳥浄御原令を経て701年(大宝元年)の大宝律令で完成し、6年に一度の造籍・班田収授、50戸1里の里制、国・評(郡)の地方行政組織、軍団・兵士制などの支配体制が整いました。

人民は良・賤(せん)に大別され、農を担う良民は戸籍に登録されて班田収授の対象となり、土地に縛り付けられて租庸調の納税義務を負い、その下に戸籍に登録されない賤民がいました。

都と地方を結ぶ官道が整備された一方、官民の移動を規制する関が設けられ私用で関所を越えるには所属する官司・国司・郡司に「過所」(通行証)の交付を受ける必要があり、自由な往来は出来ませんでした。

近江国から他国へ行き来する抑えの位置に逢坂関、鈴鹿関、不破関の三関を設け、異変が起きるとこの三関を遮断する固関(こげん)が行われ、鈴鹿峠から東が東国で東海道の足柄関、勿来関、東山道の碓氷関、白河関、北陸道の念珠関が設置されます。

中世には律令制が崩壊して武家、荘園領主・有力寺社などがそれぞれ勝手に関所を設けて関銭を徴収するようになり、通行税が中世の交通の最大の障害になりました。戦国時代には戦国大名たちの支配領域が広がったために関所の数が減りましたが、天下を統一した織田信長は関所を全廃します。

江戸幕府は再び関所を設け「入鉄砲と出女」を厳しく検問しました。入鉄砲は江戸に流入する武器の取り締まりで、出女は人質である大名の奥方が江戸から脱出するのを見張るものです。

武士の通行手形の発行は領主で、町人や百姓の場合は在住地の名主などでしたが、女性の関所の通過には厳しい規則が定められ「関所通行手形」(女通行手形)が必要でした。

この手形は幕府の御留守居役が発行する「御留守居証文」とも云われるもので、女性の素性や、旅の目的と行先、髪形、顔・手足の特徴などが細かく記載され、この記載内容と一致しなければ関所は通れませんでした。

女交通手形

男性は原則手形無しでも関所を通れましたが、多くの旅人は関所での面倒な取り調べを避けるために手形を持参しました。通行手形は大家や旅の途中で旅籠屋の主人に書いてもらうものもありました。旅の目的が寺社の参詣や湯治の場合だけは例外で「お伊勢さん」への参拝が全国的に流行しました。

伊勢神宮の正式名称は地名を冠しない「神宮」で、他の神宮と区別するために「伊勢神宮」が使われます。神宮には天照坐皇大御神(天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼びます。

下宮

内宮

神宮は神明造という古代の建築様式を受け継ぎ、式年遷宮が20年に一度行われます。神宮は皇室の氏神である天照坐皇大御神を祀る皇室との結びつきの強い神社です。

遷宮の図

「お蔭参り」(おかげまいり)は江戸時代に起きた伊勢神宮への集団参詣で、数百万人規模のものが60年周期で3回おきました。伊勢までは江戸から片道15日、大坂から5日、名古屋から3日、陸奥国釜石からは100日かかったと云われます。「抜け参り」とも呼ばれたお蔭参りの最大の特徴は奉公人が主人に無断で、子供が親に無断で参詣できたことです。

伊勢神宮は中世の戦乱で領地をすっかり荒らされ、式年遷宮が行えないほど荒廃しましたが、お蔭参りのきっかけを作ったのは神宮で祭司を執り行っていた御師(おし)たちです。百姓に豊受大御神への信仰を広めるため各地で野良仕事に役立つ伊勢暦を配り、豊年の祈祷をし、伊勢神宮へお参りするよう布教しました。

お伊勢参りの説話で一番多かったのは「おふだふり」です。村の家々に神宮大麻(お札)が天から降ってきたと云うもので、これは伊勢信仰を広めるために御師がばら撒いたようです。

百姓の旅の規制が厳しかった江戸時代でしたが、伊勢神宮参詣の旅はほぼ無条件で通行手形を発行してもらえました。善光寺や日光東照宮の参詣なども同じで、在住地の町役人・村役人または菩提寺に通行手形を申請しました。

商家では天照大御神が商売繁盛の守り神、農家では豊受大御神が五穀豊穣の守り神であったことから、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合、親や主人はこれを止めてはなりませんでした。また親や主人に無断で旅に出ても、伊勢神宮のお守りやお札を持ち帰ればおとがめなしになっていました。

十返舎一九の「東海道中 膝栗毛」では江戸神田の弥次郎兵衛と喜多八がつまらぬ身の上に飽きて、厄落としにお伊勢参りの旅に出て東海道を伊勢へ、さらに京都、大坂を巡ります。

二人は讃岐の金比羅さまに参詣、安芸の宮島を見物、そこから引き返して木曾街道を東に向かって善光寺に参り、草津温泉を巡って江戸に帰りますが、2人は道中で失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを引き起こします。名所、名物の紹介に終始した従来の紀行ものとは異なり、旅先での失敗談や庶民の生活、文化を描いていたので絶大な人気を博しました。

十返舎一九の滑稽本「東海道中 膝栗毛」

お伊勢参りは庶民が一生に一度はと願う夢になりましたが、大金の旅費を用意するのは難しく、そこで生み出されたのが「伊勢講」です。講の参加者は定期的に集まってお金を出し合い、それを代表者の旅費にしました。代表者は「くじ引き」で公平に決められ、選ばれた者は農閑期に二、三人で連れ添って道中しました。

参拝者は盛大に見送られ、道中を観光し、伊勢では代参者として祈りを捧げ、土産として御祓いや新しい品種の農作物の種、松阪や京都の織物、伊勢近隣や道中の名産品、最新の物産などを買い込み、無事に帰るとお祝いが行われました。江戸時代の人々に、貧しくとも一生に一度は旅行ができる夢を与えたのはこの伊勢講です。

伊勢講の代表者は伊勢に着くと、自分達の集落担当の御師の世話になります。御師たちは宿坊を経営していることが多く、御師が豪華な食器に載った山海の珍味や歌舞でもてなし、農民が使ったことがない絹の布団に寝かせるなど代表者を飽きさせませんでした。

参拝の作法を教え、伊勢の名所や歓楽街を案内して回りましたが、豊受大御神が祀られている外宮を先に参拝し、天照大御神が祀られている本殿の内宮へ向かうのがしきたりでした。

代表者は講で集められたお金で伊勢にゆくので、土産を持たずには帰るわけにはいきません。当時最新情報の発信地であったお伊勢さんで知識や技術を仕入れ、流行を知り、見聞を広げて帰りました。

神宮の神田には全国から稲の種が集まっていて、参宮した農民は品種改良された新種の種を持ち帰ることができ、最新の柄の織物や農具の唐箕(とうみ 手動式で風をおこして籾を選別する風車)、芸能(伊勢音頭に起源を持つ歌舞)などを実物や口頭、紙に書いた旅の記録として各地に伝えました。

1705年(宝永2年)は本格的なお蔭参りの始まりの年で、2か月間に330万~370万人がお伊勢さんに参詣しました。本居宣長の「玉勝間」によると4月上旬から1日に2~3千人が松阪を通過しました。

歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」

1771年(明和8年)4月11日宇治から女、子供ばかりの集団が仕事場の茶山から無断で離れ、着の身着のままやってきたのが明和のお蔭参りの始まりで、松阪ではピーク時には道を横切るのが難しいほど大量の参詣者が通ったと当時の日記に書かれています。

参詣者らは「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃し、初めは集団ごとに幟に出身地や参加者を書いていたのが段々と滑稽な幟や卑猥な幟が増え、お囃子も老若男女がそろって卑猥ごとを並べ立てるようになりました。

街道沿いの物価は高騰し、白米1升50文が相場のときに4月18日には58文、5月19日には66文、6月19日には70文まではね上がり、わらじは5月3日に8文だったものが5月7日には13~15文、5月9日には18~24文に急上昇しました。

信心の旅であるため街道沿いの富豪による施行も盛んで、無一文で出かけた子供が銀を持って帰ってくることもありましたが、施しを受ける方は徐々に感謝もしなくなり金をもらうだけの目的で加わる者も出てきました。

1830年(文政13年 / 天保元年)の文政のお蔭参りは60年周期の「おかげ年」が意識されて、参加人数は大幅に増えました。何故か参詣にひしゃくを持って行き、外宮の北門に置いてくるのが流行りました。江戸時代の総人口はほぼ3千万人ですが参詣者が427万6,500人で総人口の7割になります。経済効果は86万両以上で、物価上昇が起こり、大坂で13文のわらじが200文に、京都で16文のひしゃくが300文に値上がりしたと記録されています。

明治時代に入ると古代の律令制の官制に倣って神祇制度が復活し、伊勢神宮は全国神社の頂点の神社と位置付けられる一方、御師は正規の神職ではないため1871年(明治4年)御師職が廃止されて、お伊勢参りの熱は冷めていきます。

明治以降は国民の旅行制限がなくなり、鉄道や汽船など交通網の発達で明治の終わりから大正の初めにかけて国内観光が盛んになりましたが、我が国が極東に位置する島国のため、第二次大戦前の船便による海外旅行は一部富裕層に限られました。

敗戦後の占領下では海外旅行がGHQと日本政府に強く規制されて、私用の旅行は不可能でしたが、1964年海外旅行が自由化された時点では高度経済成長によって国民の所得が増えていた上、空路の利用が可能になっていました。その当時知り合いの誰かが海外へ向かう際には、羽田で盛大な見送りをしたものです。

その後ジャンボなどの大型ジェット機の登場でツアー会社による大型団体旅行が企画され、特定の団体のツアーも、個人が参加するツアーも、すべてツアー会社任せで、参加者はパスポートと身の回りのものを用意すればよくなりました。

一方インターネットで情報を得て自分ですべてを企画し、単独で行動する旅行者も増えていて、世界中で日本人観光客がいない観光地を探すことが難かしくなったと云われます。

2020年に始まったコロナの感染が全世界に一挙に広まったのは如何に国際間の交流が盛んなのかを示すものでしょうが、2021年春の状況ではいつになったらコロナ騒ぎが治まり世界中での旅行の制限が解除されるか、まったく見当がつかない状況が続いているのはご存知の通りです。

 

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