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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

神風を超えた “DIVINE WIND”

2024-08-15 06:12:58 | 日記

1945年(昭和20年)5月14日午前6時56分、アメリカ海軍の象徴的空母である「エンタープライズ」に神風特攻の零戦が体当たりし、大破したエンタープライズは、以後、第二次大戦中に戦列に復帰することができませんでした。

米軍はこの特攻機の冷静沈着、最期の瞬間まで強い意志を感じさせた行動に感動し、通常の“KAMIKAZE”とは区別して、この特攻機を “DIVINE WIND”(神聖な風)と呼びました。

米第58任務部隊は5月14日夜明けに26機の日本機の来襲を受け、6機を対空砲火で、19機を上空哨戒機によって撃墜しましたが、これらの迎撃をすり抜けた生き残りの1機がいました。航空母艦の最大の弱点は艦載機を飛行甲板へ上げ下げするエレベーターの開口部なのですが、この1機はエンタープライズの飛行甲板の前部エレベーター開口部に、正に、突入したのです。

残りの1機のいることを承知していたエンタープライズは、効果的な防御態勢を取るべく大きく舵を切り零戦に艦尾を向けましたが、実はこれこそ最後の1機が狙っていた瞬間でした。

零戦はエンタープライズの艦尾に差し掛かかると機体を急上昇させ、上空で180度左旋回をして背面飛行に移り、そのまま、対空砲の死角であるエンタープライズの真上から全速力で急降下して飛行甲板前部エレベーターに突入、3階下のフロアで爆発、エレベーターを130mの上空まで吹き飛ばし、エンタープライズは大破、炎上、浸水しました。

空母ヨークタウンに零戦が突入した瞬間

上空120mまで吹き上げられるエレベーター

格納甲板前部とエレベーターに火災が発生し、13名が戦死、68名が負傷、人的被害の割に物的被害が大きく、エンタープライズは大修理を要し海軍工廠送りになりました。

米軍のパイロットの一人は「この零戦は対空砲火や直掩機にやられそうになると雲の中に隠れ、時々、雲から顔を出してはエンタープライズの位置を確認しており、そのすぐ傍まで近づいて急降下を始め、高速での機首上げでオーバーシュートしそうになると背面飛行を行って修正し、艦載機のエレベーターめがけて突入した。」「これまで日本海軍の先輩たちが3年かかってできなかったエンタープライズの戦線離脱を、彼はたった一人で、一瞬の間に、してのけた」と称賛しました。

エンタープライズ直上で背面飛行から突入を敢行する特攻機

消火活動を行うエンタープライズの飛行甲板

正に前部エレベーターの位置に突入している

別のパイロットはこの特攻機を、無謀と云う感覚が付きまとう“KAMIKAZE”と区別して “DIVINE WIND”(神聖な風)と呼び、この零戦の類稀なる計画性と巧妙精緻な技術は、米軍に特別な尊敬の念と大きな感動を抱かせたのです。

この零戦の特攻の詳細が判明したのは、戦後アメリカ側の関係者が「1945年5月14日午前6時56分トミザイという中尉が零戦の特攻機でエンタープライズに突入した」と知らせてくれたことがきっかけです。

エンタープライズでは、突入のあった14日の夕刻戦死した13名を星条旗で包んで水葬にした後に、突入した特攻隊員も水葬にしました。遺体の飛行服の階級章から海軍中尉であることが判明、ポケットの名刺から日系二世の通訳が氏名をtomi-zaiと判読したのだそうです。

当日未帰還の爆戦搭乗員の中にトミザイと云う名はなく、未帰還の中尉4名のうち2名はエンタープライズへの突入時には別の場所にいたことが分り、残りは第6筑波隊の富安俊助中尉と第11建武隊の楠本二三夫中尉だったので、トミザイはトミヤスだと判断されました。

富安俊助海軍中尉

富安は大正11年に長崎で生まれ、頭脳明晰でスポーツも万能な少年で早稲田大学を卒業後、戦局悪化に伴って昭和18年9月に土浦海軍航空隊に入隊しました。

つくば海軍航空隊で零戦搭乗員として訓練を受け、翌年5月には海軍少尉となり、岡崎航空隊に転任して中尉に昇進しました。昭和20年3月には再びつくば航空隊に配属となり予備学生の教官になります。
3月28日「機密航空命令第15号」が発令され、富安は特攻隊長の一人に指名されました。5月14日午前5時30分富安を隊長とする第六筑波特攻隊が、500kg爆弾を装着した零戦52型に搭乗して鹿児島県鹿屋基地から出撃しました。

500kg爆弾を搭載した零戦は「爆戦」と呼ばれて操縦が極めて難しく、特攻命令が下った際にも鹿屋基地では搭乗員から離陸すら懸念されました。エンジン出力を全開にしても速度が上がらず、飛行場一杯を這うようにしてもなかなか浮上しなかったと云います。他の特攻隊と併せて26機が沖縄に接近する米艦隊の空母を目指しました。

エンタープライズは太平洋戦争中の主な海戦のほぼすべてに参加した米空母で、大小15回も損傷を受けながら沈没を防ぎ「ビッグE」 の愛称で親しまれていました。

戦果の拡大公表が当たり前になっていた大本営発表では、エンタープライズ撃沈をなんと9回も繰り返して恥を曝しています。それほど、沈むはずなのに沈まなかった空母とも云えます。

奇跡的にエレベーターホールから富安の遺体が発見され、戦死した13名の米兵とともに最敬礼をもって水葬されましたが、戦後に富安の機体の破片が富安の遺族に手渡され、2020年には富安の飛行服から発見された50銭札も渡されています。
特攻については、今日、人により様々な印象を持っており、人命軽視の非情な戦術と見る人が多いのですが「必ず立派な戦果を挙げる覚悟です」「御国の興廃存亡は今日只今にあります」「我々は御国の防人として出ていくのです」 と富安が遺書に綴っているように、現在とはまるで違う実情、そして人々の思いがあったのは確かで、この時代に、このような人物が我が国にいたことを日本国民として忘れてはならないのです。

その一方、別の意味で戦争を考えさせられる酒巻和男海軍少尉がいます。酒巻は1940年(昭和15年)海軍兵学校(第68期生)卒で、1941年12月8日の真珠湾攻撃では特殊潜航艇「甲標的」の艇長としてハワイ沖にいました。艇の故障や米軍の攻撃で座礁し、自爆装置を作動させて海に飛び込み、意識を失った状態で米軍に収容されて、太平洋戦争の日本人捕虜第1号となりました。

1941年(昭和16年)12月8日、日本海軍はハワイのオアフ島真珠湾に停泊するアメリカ海軍太平洋艦隊と周辺の軍事基地に対する攻撃を実施、空母艦載機による空襲に加えて、大型潜水艦から発進する特殊潜航艇「甲標的」による米軍艦艇への魚雷攻撃を図りました。酒巻少尉の甲標的は出撃前に羅針儀が故障し、現地で修理は出来ず、酒巻が出撃を主張して認められたのです。

12月6日甲標的はオアフ島沖で母艦から離され、真珠湾内のアメリカ海軍艦艇の攻撃に臨みましたが、酒巻艇は羅針儀が使えず珊瑚礁に座礁し、一旦逃れたものの、再度、座礁しました。

甲標的に時限爆弾を仕掛けて鹵獲を防ぎ、同乗の稲垣清二等兵曹と共に脱出しましたが、漂流中に稲垣とはぐれ、酒巻は海岸に漂着し意識のない状態で米軍に収容されたのです。

真珠湾に打ち上げられた甲標的

日本海軍は甲標的全艇が集合地点に帰還せず、米軍が潜水艇撃沈を報じたことから、当初、甲標的の全員が戦死したものと考えていました。後に米軍の放送で酒巻が捕虜となったことが分かりましたが、日本海軍は秘密にします。

1899年オランダ・ハーグで第1回万国平和会議が開かれ、捕虜の扱いを定めた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」が採択されています。俘虜は人道をもって取り扱うこととされ、1907年の第2回万国平和会議やジュネーヴ条約等で取り決めが拡張されて今日に至っています。

捕虜は尋問を受けた際に自らの氏名、階級、生年月日及び識別番号等を答えなければなりませんが、これ以外に自軍や自己に関する情報を伝える義務はありません。捕虜は出身国に通知され、家族に自身の安否や所在を伝えることも出来るのです。

日露戦争では開戦直後の1904年2月21日に俘虜情報局が設置されていますが、両国の俘虜の名前が交換され、官報での公表や家族への通知も行われていました。旅順要塞降伏後には日本人捕虜101人が解放されましたが、彼らは「旅順口生還者」と呼ばれ冷遇されることはありませんでした。

1942年3月大本営は酒巻を除く9人を「九軍神」として発表します。酒巻家では、実家を訪れた海軍士官から特殊潜航艇乗り組みであったことを伏せて「戦死」と伝えられ、後日来訪した士官からは「生死不明」で、このことは他言無用と云われました。酒巻は1944年(昭和19年)8月31日付で予備役に編入されています。

酒巻は同じ捕虜収容所に収容されたハワイ浄土宗第8代総長の名護忍亮師に「捕虜として生きる教え」を受け、アメリカ本土に移された後には、多くの精神状態を正常に維持できていない捕虜が自決をしないよう説得しています。酒巻は日本語通訳として働き、捕虜としての態度は立派で、アメリカ軍関係者も賞めていました。

酒巻以後に捕虜になった日本の軍人たちは、実名を述べて親族が「非国民」にされるのを恐れて偽名を申告することが多くなり、偽名が通告された捕虜たちは我が国では「未帰還者」として扱われました。

1946年(昭和21年)酒巻はアメリカから復員しました。捕虜を恥とする価値観は敗戦後も我が国では消えず、12月8日が近づくと新聞やテレビの記者が酒巻を訪ねることが続きましたが、一部を手記に発表した他は、家族にも戦争のことは話さなかったと云われます。

酒巻は結婚してトヨタ自動車へ入社、英語を生かして輸出部次長などを勤め、1969年(昭和44年)に「トヨタ・ド・ブラジル」の社長に就任、1987年(昭和62年)にトヨタ自動車を退職、1999年(平成11年)11月29日81歳まで長寿を保ちました。

甲標的の訓練施設があった愛媛県伊方町には1966年(昭和41年)に建てられた「大東亜戦争九軍神慰霊碑」があります。2021年12月8日その慰霊の隣に、酒巻を含めた10人の「史跡 真珠湾特別攻撃隊の碑」が建てられ、この碑には出撃前に撮影された10人の写真が埋め込まれました。

酒巻は戦後に至っても我が国民から「非国民」として非難されましたが、意識を失って米軍に収容されていなければ、酒巻は、正しく、軍神になっていた筈なのです。

史跡 真珠湾特別攻撃隊の碑

前列右端が酒巻少尉

第二次世界大戦で各国の捕虜になった兵員の人数は、ドイツ9,451,000人、フランス5,893,000人、イタリア4,906,000人、イギリス1,811,000人、ポーランド780,000人、ユーゴスラビア682,000人、ベルギー590,000人、フランス植民地525,000人が50万人越えと膨大な数です。日本は40,000人でした。

これほど多くの捕虜が出るのは、どこの国も敗けている部隊が全滅するまで戦うことを命ずることはなく、その部隊が全滅するまでの間に貴重な戦力を新たに注ぎ込むことはしないからです。

戦略的価値を無くした戦線や、形勢逆転の可能性の無くなった部隊に捕虜になることを許容すれば、その戦局を見捨てる選択肢が得られて軍事的に大きなメリットが生じるのです。

1941年(昭和16年)1月8日に陸軍大臣東條英機が示達した戦陣訓(陸訓1号)には「生きて虜囚の辱めを受けず」の一節があります。各国は捕虜になった場合を想定して、敵に味方の情報を与えることがないよう教え込むのですが、捕虜になることを想定しない我が国では、その教育はされませんでした。

敗色濃厚になった1944年(昭和19年)東條は戦争遂行のために国務と統帥の一致が必要であると、首相・陸相と参謀総長の兼務に踏み切り、2月22日の「非常時宣言」の本土決戦の項では「一億玉砕の覚悟」を国民に訴え、婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を求めたのです。

戦闘能力のまったくない老人や幼児を含む国民のすべてに「一億玉砕」を求めたところで「竹槍戦術」で日本本土防衛が出来る筈はなく、一億が玉砕してしまっては大和民族の名誉などある筈もないのです。

我が国は戦後GHQに戦前、戦中、戦後の我が国の歴史に触れることを一切禁じられました。戦前の軍国少年ではなかった戦後生まれの人々が、戦争関連の我が国の歴史を改めて考証するようになったのは近年のことです。

敗色濃厚の戦争末期にあっても、軍人として、飛行機乗りとして、敵国の将兵から特別の賞賛を得た富安中尉のような煌めきが存在した歴史は日本国民として忘れてはなりません。今後、再び、「一億玉砕」などと云う戯れごとも繰り返してはならないと云うのが、我が国の無条件降伏によって、自らの生きる機会を取り戻すことが出来た戦前派が抱く強い思いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







 

 

 

 







 

 

 

 

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