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ニコライ堂

2024-04-11 06:23:41 | 日記

「ニコライ堂」は東京都千代田区神田駿河台にある正教会の大聖堂です。ニコライ堂は日本に正教会の教えをもたらしたロシア人聖ニコライに由来した通称で、正式名称は「東京復活大聖堂」です。

建築面積は800㎡、緑青を纏った高さ34.5mのドーム屋根が特徴で、鐘楼の高さは37.7m、建坪は1,050㎡あります。日本で初めての最大級の本格的なビザンチン様式の教会建築で、1891年(明治24年)に竣工し御茶ノ水界隈の景観の重要な位置を占めました。1962年(昭和37年)に国の重要文化財に指定されています。

ニコライ堂 現在

建築様式はビザンチン式が基本で、壁が厚く、窓が小さく、中央にドームがあり、外からみると壮大で堅牢です。細かい部分にイギリスのロマネスク風やルネッサンス式が巧みに取り入れられているのは、イギリス人のジョサイア・コンドルが工事監督にあたったからでしょうか。

この大聖堂が建てられた駿河台の場所は、江戸時代の定火消の屋敷跡で火の見櫓が高くそびえており、ニコライが1872年(明治5年)にはじめて東京に来たときに、この地に大聖堂をと心に決めた場所でした。
最初の大聖堂はロシア人シュチュールボフの基本設計、コンドルの実施設計、長野泰輔の工事責任で、1884年(明治17年)に工事が始まり、7年かかって1891年(明治24年)に完成しました。

ニコライ堂 1891年(明治24年)完成時

正教会は東方正教会とも呼ばれます。ローマ・カトリック教会やプロテスタント諸教会が西ヨーロッパを中心に広がったのに対し、キリスト教が生まれた中近東を中心に、ギリシャ、東欧からロシアへと広がりました。

20世紀になり共産主義革命による迫害を受けて、多くの信徒や聖職者が世界各地に散らばっていき、その結果世界各地に正教会が設立され、欧米主導の現代文明の行き詰まりとともに停滞する西方キリスト教に新鮮な刺激を与えています。

日本へは江戸時代末期に、函館のロシア領事館の司祭として来日したニコライによって伝えられました。ニコライは「亜使徒大主教聖ニコライ」として聖人の列に加えられています。

イイスス・ハリストス(イエス・キリストの日本正教会訳)の十字架刑による死と、三日目の復活という出来事を直接体験し、その証人として世界中に伝えたお弟子たちのことを「使徒」と呼びます。正教会はこの使徒たちの信仰と、彼らから始まった教会のありかたを、唯一、正しく受け継いできたと自負します。

キリスト教会は、現在、多くの教派に分裂していますが、中世のある時期までは「一つの聖なる公なる使徒の教会」として一致していました。正教会はこの東西教会が一つにまとまっていた時代に、5世紀にわたって合計7回開催された全教会の代表者たちによる会議(325年~787年)で確認された教義や、教会組織のあり方、教会規則、さらに使徒たちの時代にまで遡ることのできる様々な伝統を、切れ目なく忠実に守り続けています。正教会と他の諸教会が分裂したのではなく、正教会から他の諸教会が離れていったのが「教会分裂」の真相です。

人間の理解をこえた事柄については謙虚に沈黙する古代教会の指導者(聖師父)たちの姿勢を受け継ぎ、後にローマ・カトリック教会が付け加えた「煉獄」「マリヤの無原罪懐胎」「ローマ教皇の不可誤謬性」といった「新しい教え」は一切しりぞけます。またプロテスタントのルターやカルヴァンらのように「聖書のみが信仰の源泉」だとも云いません。かたくなと見えるほどに、古代教会で全教会が確認した教義を守っています。

教会組織もローマ・カトリック教会のようにローマ教皇をリーダーとして全世界の教会がきちんと一枚岩に組織されたものではなく、各地域の独立教会がゆるやかに手を結びあっているにすぎません。しかし強力なリーダーシップがないからと云って、聖書解釈の違いや教会のあり方への理解の違いから無数の教派に分裂してきたプロテスタント諸教会とは異なり、正教信仰と使徒からの教会の姿を各教会がすすんで分かち合うことによって「正教会」としての一致を保ち続けてきました。

ビザンチン時代に現在のかたちがほぼ確立した奉神礼(礼拝)には、初代教会の礼拝のかたちと霊性がしっかり保たれています。中心となるのは聖体礼儀です。これはカトリック教会でミサ、プロテスタント教会で聖餐式と云われるものにあてはまります。主イイスス・ハリストスの復活を「記憶」する毎日曜(主日)と諸祭日を中心に行われます。

ニコライ堂 入り口

ドーム内 正面

「主が来られる時(再臨)に至るまで私を記念(記憶)するためこのように行いなさい(ルカ伝22:19)」という教えを守り、主日ごとの聖体礼儀に集い「主ハリストスの体と血」へと成聖されたパンとぶどう酒(聖体・聖血)を分かちあうことが、教会の基本的なつとめであると理解されています。

聖体礼儀は立ってか、膝まづいて行なわれます

椅子は用いません

一つのパンから、また一つの爵(カップ)から聖体聖血を分かち合うことを通じて、信徒はハリストス・神と一つとなると同時に、互いが一つとなり、ハリストスが集められた「新たなる神の民の集い・教会」が確かめられます。

しかしどれほど言葉を重ねても正教を完全に説明し尽くすことはできません。正教は教会生活の中に生きて働くハリストスの復活のいのちそのものです。教義も確立せず、歴史の積み重ねもなく、まして文化としてはまったく未熟で、しっかりした教会組織もなかった時代、そして現代においても、信徒ひとりひとりを生かしているのはこのハリストスの復活のいのちそのものです。いのちは言葉では伝わりません。体験の中からしか掴めず、体験を通じてしか伝えられません。

日本にロシアから正教会が伝えられたのは1861年(文久元年)です。その国の文化を否定せずに受け入れてキリスト教の信仰を土着させる正教会の伝統にのっとり、ニコライは当初から日本人のための日本人による正教会を目指しました。

ニコライは日本の文化を学ぶために日本語を習得し「古事記」や「日本書紀」などを読み、仏教を学び、日本の風俗習慣を研究しました。そして日本語による奉神礼ができるように祈祷書を翻訳し始めました。明治15年頃から漢学者パウェル中井木菟麿(つぐまろ)がニコライの翻訳の補助に入り、次々と膨大な量の祈祷書と聖書が翻訳されていきました。

私たち日本の正教徒は、この神に祝福されたニコライの翻訳の恩恵に与っています。ニコライは奉神礼にふさわしい文体として漢語調の文語体を選びました。現代の日本人には難解ですが、聖神の恩賜を伝える媒介として最善の言葉が選択されています。

日本語の祈祷書を示す画像

正面入口上部

日本人として初めてニコライから洗礼を受けたのはパウェル沢辺琢磨、イオアン酒井篤礼、ヤコフ浦野大蔵の3人でした(1864年)。生粋の土佐藩士の沢辺琢磨はニコライを毒する輩と決めつけてニコライのもとへ乗り込んだのですが、ニコライの話を聞くうちにその教えに心を打たれ、やがて正教会の信仰を熱心に奉ずるようになり、後に司祭となりました。

ニコライは明治5年頃東京に伝道の本拠地を移し、正教会の伝道を熱心に行いました。教勢はめざましく発展して日本全国に正教会の種がまかれていき、明治18年に信徒数は1万2千人を越えます。

1891年(明治24年)神田駿河台にビザンチン様式の「復活大聖堂」が建立され、ニコライの名に因んで「ニコライ堂」と呼ばれるようになりました。当時としては驚くべき大きさで、荘厳なその姿は多くの人々の関心を引きました。

奉神礼に欠かせない聖歌は、ヤコフ・チハイやデミトリイ・リオフスキーといった人たちが来朝して熱心に音楽の基礎を教え、日本音楽史上初めてと言われる四部合唱の聖歌隊が編成されました。彼等が編曲・作曲した聖歌は今でも歌われています。明治時代に女性ながらロシアに留学して学んだ山下りんが描いたイコンは、各地の正教会に掲げられています。

正教会の神学校もニコライによって創立され、聖職者だけでなくさまざまな分野で活躍する人々を輩出し、正教会の信仰、教義、精神性などを伝えるために多くの正教会関係の文書が翻訳、出版されました。ニコライは他の諸教派が持つような病院や福祉施設や大学などは創りませんでしたが、正教会の信仰は彼の福音宣教と伝統的な正教の奉神礼の実践に徹した働きによって、しっかりと日本に根付きました。

日本正教会は明治の後半から大正、昭和にかけて苦難の時代を迎えます。 まず日露戦争(1904年~1905年)によって日本とロシアの関係が悪化し、正教会は白眼視されます。ロシア革命(1917年)による決定的打撃も被りました。日本正教会は物理的にも精神的にも孤立無援の状態となり、ロシア正教会に吹き荒れていた混乱が日本にも押しよせようとしましたが、セルギイ主教はしっかりと正教会の正しい聖伝を死守しました。

ところが引き続いて起こったのが、関東大震災(1923年)によるニコライ堂の崩壊です。鐘楼が倒れ、ドーム屋根が崩落し、聖堂内部をすべて焼き尽くして、貴重な文献や多くの書籍も焼失しました。

1929年(昭和4年)に東京復活大聖堂は復興しましたが、日本ではすべての宗教にとって、政治的な統制を受ける困難な時代を迎えます。第二次世界大戦の混乱と悲劇の中、終戦直前にセルギイ府主教が永眠しました(1945年)。司祭や伝教師などが激減し、信徒の多くも離散してしまいます。

戦後、ロシア革命以来の共産主義政権下で閉じこめられていたモスクワ総主教庁との関係断絶の中で、日本正教会は姉妹関係にある在アメリカのロシア正教会から主教を迎えました。そして1970年(昭和45年)米ソの冷戦の緩和に伴い対話がよみがえり、日本正教会はモスクワ総主教の祝福を受け「自治教会」となります。
自治教会とは完全な独立とは云えないものの経済的には独立し、日々の教会運営を独自に行う形です。自治教会となった後フェオドシイ永島主教が最初の邦人府主教となり、日本正教会は低迷していた教勢や財政の立て直しに励みました。各地で聖堂が再建され、信徒の啓蒙教育や宣教活動が活性化されます。

1999年のフェオドシイ府主教の永眠後、東京の大主教ダニイル主代座下が日本教会を代表する府主教に着座し、東日本主教教区の仙台の主教セラフィム辻永座下とともに、日本正教会の伝道と牧会を大きな希望をもって進めています。

先ずは御祈りに来てください

現在の東京は高層建築が立ち並び、10階建ての高さに相当するニコライ堂もその姿を遠くからは望めませんが、近くに寄ってみると時代を超越したピザンチン様式の壮大な大聖堂の姿に圧倒され、我が国の重要文化財に指定された意義がよく理解出来ます。

          このブログは日本正教会の公式文書を参照したことを申し添えます。

 

 


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