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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

杉原千畝

2024-03-14 06:38:07 | 日記

杉原千畝(すぎはら ちうね)1900年(明治33年)1月1日 生は、1939年リトアニアのカウナス領事館に赴任し、1940年7月から8月にかけてナチス・ドイツの迫害で欧州各地から逃れてきたユダヤ人たちに、日本経由の大量のビザ(通過査証)を発給し、多くの避難民の命を救ったことで知られています。

ルーマニア・ブカレストの杉原千畝

千畝は早稲田大学高等師範部英語科在学中に官報で外務省留学生試験の存在を知り、米国の雑誌を片端から閲覧する猛勉強の末合格しました。1919年(大正8年)11月外務省の官費留学生になり、ロシア語の重要性を説かれてロシア語講習生として満州のハルピン学院でロシア語を学びます。

1920年12月から1922年(大正11年)3月まで、一年志願兵として朝鮮駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営して陸軍少尉、1923年(大正12年)3月満洲里領事館へ移動命令を受け、1924年に外務省書記生に採用されてハルピン学院でロシア語、ソ連の政治・経済および時事などの講義を担当しました。

1924年に白系ロシア人クラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚、1926年(大正15年)600頁の報告書「ソヴィエト聯邦國民經濟大觀」を書き上げ、外務省から高い評価を受けます。

1932年(昭和7年)3月建国直後の満洲国外交部へ出向、1933年ソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉に携わりました。当初ソ連側は当時の日本の国家予算の一割強の6億2,500万円の巨額の要求をしてきましたが、譲渡代償金1億4,000万円とソ連側従業員の退職金3,000万円での買収に成功し、杉原らによる譲渡協定締結は外交的大勝利でした。

1935年(昭和10年)に満洲国外交部を退官、千畝は正教会の洗礼を受けます。聖名は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」です。

ハルピン在職中にユダヤ人や中国人の富豪の誘拐殺害事件を身近で体験、これらの事件の背後には関東軍が後援した白系ロシア人組織がありました。千畝は関東軍から破格の金銭的条件でスパイになるよう強要されましたが拒否、大日本帝国の軍国主義を冷ややかに見るようになります。

関東軍は妻クラウディアがソ連のスパイであるとの風説を流し、1935年(昭和10年)離婚の決定的理由になりました。満洲時代の蓄えはクラウディアに渡し、千畝は無一文になります。帰国後知人の妹の幸子と結婚し外務省に復帰します。

1937年(昭和12年)待望のモスクワ日本大使館への赴任が決まりましたが、反革命的白系ロシア人との親交を理由にソ連が千畝を拒否し、ヘルシンキのフィンランド日本公使館に赴任しました。

1938年3月杉村陽太郎駐仏日本大使が「杉原通譯官ヲ至急當館ニ轉任セシメラレ」たしと広田弘毅外務大臣に直訴しましたが拒否されます。1939年(昭和14年)リトアニア共和国のカウナス日本領事館領事代理として8月28日に着任しますが、千畝には日本の国家存亡に係わる独ソ間での重大任務が待ち受けていました。

カウナスに残る旧日本領事館 1940年

9月1日ドイツがポーランド西部に侵攻し、第二次世界大戦が始まります。9月17日「独ソ不可侵条約付属秘密議定書」に基づいてソ連がポーランド東部へ侵攻を開始、10月10日軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求したソ連の最後通牒をリトアニア政府が受諾し、1940年6月15日ソ連軍がリトアニアに進駐しました。

カウナスにおける任務について千畝は、1967年(昭和42年)に以下のように述べています。

「カウナスはソ連邦に併合される以前のリトアニア共和国における臨時の首都で、1939年の秋外務省の命令で私は日本領事館を開設しました。

第二次世界大戦の数年前、参謀本部の若手将校がファシストドイツと親密な関係を結ぼうとしていて、この運動の指導者の一人が陸軍中将大島浩駐独大使で、ドイツが本当にソ連を攻撃するかどうかの確証を掴みたがっていました。

参謀本部がドイツ軍のソ連攻撃に重大な関心を持っていたのは、満洲にいる関東軍をソ満国境から可及的速やかに、南太平洋諸島に転進させたかったからです。

ドイツ軍による攻撃の日時を迅速かつ正確に特定することが公使たる小官の主要な任務で、私は何故参謀本部が外務省に対してカウナス公使館の開設を執拗に要請したのか合点がいったわけです。」

千畝が欧州に派遣された1938年当時、ドイツのユダヤ人迫害政策によって極東に向かう避難民が増えていることに懸念を示す山路章ウィーン総領事は、ユダヤ難民が日本に向かう場合の方針を照会する請訓電報を送り、10月7日近衛文麿外務大臣から在外公館へ極秘の訓令が回電されました。

「貴殿第三九號ニ關シ、陸海軍及内務各省ト協議ノ結果、獨逸及伊太利ニ於テ排斥ヲ受ケ外國ニ避難スル者ヲ我國ニ許容スルコトハ、大局上面白カラサルノミナラス現在事變下ノ我國ニ於テハ是等避難民ヲ收容スルノ餘地ナキ實情ナルニ付、今後ハ此ノ種避難民(外部ニ對シテハ單ニ「避難民」ノ名義トスルコト、實際ハ猶太人避難民ヲ意味ス)ノ本邦内地竝ニ各殖民地ヘノ入國ハ好マシカラス(但シ、通過ハ此ノ限ニ在ラス)トノコトニ意見ノ一致ヲ見タ」

リトアニアにはユダヤ教の神学校があり、ドイツに降伏したオランダの出身のナタン・グットヴィルトとレオ・ステルンハイムがいました。6月末グットヴィルトは弁護士でユダヤ難民たちのリーダーだったゾラフ・バルハフティクに相談し、オランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクに出国の協力を求めました。

ズヴァルテンディク領事は「在カウナス・オランダ領事は、本状によって、南米スリナム、キュラソーを初めとするオランダ領への入国はビザを必要とせずと認む」とした文書をフランス語で書いてくれました。

ズヴァルテンディクの手書きのビザは途中でタイプに替わりましたが、難民全員の数を調達できないと考えたバルハフティクは、オランダ領事印と領事のサインのついたタイプ文書のスタンプによって偽「キュラソー・ビザ」を作成し、日本公使館に持ち込んだのです。難民たちの逃げ道はシベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか残されてなく、日本に向かうビザ取得のためにカウナスの日本領事館に殺到したのでした。

「忘れもしない1940年7月18日の早朝のことであった」と回想する千畝は「6時少し前、表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然喧しい話し声で騒がしくなり、ヨレヨレの服装をした老若男女ザッと100人が何かを訴えている光景が眼に映った」と述べています。

千畝は亡命ポーランド政府の諜報機関を情報収集に活用しており、地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名や、海外の親類の援助を得て来た数家族へのビザ発給を予定していましたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていません。

千畝は本省に「発給対象はパスポート以外での領事が最適当と認めたもの」とする情状酌量を求める請訓電報を打ちますが、本省からは行先国の入国許可手続を完了し、旅費および本邦滞在費などの携帯金を有する者にのみに査証を発給せよと、条件厳守の指示が繰り返されました。

難民の憔悴する子供の姿に「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という旧約聖書の預言者エレミアの「哀歌」が、突然、幸子夫人の心に浮かんだと云います。「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう。」という千畝の問いかけに夫人も同意。千畝は「人道上拒否できない」として、本省の訓命に反し受給要件を満たしていない者にも、独断で、通過査証を発給しました。

東京の本省は条件不備の難民などは眼中になく、千畝は厳しく叱責されます。千畝は自分の罷免は避けられないが、自分の人道的感情と人間への愛から1940年8月31日にカウナスを出発するまで書き続けたと、ビザ発給の理由を説明しています。

本省の譴責に真っ向から反論すれば、本省の指示の無視で通行査証が無効になるおそれがあり、千畝は本省との論争を避けて、米国への入国許可が確実で十分な携帯金も所持しているポーランド出身猶太系工業家レオン・ポラクへのビザ発給の可否を本省に問い合わせたりして、ビザ発給条件に関する返信を遅らせました。

カウナス公使館を閉鎖した後に、行先国の許可や必要な携帯金のない多くの避難民にもビザを発給したことを述べ、「外國人入國令」(昭和14年内務省令第6号)の拡大解釈を既成事実化しました。

杉原千畝が作成した通過ビザ

多量のビザを手書きして万年筆が折れ手を痛めた千畝を気遣い、亡命ポーランド政府の情報将校ダシュキェヴィチ大尉は、ゴム印を作って一部だけ手で書くよう提案、簡略化された形のゴム印が作られます。

ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら1か月あまりビザを書き続けた千畝も、ベルリンへの異動命令を無視することができなくなり、9月5日ベルリンへ旅立つ車窓からもビザを手渡し、発行されたビザの枚数は2,139枚にのぼりました。

汽車が走り出し「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。」と列車と並んで泣きながら走っている人達は、千畝たちの姿が見えなくなるまで叫び続けていました。記録に残っていないビザや渡航証明書の実数は把握できませんが、一枚のビザが一家に有効でしたから、少なくとも数千名の難民の国外脱出を助けたと考えられます。

1940年9月5日以降チェコのプラハの領事館勤務、1941年2月にドイツ勤務となりました。

逃げ遅れたユダヤ人たちの多くは「移動殺戮部隊」の手にかかったり、ドイツやソ連の強制収容所に送られ、カウナスでは1941年(昭和16年)8月末までに保護を口実に設置されたゲットーへのユダヤ人移送が完了し、開戦後わずか2か月で1万人ものユダヤ人が殺害されました。幸子夫人は「カウナスでのあの1か月は、私たちがこういうことをするために、神に遣わされたのではないかと思った」と述べています。

千畝の本省への回電に「スモレンスク」「ミンスク」に関する情報が含まれていたのは、ポーランド諜報網との協力の成果でした。千畝は1941年(昭和16年)5月9日の電信で「獨蘇關係ハ六月ニ何等決定スヘシトナス」と6月22日に勃発した独ソ戦の時期を正確に予測し、ソ連側が穀物の大量備蓄を始めて長期戦に備えていると報告しています。

1941年(昭和16年)8月7日ドイツ国家保安本部のラインハルト・ハイドリヒは、外相リッベントロップに「ドイツ帝国における日本人スパイについて」の報告書を提出し、日本領事杉原の名前を筆頭に挙げています。北満州鉄道買収交渉の時代からソ連にマークされていた千畝は、ドイツ諜報機関の最大の標的にもなったのです。

千畝は同盟国のドイツを出し抜き、名目上は敵国である亡命ポーランド政府の情報将校とさえ協力する、非情な情報戦の世界に生きていました。杉原ビザ発給の最初の契機は、千畝が活用していたポーランドの情報将校を、家族を含めて安全地域に逃すための通過ビザでした。

ここまでは日本の外務省も参謀本部も周知でしたが、ナチスに追われたポーランドからの大量の難民がリトアニアへ流入し、カウナスの日本領事館へ殺到する想定外の出来事が発生したのです。

ドイツはカウナス領事館の向かい側に監視用の部屋を整え、ソ連の秘密警察もカウナス領事館を監視し、暗号電報の一部の解読にも成功しています。

ポーランド参謀本部との協力関係は「シベリア出兵」中に日本が入手したソ連の暗号表をポーランドに提供し、この見返りにポーランドの暗号専門家ワレフスキ大尉が、1919年(大正8年)日本の暗号システムを全面的に改定したのが始まりです。赤軍の配置と移動を次々と見破る、当時のポーランド参謀本部の諜報能力は驚異的でした。

1940年リトアニア退去後の千畝は、ドイツの保護領になっていたチェコのプラハの日本総領事館に勤務、1941年には東プロイセンのケーニヒスベルク総領事館に赴任し、ポーランド諜報機関の協力を得て独ソ開戦の情報を掴み、5月9日発の電報で詳細に報告したのです。

ドイツ軍兵士たちと写真に収まるケーニヒスベルク在勤時の杉原一家

6月22日千畝の報告の通り独ソ戦が勃発しました。第二次世界大戦の終結後杉原一家はブカレストの日本公使館でソ連軍に身柄を拘束され、1946年(昭和21年)11月16日直ちに帰国するよう求められて、オデッサ、モスクワ、ナホトカ、ウラジオストックと厳寒の旅を続け、翌1947年(昭和22年)4月5日博多港に帰りました。

1968年(昭和43年)「杉原ビザ」受給者の一人で、新生イスラエルの参事官になっていたニシュリが、在日イスラエル大使館で千畝に再会します。ニシュリがSugiharaという名前で外務省に照会しても「該当者なし」でしたが、千畝が職探しで以前イスラエル大使館に自分の住所、電話番号を教えていたため探し出すことができたのです。

リトアニアの人々には千畝(ちうね)という発音がしにくく、千畝は名を音読にして「せんぽ」と名乗っていたので、戦後リトアニアの人々が「センポ スギハラ」で日本の外務省に問い合わせても、外務省は「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は存在しない」と回答していました。

1969年(昭和44年)12月千畝は、イスラエルの宗教大臣となっていたバルハフティクとエルサレムで29年ぶりに再会します。このとき初めて本省との電信のやりとりが明かされ、失職を覚悟した千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクは驚愕します。

「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という悪意に満ちた中傷や、ニシュリによる千畝の名前の照会時の杓子定規の対応など、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは一貫していました。

こうした外務省の姿勢に最初に抗議したのは、東京に在住していたドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンです。ダンプマンは西ドイツのテレビ協会の東アジア支局長を務めていて、1981年に出版した「孤立する大国ニッポン」のなかで、「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい」と記しています。 

1983年(昭和58年)9月29日フジテレビが「運命をわけた1枚のビザ 4,500のユダヤ人を救った日本人」を放映、千畝もレポーターの木元教子のインタビューに答えました。

1985年(昭和60年)1月18日ユダヤ人の命を救った功績で、日本人では初めてで唯一の「諸国民の中の正義の人」として、イスラエル政府より「ヤド・バシェム賞」を受賞し千畝の名前が世に知られると、賞賛とともに「政府の訓命に反した国賊」などの中傷の手紙も送られるようになりました。

日本政府による公式の名誉回復が行われたのは2000年10月10日の河野洋平外務大臣の演説です。

「これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。

故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。」

河野外相の演説があったのは救いですが、ダンプマンの指摘の通りの我が国の外務省の硬直した姿勢がなくなったとは思えないのが現実のようです。2019年10月21日「杉原千畝記念財団」は、杉原が参議院に提出した履歴書と人事記録を見付け、外務省の退職は依願退職であったと判明しました。

杉原千畝は1944年(昭和19年)に勲五等瑞宝章を受章、退職金や年金も支給されていて、千畝にとって不名誉な記録は存在しないというのが、現日本政府の公式見解です。

 

 

 


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氷川丸 

2024-02-29 06:28:57 | 日記

「氷川丸」(ひかわまる)は日本郵船が1930年(昭和5年)に竣工させた12,000トン級貨客船で、船内各部の装飾は国内外の建築家やインテリア・デザイナーを集めてコンペティションを行い、フランスのマーク・シモン社が担当しました。

氷川丸 重要文化財

氷川丸は北太平洋のシアトル航路で運航されていましたが、1941年(昭和16年)11月21日海軍に徴用され、横須賀海軍工廠で海軍特設病院船に改装されます。

客室が病室となった他、二等食堂が第二病室として畳敷きになり、第五番艙中甲板が第三病室、第六番艙中甲板が第五病室に、三等食堂が手術室に転用されました。一等、二等ラウンジなどのアール・デコの装飾はそのまま残され、3回浮遊機雷に触れましたが小幅の修理に留まり、第二次世界大戦で生き残った唯一の大型客船です。

戦後は満州、台湾、中国、南洋諸島からの、750万人の日本人の内地引き揚げが必要になり、1年間南方の島々から2万の復員兵士を輸送し、満州の一般邦人の引揚げのためにコロ島と福岡の間を3往復しました。

2016年(平成28年)8月国の重要文化財に指定され、横浜港で博物館船として公開されます。

氷川丸の船名は大宮氷川神社由来で、船内の神棚には氷川神社の御祭神が祀られ、船内装飾に神社の神紋である「八雲」が用いられています。姉妹船の「日枝丸」は東京の日枝神社を「平安丸」は平安神宮を祀っています。

氷川神社神紋 1等客室階段手摺

日本郵船は、昭和初期に北太平洋で展開されていたアメリカとカナダの貨客船就航路線の競争に参加するため、明治末期から大正初期に造られた老朽船に代えうる新型船を必要としていました。

日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約で航空母艦の保有を制限されたため、平時は商船として運用し有事には軽空母に改造可能な大型貨客船を求め、日本郵船が既に発注済だったサンフランシスコ航路のための「浅間丸」型貨客船3隻は、有事での軽空母への改造が予定されていました。

日本郵船は浅間丸型に続いて1927年(昭和2年)欧州航路用2隻、南米航路用1隻、北米シアトル航路用3隻を建造することになり、横浜船渠がシアトル航路用2隻の建造を受注したのが氷川丸と日枝丸です。日本海軍はこの2隻も有事には軽空母にする予定でした。

氷川丸に詳しい元日本郵船専務嶋田武夫氏に依れば、氷川丸は総トン数11,622t、全長163.3m、船幅 20.12m、満載喫水 9.23m、B&W複動4サイクルディーゼル機関2基2軸、 出力11,000馬力を備え、試運転速力18.38ノットで、旅客定員は 1等79名、2等70名、3等140名、計289名、乗組員定員168名でした。

「海上人命安全のための国際条約」(SOLAS)を先取りした北太平洋の荒天に耐え得る安全設計で、優れた載貨能力と荷役装置、大型ディーゼル・エンジン、当時最先端の救命、防災設備や、振動、騒音の少ない電動甲板補機を特徴としました。

氷川丸は船首から船尾まで全通の二重底で、高さが2.4mないし2.7mの9層のデッキを持ち、中央に32mの長さの機関室があり、エンジンに直結する2本のシャフトが直径5mの2個の4翼プロペラを駆動、 16ノットの航海速力で横浜シアトル間を12日間で航走しました。

船体は6つの水密隔壁で7つの区画に仕切られ、機関室の前後に夫々3つの貨物倉があり、3番デッキは貨物倉、4番デッキは3等客室、5番デッキにはダイニングサロンと1等客室があり、5番デッキが水密の基準甲板を構成していて、それより上が上部構造で6番デッキがブリッジ、7番デッキは救命ボートと士官の居住区、8番デッキに船長室、9番デッキが操舵室になっていました。

当時の日本は造船関連産業がまだ未塾で、外板用の鋼材もイギリスからの輸入に頼っていて、氷川丸は通常よりも厚い18.3mm以上の外板を使用し、船首部分の内部構造には荒天時の波浪の強い衝撃を想定して、特別の水平桁による補強が施されました。 当時はまだ溶接技術はなく外板はすべてリベット締めです。

緊急時に電源が無くても、自重で降下させられる最新式の救命艇揚げ降ろし装置や、当時としては斬新なエンジン付きの救命ボートも装備し、食料、飲料水、信号用具、釣り道具などが積みこまれました。

11,622総トン、旅客定員289名の貨客船としては、貨物容積8,675t、載貨重量10,274tと抜群に大容量の貨物倉を有し、基準甲板全体に対するハッチの相対面積も浅間丸の2倍以上で、 荷役装置も戦後の日本郵船A型貨物船と同じく9ギャングの同時荷役が可能でした。

日本郵船の客船のインテリアは伝統的に英国王朝風でしたが、氷川丸は1925年のパリ万国博で発表された流行の最先端を行くアール・デコ様式を、1等船客用の公室、ダイニングサロン、スモーキングルーム、ラウンジ等に採用しました。

1等社交室

1等食堂

1等室の階段

氷川丸はSOLASの安全基準を先取りした水密区画構造、アール・デコ様式のインテリア、一流シェフによる料理の提供など、船体、サービスとも、当時の先端をいく良質なオーシャンライナーでした。

戦時中海軍病院船に徴用され、戦後も何度か改装された氷川丸ですが、特別室、社交室、喫煙室の家具や照明器具、階段の手すりにはアール・デコの意匠がそのまま残されています。

当時アール・デコをインテリアに採用したのは、大西洋でブルーリボンを競ったドイツの「ブレーメン」(1929年竣工)や「オイローパ」(1930年竣工)で、この新様式を全面的に取り入れた戦前の世界最大の豪華客船がフランスの「ノルマンディー」(1935年竣工)でした。

氷川丸は1928年(昭和3年)11月9日に起工、1929年9月30日に進水、1930年4月25日に竣工、5月8日に横浜から神戸へ向かい、13日に神戸を出帆、17日に横浜を出港しシアトルへ向かったのが処女航海です。

5月27日シアトル到着。当時アメリカではかなり反日感情が強くなっていましたが、シアトルでは3万人が見学に訪れました。氷川丸は6月17日にビクトリアを出港し、6月29日に横浜に到着、神戸を経由して7月6日に門司から上海を経て、7月12日香港に到着して処女航海を終えました。

1932年チャールズ・チャップリンが横浜からシアトルまで乗船しています。チャップリンは大西洋の豪華客船の雰囲気が嫌いで、欧州からアメリカへ帰る船旅は日本郵船の欧州航路の「諏訪丸」 と「照国丸」を乗り継ぎ、日本船の静かで家庭的なサービスが気に入って、太平洋も氷川丸で渡ることにしたのです。

1937年イギリス国王ジョージ6世の戴冠式に出席した秩父宮夫妻がビクトリアから横浜まで乗船、1939年アメリカ公演を行った宝塚少女歌劇団が帰国の際に乗っています。宝塚の一行はアメリカ本国の見分よりも、氷川丸の温かい心のこもった応接と静かな航海の日々の方がより印象的だったと、想い出話を残しています。

1941年(昭和16年)8月シアトル航路が休止され、9月から11月にかけて各地の海外在留邦人の引き揚げに客船が運航されました。10月20日氷川丸は北米へのユダヤ人216名を乗せて横浜からバンクーバー、シアトルへ向かい、復路で邦人364名を乗せて11月18日に横浜に戻りました。

1941年11月21日海軍に徴用され、12月1日から横須賀海軍工廠で改装されて海軍特設病院船となった氷川丸は、12月23日横須賀を出港、31日にルオット島に到着。ウェーク島攻略戦の負傷者を「海平丸」から収容し、1942年1月5日トラックに到着、その後マーシャル諸島各地を回って2月16日に横須賀に戻りました。

2月22日横須賀を出港してラバウルへ向かい、負傷者を収容後、トラック、グアム、サイパンを経て4月5日に横須賀に戻り、引き続きトラック、ブイン、フィンカロラ、ラバウルを訪れる航海が続きます。

病院船時代の氷川丸

1943年2月日本軍は餓島と云われたガダルカナル島から撤退しましたが、氷川丸は2月5日に横須賀を出港して17日にラバウルに着き患者662名を収容。トラックで病院船「朝日丸」から50名が移送され、ガダルカナル島から救出した370名はサイパンで降ろして、3月2日横須賀に戻ります。

9月9日横須賀出港の航海で10月3日にスラバヤ港外で船尾付近に触雷、10日の修理を要し、1944年7月1日横須賀出発の航海で7月15日メレヨン島ルオット水道で、磁器機雷2発が船首で爆発して一番船艙が浸水、ダバオで応急修理をしました。1945年1月17日横須賀出港の航海でも、2月22日にジョホール水道で船尾に3度目の触雷をし、これも磁器機雷で二重底の油槽、水槽に漏水が生じました。

病院船氷川丸は合計28回出動して3万名以上の傷病兵を運びましたが、終戦後、満州、台湾、中国、南洋諸島等から750万人の日本人を内地に引き揚げさせるため、1945年12月1日第二復員省横須賀地方復員局所管の特別輸送船になりました。

氷川丸は南方の島々からの2万人の兵士の復員輸送を1年間行ない、満州からの一般邦人の引揚げで4万5千人を日本へ運びました。1946年8月15日特別輸送船の任務を解かれて国内航路に復帰しました。

日本殉職船員顕彰会の記録では、第二次世界大戦で死亡した我が国の船員数は60,608名、戦没船数は7,240隻で、民間船には護衛がつかないことが多く、船員の死亡者6万人は当時の船員の43%に当たります。陸軍将兵の戦死率20%、海軍将兵の16%と比較して、船員の死亡率がいかに高いかが分かります。

戦後の1953年(昭和28年)氷川丸は11年ぶりにシアトル航路に復帰しました。最終航海は1960年(昭和35年)8月27日に横浜からシアトルへ向け出港し、10月1日に横浜に戻り、10月3日に神戸に到着したもので、太平洋横断238回で延べ25,000人の乗客を運んでいます。

氷川丸の保存を望む横浜市や横浜市民の声で、1960年12月に「宿泊施設を兼ねた観光船」となり、横浜船渠で大規模な補修が実施され「氷川丸マリンタワー株式会社」の所有となって、1961年(昭和36年)5月山下公園に係留され、ユースホステルや見学施設として運営されました。

船体はエメラルドグリーンに塗り替えられ、 船内で結婚式、ビアガーデン、ライブ、サロン・コンサート、パーティ、年越しカウントダウンなどの催事・イベントが行われましたが、1980年代後半日本郵船時代の黒い塗装に塗り直されています。

入場者数の減少が続き、氷川丸マリンタワーは2006年(平成18年)12月25日で運営を終了し、船体を日本郵船に譲渡、日本郵船は2007年8月より船体の修繕や内装の修復を行って、2008年4月25日竣工から78年目に「日本郵船氷川丸」の名称で一般公開を再開、毎日正午に汽笛を鳴らし、新年を迎える際にも汽笛を鳴らすのが慣例となりました。

氷川丸の船体の大規模修繕は1961年(昭和36年)以降実施されておらず老朽化が進行していますが、私企業が巨額の維持費を負担して遠洋航路の定期船を海上で保存しているのは、世界的にも珍しい重要文化財です。

1等特別室 リビングルーム

1等特別室 寝室

日本郵船の歴史上シアトル航路を開いたのは1896年(明治29年)で、その以前に北太平洋で定期航路を営んでいたのはアメリカの2社と英国の1社でした。  

1896年2月アメリカ北部を貫通するグレート・ノーザン鉄道から、同鉄道の太平洋岸の終点であるシアトルに向けて日本から定期航路を開き、旅客・貨物を相互に接続してはどうかと提案がありました。

当時人口35万のサンフランシスコに比し、シアトルは僅か6千の田舎町でしたが、同鉄道は大陸横断鉄道の中でシカゴへの最短距離を走っており、大圏コースのシアトル航路はサンフランシスコ航路より航海時間が1日短い利点があって、日本郵船はシアトル航路の開設に踏み切りました。シアトル市は本航路の開設を機に、米北西太平洋岸経由のアジア貿易で目覚ましい発展を遂げ、人口は現在100倍に増えています。

戦前のシアトル航路では、往航は外交官、軍人、留学生、貿易商等の業務渡航客が多数乗船しました。当初の主な貨物は、往航がニューヨーク向けの生糸、絹製品、緑茶等の雑貨で船倉の3分の1にも満たず、復航は日本、香港向けの綿花、綿製品、小麦粉、小麦等で満杯でした。

1953年(昭和28年)終戦後8年を経てシアトル航路に復帰することになった氷川丸は、三菱横浜造船所で大改装を行って12年振りに貨客船として就航します。

シアトル航路に復帰した氷川丸の出帆風景

日本の軽工業と対米貿易の発展で、往航は綿製品、陶器、玩具、クリスマス装飾品等の雑貨が増加した一方、復航では綿製品が減って木材、新聞紙、パルプ、ビールやウイスキー原料のモルト等が増加しましたが、貨物の大部分を占める小麦は不定期船のバラ積みに移行しました。

日本が高度経済成長を遂げた後は、往航では重化学工業製品の機械類、特に電気製品や自動車部品等が主な貨物となり、完成車は自動車専用船に、また復航の小麦、硫黄、石炭等はバルク・キャリヤーや大型の製鉄原料専用船により、それぞれ大量且つ効率的に運ばれるようになりました。

1960年(昭和35年)船令30才となった氷川丸は、シアトル航路での7年間に亘る46回の航海で15,800人の船客と輸出入物資を輸送し、惜しまれつつ引退しました。 

21世紀の現在、長距離の旅客の移動はすべてジェット機になってしまい、短距離移動のフェリーと超豪華クルーズ船を除いて客船の定期航路が世界中でなくなりました。一世紀前の最新鋭の客船として数々の創意工夫の凝らされた氷川丸は、重要文化財として、今なお特異な輝きを放っています。

 


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トルコ・シリア大地震

2024-02-15 06:15:09 | 日記

ちょうど1年前の2023年2月にはトルコで大地震が起きて、今世紀に入って6番目に死者の多い自然災害となり、5万人以上の人びとが亡くなった報道に吃驚させられたものでした。

我が国と同じく環太平洋火山帯に属する国々が地震大国であることは承知していても、トルコが古来からの地震大国であることをご存じだった方は、そう、多くはないでしょう。2023年2月6日にトルコ南東部を震央として発生し、南隣のシリアにかけて大きな被害が出たトルコ地震は「トルコ・シリア大地震」と呼ばれます。

4時17分(日本時間10時17分)にトルコのガズィアンテプ県とカフラマンマラシュ県の境界付近を震央とするマグニチュード7.7 ~7.8の大きな地震が発生し、13時24分にカフラマンマラシュ県のエルビスタン地区でマグニチュード7.5~7.6の2回目の大きな地震が発生しました。

トルコの震源分布

トルコとシリアに甚大な被害が出て、3月20日での両国の死者数は56,000人以上になり、21世紀になって6番目に死者の多い地震となりました。

本震発生から1か月の間に余震が1万1020回起き、倒壊建物はトルコで21万4577棟、シリアで1万棟以上、トルコで1300万人以上、シリアでは880万人以上の人たちが避難生活者になり、被害額はトルコ国内だけで1000億ドルを超えると推定されています。

本震の震央はガズィアンテプ県ヌルダウから東へ26kmの地点で、震源の深さは17.9km、マグニチュード7.8で、トルコで起きた地震としては3万人の死者を出した1939年のエルジンジャン地震以来の大きなものでした。

地震計のデータ解析によると、震央から南西へ60kmにあるハタイ県のハッサでは震度7の激しい揺れ、震源近傍では震度6強の強い揺れが観測され、ギリシャ、ヨルダン、イラク、エジプト、ルーマニア、ジョージア、キプロスでも揺れが感じられました。

最大余震と思われた13時24分に発生した揺れの震央はカフラマンマラシュ県エキネジュの南南東4kmの地点で、震源の深さは10.0km、マグニチュード7.5と推定されました。

2月21日時点でM4以上の余震が290回観測されていますが、余震活動は本震付近(北東-南西方向断層、東アナトリア断層)、2度目の大きな揺れの西側(東西方向断層)、その揺れの東側(2つの断層が交わるエリア)を中心に活発で、このような鋭角に並ぶ断層帯で短期間に大きな地震が続けて起こることは珍しいとされています。

震源付近はアナトリアプレート、アラビアプレート、アフリカプレートの3つのプレートが重なり、有史以来度々大地震が発生しています。これら三つのプレート境界の活構造として、アナトリアプレートとアラビアプレートでは横ずれ境界の東アナトリア断層、アナトリアプレートとアフリカプレートでは沈み込み帯のキプロス弧、アフリカプレートとアラビアプレートでは拡大境界の死海リフトや紅海リフトなどが形成されています。

トルコ周辺のプレートや断層

今回の地震は、東アナトリア断層南西部、及びチャルダク断層に沿った震源断層が活動したと推定され、東アナトリア断層は完新世の平均変位速度が約11mm/年の左横ずれ断層で、トルコの災害緊急事態対策庁から地震のリスクが最も高いエリアであると見なされていて、2020年のエラズー地震など1998年からマグニチュード6以上の地震が4回起きています。

第一震(M7.7~7.8)は東アナトリア断層南西部に沿った地震で、アドゥヤマン県からハタイ県にかけて北東から南西走向に左横ずれの断層運動が生じました。最大変位量は7mですが、長さ300kmにわたって断層破壊を起こしました。

第二震(M7.5-7.7)はチャルダク断層に沿った地震で、カフラマンマラシュ県内で東西走向に左横ずれの断層運動が生じ、断層破壊長は100kmでしたが、最大変位量は10mにもなり、第一震と比べると短いのですが大きな断層破壊でした。

今回の地震の2回の大きな揺れは1つの地震とその余震ではなく、2つの活断層がずれ動いた「双子地震」であったと分析されています。

筑波大学八木勇治教授は世界各地で観測された地震計のデータを基に1回目の地震で南西からのびる東アナトリア断層帯が1分ほどかけて北東の方向へ地下の岩盤の破壊が拡大し、長さがおよそ50Kmで10mにわたり大きくずれ動いたとみられ、さらに2回目の地震で1回目の地震の震源から100kmほど北に離れて東西に走っている断層が長さ40km、10mにわたりずれ動いたものと分析しました。

地球観測衛星「だいち2号」が2月8日にレーダーで観測したデータの解析では、トルコの震源地の周辺の広い範囲にわたって10cm以上の地盤の変動が確認され、1回目に発生した地震で「東アナトリア断層」の周辺では最大で1mの地盤の変動が、さらに2回目の地震では震源地近くで最大で2m超えの地盤の変動が確認されました。

日本産業技術総合研究所の分析によると、活断層によって地表が最大9.1mずれたことが判明し、日本の観測史上で最大の内陸地震であった濃尾地震(M8.0)の8mを超え、水平方向のずれとして世界最大級でした。

3月20日現在でトルコ・シリア両国の死者数は56,000人以上になり、東北地方太平洋沖地震(19,761人)の3倍の死者数で、世界保健機関(WHO)による推計では最大2,300万人が被災したと見られています。

東京大学地震研究所の楠浩一教授は建物の被害について「低層から中層に至るまで多様な建物が倒壊している。中でも柱が瞬時に強度を失い、建物全体が真下に折り重なるように崩れ落ちるパンケーキクラッシュと呼ばれる非常に危険な壊れ方がいくつかの地点で起きた」と指摘し、地震工学者のムスタファ・エルディク教授は、こうした被害は建築物の設計や建設の質に問題があったことを示唆すると述べています。

パンケーキクラッシュ

本震の後に余震が頻発しており、壊れかけた家屋の中は危険で被災者は野宿を余儀なくされ、季節が冬のため夜間は気温が氷点下まで下がり、低体温症などの二次被害につながりました。

トルコのハタイ県にある被災建物

現地の映像で、周辺がまだ暗い中で建物が原形をとどめないほど大きく崩れる様子が確認され、鉄骨などもむき出しになっています。ローマ帝国時代に増築されたガズィアンテプ城の壁や監視塔が崩落し、17世紀に建てられたシルバニ・モスクが一部損壊、世界遺産のディヤルバクル城塞とヘヴセル庭園の文化的景観やギョベクリ・テペも甚大な被害を被りました。

今回の地震ではトルコの建築ブームに際して、適切な建築基準が徹底されなかったことが死者の増大につながり、エルドアン大統領に対しても批判の声が上がっています。エルドアンが建築ブームを称賛してきたことは否めず、2023年2月10日にトルコの検察当局が「建設許可に違反し、倒壊の原因を作った責任者への措置が検討されている」として倒壊した建物に関連した捜査を始めました。

トルコでは建築基準法の施行が不十分で、1999年に発生した大地震を受けて導入された「建物の耐震性を高めるために課された特別税」が不適切な用途に使用されてきたと、エルドアンを批判する声が多く出ています。

クルム環境相は今回の地震を受けて17万戸以上を調べた結果「被災地域で2万4921戸の建物が倒壊ないし甚大な被害を受けた」と発表し、地元のデベロッパーが建築基準法を順守しないことが常態化し「腐敗した政治家や地方自治体の担当者がこうした違反に目をつむって賄賂を受け取っている」といった批判があります。

トルコ政府では2007年に建設業界の腐敗を一掃するため「新しく建築される建物には耐震性を持たせ、古い建造物の補強工事を進める」ことを目的とした新たな規制を導入し、2018年には「地震の揺れを吸収する鉄骨や鋼柱の使用の義務付け」を定め、建築基準関連法が強化されました。

ところが同じ2018年にトルコ政府は「既存の不適格な建築物件について有償で義務を免除する」仕組みを導入し、これに1000万人を超える人々が申請して、トルコ政府は「不動産税や登録費」として30億ドル(3980億円)以上を徴収、これがトルコ政府の収入になっていました。公式のデータではトルコ国内に存在している1300万戸のうち、半数以上の建造物が法令違反です。

2023年2月8日にトルコの最大野党である共和人民党のクルチダルオール党首は「この事態を招いた責任はエルドアン氏にある。与党は地震に対する備えを20年行ってこなかった」と批判しました。トルコだけで被害額は1千億ドル(13兆円)を超えると国連開発計画(UNDP)が発表しています。

シリアでは少なくとも3135人の死者、3000人の負傷者が確認され、死者のうち1435人は政府の支配下にある地域から、残り1700人は反体制派の支配下にある地域から報告されています。世界遺産の古代都市アレッポが甚大な被害を被っています。

1900年以降に起きた地震で、世界最大の地震は1960年にチリで起きたものです。記憶に新しい2011年の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)は、世界ランキングでは4位にあたります。

マグニチュードでのランキングでは、

 

順位      地震名             発生日     マグニチュード             

1  チリ地震(バルディビア地震)     1960年5月23日      9.5

2  アラスカ地震             1964年3月28日      9.2

3  スマトラ島沖地震           2004年12月26日      9.1

4  東北地方太平洋沖地震         2011年3月11日      9.0

   カムチャッカ地震           1952年11月5日      9.0

6  チリ地震(チリ中部地震)       2010年2月27日      8.8     

   エクアドル・コロンビア地震      1906年2月1日       8.8

8  アリューシャン地震(ラット諸島)   1965年2月4日       8.7

9  アッサム・チベット地震        1950年8月15日      8.6

   アリューシャン地震          2005年3月29日      8.6

   アッサム・チベット地震        2012年4月11日      8.6

   アリューシャン地震          1957年3月9日       8.6

   スマトラ沖地震(ニアス島沖地震)   2005年3月29日      8.6   

   スマトラ島沖地震           2012年4月11日      8.6

となります。

上記の地震はすべて環太平洋火山帯で起きており、わが国で太平洋を囲む地域にしか大きな地震は起こらないと考えている人が多いのは頷けます。トルコ・シリア大地震では震央が内陸部で、津波は10数cmに止まりました。

2024年の元旦能登半島の大地震では大きな余震が相次ぎ、海岸では4mに及ぶ土地の隆起がおきて、新年早々、我が国は大騒ぎになりましたが、まだ、全貌が把握し切れていません。

我が国の地震による住宅の被害想定では、建築基準法で厳しく規制された多くの建物は震度7でも倒壊しない筈で、年数の経った木造住宅の密集地域での火災による被害が大きいと想定されています。

建物が地震による倒壊に強いのは大変結構なのですが、我が国は周りを海に囲まれているため震源が海中だと、3・11で経験したような巨大津波による壊滅的被害が予想されます。

南海地震、東南海地震、東海地震と区別する場合と、この3つを南海地震として一括する呼び方がありますが、伊豆半島から九州の南端に至る広い範囲での大型海溝型地震はいずれ必ず発生するでしょう。

予想される南海地震の津波は広範囲に渡って最大30mの高さに達する見込みで、津波に対しては、まったく、対策が立っていない現況です。南海地震の発生までにどのくらいの年月が残されているかは分かりませんが、いずれ発生することは歴史が証明しています。

政府は世界中の国々にお金をばらまく前に、まず、自国民の命を守るために、国内に必要な経費を投入するのが先です。津波対策には経費も時間もかかりますが、震源の場所によって津波の到着までに多少の時間の余裕が生じる地域での我が国民の生存に役立つ、短時間で避難のできる構造物を構築しておくなど、何とか知恵を絞って、少しでも、救命に役立つ対策を実行に移しておくべきでしょう。

 

 

 

 

 

 


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老いの検証 7

2024-02-01 06:26:13 | 日記

今回の老いの検証を書くに当たり、これまでの6回の検証を振り返ってみました。卒寿を迎えた2021年の正月より以前の緩やかな老いの進行に比べて、2024年正月に九十三歳を迎えるまでの3年間の急速な老いの進行を改めて実感させられ、卒寿以前の老化などは、まだまだ、日常生活に大きな影響を及ぼすほど進行していなかったのだと改めて思い知らされました。

2021年の春先のぎっくり腰の強烈なアタックをきっかけに、日常生活が激変しました。2、3日経っても整形外科のクリニックまで歩いて行けず、マンションの車椅子を借りて、家内に押してもらって受診したのが難行苦難の始まりでした。

腰痛自体は長続きしませんでしたが、その後が問題でした。右の下肢全体を錐でももみ込まれるような強い痛みが間断なく襲って来るようになり、この痛みも湯舟につかっている間だけは嘘のように収まるのですが、湯舟から出た途端にまた痛み出します。10年以上前に脊柱管狭窄症の診断を受けていますが、ぎっくり腰は動かなければ痛くないのに、この下肢の痛みはじっとしていても痛いので本当に参りました。

第4腰椎の右側に1週間おきにステロイドの注射を2回してもらいましたが効果はなく、3回目に第4腰椎の右側に加えて、右の第4腰神経の通り道にあたる大腿上部にもステテロイドを打ってもらい、2日くらいは嘘のように痛みがとれましたが、その後も痛みはぶり返します。

特に痛みの原因となるような眼で見て分かる病変が下肢にあるわけではないので、末梢から脳の中枢に至る痛覚の伝達経路のどこかで異常がおきているための痛みなのでしょうが、痛みの強い間は大変でした。

一応起きて生活していたのですが、気がつくと両方の臀部の筋肉が急速に委縮して尾骨が出っ張り、脊柱の両側の背筋も委縮して腰堆が真ん中に突き出ています。寝付いたわけではないのに右のお尻に「ただれ」ができて、皮膚科で褥瘡だと云われました。

極端な右下肢の痛みは3か月ほどでようやく軽くなりましたが、機能の回復は家の中が歩ける程度で、外出のために電動車椅子を購入しました。腰痛や右下肢の痛みが軽くなってからも、臀部や背部の筋肉はまったく恢復してきません。なんの効果も期待したわけではなかったのですが、痛さが減ってから軽い膝の屈伸運動を始めました。1か月くらい経つと、委縮した臀部の筋肉と腰椎の両側の筋肉が少し盛り上がって来たのに気がつきました。

3か月位で筋肉の量としてはだいぶ回復しましたが、力は戻らず、しゃがんだ状態からは何かに手で摑まらないと立ち上がれません。しかし90歳を過ぎてからでも、筋肉が回復することが分かったのは大発見でした。回復の速度は極めて遅いものの、老化と云うのはまったく回復力を失ってしまうのではないようです。

以前から肋間神経痛には時々悩まされていましたが、右下肢が痛みだした頃からは、頭部や顔面、手足など、体中至る所に頻回に皮膚表面の神経痛が起こるようになりました。つきん、つきんと2~3回皮膚表面に痛みが走った段階で、痛む場所を触ってみると知覚過敏になっています。

触れると痛く、即座に痛み止めのスティックを塗ったり、テープを貼ると収まることが多いのですが、収まらない場合は何度も塗ったり、貼ったりになります。この皮膚表面の痛みはロキソニンの服用が効くのですが、出来るだけ飲まないようにしてきました。

何かに摑まらないと床から立ち上がれない状態は1年半以上、今も、続いていますが、昨年の年末にふと気が付くと、手を使わずに床から立ち上っていたのに吃驚しました。もっと前から試みていれば、もっと早く手を使わずに立てていたかも知れないのですが、今でも摑まらないで立ち上がれるのは、しゃがんだ時間が2秒くらいまでです。しかしなんの期待もしないまま続けてきた腰や下半身の運動が、やっと筋肉の回復に効果を現してきたようなのです。

いずれにしても昨年は、一昨年に続いて痛みに翻弄された1年でしたが、身体の痛みが減るのはなんと云っても有難いことです。私にとってはこの痛みは歳を取ってから起こったもので、行動の自由を奪われた点では正に老化現象ですが、老化によって誰しもが必ず痛みを起こすものではないでしょう。

痛みで呆けの進行にまで気が回りませんでしたが、昨年の後半には度忘れの頻度が増加し、口に出したばかりの名前がその直後に出て来ない現象がひどくなりました。昔のヒトやモノの名前がぱっと出てくる頻度は意外に減らず、何十年も前の名前がなぜ突然出てくるのか不思議なこともしばしばで、きっかけさえあれば思い出話は結構出来るのです。

何かをしようとすると手が震える企図振戦は少しづつ強くなってきて、小さい字は書けなくなりました。たどたどしくキーを打つのには困らないので、日頃はパソコン様様です。やむを得ず字を書かされることがあると、パソコンで漢字を選ぶだけに馴れてしまった現在、書いた字が果たして正しく書けているかどうかには自信がなくなりました。

これまで、度々、警戒を要すると述べてきた嚥下反射の機能低下は、心配していたほど急速には進行してこないようです。しかし口の奥の方にある食べ物が、すんなり、食道へ降りて行ってくれない違和感は食事の度に意識します。

耳の聞こえが悪くなったことも初回の老いの検証に書いていますから、これも結構前からのものですが、2020年の一時的な強い難聴以後には強い難聴は起きていません。昼と夜の食事の支度は私が続けていますが、支度の前に腰痛に備えて腰にスティックを塗ってからになります。

電動車椅子は順調に使えていて私は近所への外出ができるようになりましたが、家内の腰が痛んだり下肢が吊ったりで、外を歩ける距離が減って来て遠くで買い物をするのが厳しくなりました。

電動車椅子にも多少の荷物は積めますが、イオンの買い物は家まで届けてくれるので助かります。しかし届けてもらった買い物を、常温、冷蔵、冷凍と仕分けして仕舞いこむのも大仕事です。

家庭内の仕事量の多さと大変さはよく分かっていた積りですが、それでも昨年は二人の体の動くうちは自分たちですることに決めてやってきました。しかし家内も力の要る仕事は無理になり、脚立が必要な高い所の仕事なども危険で出来なくなりました。ちなみに家内は2月の節分で米寿を迎えます。

自分たちだけで頑張る方針は昨年の暮に、遂に、転換せざるを得なくなり、お手伝いさんを頼むことにしました。良い業者さんを紹介してくださった方があって、とりあえず不定期にヘルパーさんを差し向けてもらう契約をしました。

年末には窓ガラスの清掃や、換気扇など高い所の清掃作業を頼みましたが、大変丁寧にしてくれて、一昨年は拭き切れなかったガラス窓の上の方のも綺麗になり、気持ちよく新年を迎えることが出来ました。

我が家は何回か引っ越しを重ねているうちにソファーを置かなくなっていて、リビングにはリクライニング・チェアーを1台置いて来ましたが、私が専用で使ってしまうと家内には、昼間、体を伸ばして休める場所がありません。暮れにリクライニングの可能な事務用椅子をパソコンで見付け、家内のパソコン用の椅子を交換しました。

以前は私が組み立てたものですが、もう、無理で、男性のヘルパーさんに頼みましたが、家内はパソコンに向かっている途中でも、そのまま、リクライニングにして体を伸ばすことが出来るようになって大変喜んでいます。

ヘルパーさんを頼んでみて、家庭内の日常生活レベルを維持するのに必要な能力が、今の自分たちでは大きく下回ってしまったことがよく分かりましたし、若い人の仕事ぶりを見ていて、今の若い人がいかにきちんと仕事をしてくれるのもよく分かりました。

意地になって自分達だけですべてやろうとしなくても、今回のリクライニングのように若い人に組み立てを頼めれば、年寄りでも使うことは出来るのです。体の不自由さとボケの進行は必然ですから、いかにうまく若い人の力を借りていくかが今後の大きな課題です。

人生百二十歳時代だと云う人も現われましたが、老化を体験していない人には簡単そうに思えても、一定の段階まで老化が進むと誰の力も借りずに生きていくことが、事実上、不可能なことが分かってきます。

九十三歳の現在、老化のペースと少しずれているのかなと思うのは、15年ほど前に一旦かなり白くなった髪の毛が、それ以後、逆に黒くなったこと、まだ、全部自分の歯であることです。外見上は歳よりも若く見えるのだそうですが、当人にとっては外見と実態が異なるのは皮肉そのものです。

今日も無事でよかったと云うのが1日の終わりの夫婦の合言葉です。これから先も若い人たちの力を借りて、感謝しながら、1日、1日を積み重ねて行きたいと思っています。

                                 

                                              

    

 

 


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東京駅赤レンガ駅舎

2024-01-18 06:21:03 | 日記

1889年(明治22年)神戸駅まで開通した官設鉄道の新橋駅と、私鉄の日本鉄道の上野駅を結ぶ、高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)第9回帝国議会でこの新線の中ほどに、中央停車場を建設する案が可決されました。

中央停車場は繁華街のある東側(現在の八重洲側)ではなく、陸軍の練兵場跡地だった西側(現在の丸の内側)に設定され、日露戦争終結後の1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、1914年(大正3年)12月20日に開業、東京駅と命名されました。

駅の位置や規模、構内の配置は、ドイツから招聘されて日本の鉄道建設を指導していたフランツ・バルツァーによって、我が国にとって象徴的な皇居正面の現在の場所に決められたものです。

プラットフォームはレンガ積の高架式4面8線で、新橋駅までは複々線の高架橋が計画されます。バルツァーが提案した日本風の瓦屋根に唐破風をあしらった駅舎のデザインは、純西洋風の建物が欲しい日本政府には不評で、辰野金吾の設計になります。

駅舎は中央に「天皇の駅」を象徴する皇室用玄関を設け、レンガと鉄筋造りの3階建、総建坪9,545 m2・長さ330 mの「辰野式ルネッサンス」と呼ばれる豪壮華麗な西洋式建築になりました。

南北にそれぞれドーム状の屋根があり、当時は丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口と分けて使用されました。皇室専用の中央の玄関は細かい装飾が各所に施されます。

1914年は第一次世界大戦の開戦の年で、青島(チンタオ)のドイツ要塞を攻略した神尾光臣陸軍中将が凱旋し、皇居に参内するイベントに合わせて開業式が行われました。

開業当時の東京駅 1914年(大正3年)

赤レンガ駅舎は第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲で、米軍の焼夷弾が屋根を貫通して炎上、屋根と内装を焼失しました。

この爆撃に使われた焼夷弾は、油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾、エレクトロン焼夷弾、ナパーム弾を一つの束にまとめ、投下後に空中で散弾のように分散する新型の「クラスター爆弾」で、3月10日の東京大空襲で下町の10万人の人々を焼死させた焼夷弾でした。

 

東京大空襲で破壊された赤レンガ駅舎 1945年(昭和20年)

赤レンガ駅舎は1947年(昭和22年)に開業当初より一回り規模を縮小して応急工事を終えたまま、日本国有鉄道が、度々、建て替え構想を出しては延期されて60年が経過してしまいます。

1987年(昭和62年)4月1日国鉄分割民営化に際して、駅の土地の再開発が検討され、赤レンガ駅舎を建て替えて高層化するか、開業当初の形態に復元して保全するかが課題になりました。

「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」などの赤レンガ駅舎の保存運動が起こり、1988年(昭和63年)政府は「東京駅周辺地区再開発構想」で赤レンガ駅舎の形態保全方針を決め、JR東日本などが検討して1999年(平成11年)に建築初期の形態への復原が決ります。

2003年(平成15年)4月18日赤レンガ駅舎は国の重要文化財に指定され、2007年5月30日より鹿島・清水・鉄建の建設共同企業体の担当で、赤レンガ駅舎を創建時の姿に復原する工事が開始されました。

復原後の東京駅丸の内駅舎 重要文化財

2012年(平成24年)6月10日

1914年に竣工した中央停車場の主任設計者の辰野金吾は、1879年工部大学校(現東京大学工学部)卒業の第一期生でロンドン出身の建築家ジョサイア・コンドルに学び、官費留学生としてイギリスでさらに建築学を専攻しました。

帰国後大学で教鞭をとりながら日本銀行本店などを設計しましたが、辰野の建築が全国に広がるのは民間の建築家として事務所を立ち上げた1903年以降です。

辰野金吾の建築の特徴は赤レンガに白い花崗岩でラインを描き、屋根に塔や小屋を載せた「辰野式」と呼ばれるデザインで、重厚で趣きのある外観が多くの日本人の心を惹き付けました。

建築家として辰野が是非手掛けたいと思っていたものの一つが実は中央停車場で、依頼が来たのは帝国大学工科大学の教授を辞した翌年の1902年で、願ったり叶ったりだったのです。

辰野が設計したのは3階建て、全長335mのレンガと鉄筋造りの駅舎ですが、その建築様式は伝統的な西洋建築に基づきながらも、辰野式と呼ぶに相応しい独自の様式によりました。関東大震災でびくともせず、堂々と建っている赤レンガ駅舎の雄姿に、多くの人びとが励まされたと云います。

1999年(平成11年)赤レンガ駅舎は創建当初の形態への復原が決り、2007年5月30日工事が開始されます。空襲で破壊されて応急工事のままだった赤レンガ駅舎は、鉄骨鉄筋コンクリート壁で躯体を増築して創建当初の3階建てに戻し、外壁、尖塔、南北両ドームの内外の意匠も忠実に再現して、新たに地下1、2階を増築、免震構造としました。

3階の外壁は創建当初と同じ仕様の厚さ15 mmの化粧煉瓦を貼った外壁に復原し、戦後の修復で2階に移されていたイオニア式柱頭を当初の3階に戻し、支柱の形状も創建時のものにしました。失われていた花崗岩の柱頭飾りや銅の高欄は、モックアップを用いてディテールや施行方法を検証し、創建当時の意匠に復原しました。

2階以下は既存の構造煉瓦と同じ厚さ15mmと45mmの化粧煉瓦を貼り、線路側はコンコース側の壁を撤去して、トップライトからの自然光で復原された丸の内駅舎内を見ることが出来るようにしました。

辰野の建築の特徴は赤レンガに白い花崗岩でラインを描き、屋根に塔や小屋を載せたデザインです。辰野は200以上の建築物を手掛けたと云われ、現存するものの多くは重要文化財に指定されていますが、北は北海道、南は辰野の故郷の唐津まで、それぞれの建物が街のシンボルとして愛され、観光スポットとして人気を保っています。

辰野金吾

日本で最初の洋式建築家のひとり

現在の丸の内駅舎は2000年代に入って復原された赤レンガ駅舎は、八角形のドームの天井に取り付けられた8羽の鷲や8つの干支のレリーフも創建当時の意匠を見事に復原し、本来の細部に至るまで辰野の設計に基づいた東京駅の姿を、時代を超えて見ることができるのは奇跡とも云われます。

創建当時のドーム内部

爆撃の応急修理後のドーム内部(2006年3月26日)

復元された北ドーム天井

ドーム内部の保存と復原の基本方針は部位によって異なり、3階以上の壁面と天井面は、干支や2mを超える大きさのワシの彫刻やレリーフが存在した創建時の意匠を忠実に再現し、1階と2階は3階以上の部分との調和を図りながら機能性に優れた新しいデザインとなりました。

3階張出部を支えていた装飾付きの鉄骨支柱はRCで補強されて円柱にかわったため、全体としては装飾のない機能的な意匠になりましたが、ドームに施されたレリーフは南北のドームともまったく同一です。

方位を飾る干支は当時漆喰でしたが、落下防止のためガラス繊維強化石膏(GRG)とし、鷲の像は繊維強化プラスチックで再現しました。干支の彫刻はドーム内の8か所のコーナーにその干支の方位に従って、十二支のうち八支の彫刻が配置されていて、いずれも灰緑色をバックにガラス繊維強化石膏で作られています。

復元されたドームの天井の装飾

工事による一時的解体に伴い、それまで使用していた雄勝石の屋根材65,000枚は産地の宮城県石巻市雄勝町の業者に送られて、選別・清掃・補修した上で保管されていましたが、東日本大震災による津波で塩害を蒙り、使用可能な45,000枚のみが再利用され、工事全体では457,000枚のスレートが必要で、不足分はスペイン産のスレートで補われました。

ドーム部分の屋根は建設当時の銅板葺きに戻されて、0.4 mmの銅板が合計1t使用され、時計下の外壁レリーフは2m四方の銅板3枚を使って叩き出されたものを使用しました。線路側の中央部の屋根はガラス化して、屋根裏をホテルのゲストラウンジにします。

外壁の花崗岩は中央部御車寄せ周りと1階腰石が北木産花崗岩(北木石)で、その他は全て稲田産花崗岩です。保存・復原工事に際しては広場側復原部には稲田産花崗岩、線路側は中国産花崗岩を使用しましたが、職人の数が減って丸の内駅舎のすべての花崗岩を国内で加工することは難しく、稲田産花崗岩は日本で切り出して中国へ運び、中国で加工して丸の内駅舎へ取り付けられました。

タイルレンガを繋ぐ目地には覆輪目地が施されています。これは既に失われてしまった工法で、職人が3か月間試行錯誤し専用の鏝まで復活させて、半円形に盛り上がった目地を再現したものです。

大正時代は建具がすべて木製でしたが、窓枠は三協立山製のアルミニウムにフッ素樹脂塗装されたサッシに替えられました。木の風合いにできる限り近づけるよう、辰野が設計した岩手銀行中ノ橋支店を視察するなど、試行錯誤の末「東京駅専用ビル用サッシ」を開発したものです。窓の装飾に使われるアルミ製鋳物も三協立山が手掛けました。

2012年(平成24年)6月10日復原された駅舎の1階が開業し、10月1日全面開業しました。また、復原工事に伴って営業を休止していた駅舎内の「東京ステーションギャラリー」も拡大して再開業、翌々日の3日には「東京ステーションホテル」が規模を拡大して再開、地下に新規にレストランが開かれました。

丸の内駅舎の復原工事に併せて、改札内1階に商業施設「セントラルストリート」を設ける工事が行われ、同年10月1日にグランドオープンしました。復原工事費用はJR東日本などが「空中権の売買」を行って捻出したものです。

1908年(明治41年)3月に着工し、1914年(大正3年)12月に開業した日本の玄関口東京駅丸の内駅舎は、日本の近代化を担う首都東京に誕生した中央駅として数々の歴史の場面を眺めてきました。

1945年(昭和20年)の東京大空襲で破壊された赤レンガ駅舎は、2003年(平成15年)重要文化財に指定され、2012年(平成24年)に創建当時の姿に見事に復原されています。歴史と未来を繋ぐTokyo Station Cityは、我が国の大正時代の文化の象徴をこれからも限りなく、後世に伝えていってくれることでしょう。

 


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