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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

Boys, be ambitiousと明治のお雇い外国人

2024-05-09 06:31:41 | 日記

北海道大学の前身「札幌農学校」の初代教頭クラークの発した “Boys be ambitious”の語は、札幌農学校の代名詞のごとくに知られていますが、当時の在学生たちに果たして認識されていたかどうかには疑問が提出されています。

ウィリアム・スミス・クラーク

他ならぬ北海道大学付属図書館から出されているのが、以下の疑問です。

高校や中学の教科書の中に “Boys, be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”と続けた言葉を載せたものがあります。

“Boys, be ambitious”が広まったのは昭和39年3月16日の朝日新聞の「天声人語」欄で紹介されてからですが、稲富栄次郎著「明治初期教育思想の研究」(昭和19年)を出典として「青年よ大志をもて。それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成しとげるために大志をもて」と訳文が添えられていました。

この“Boys, be ambitious”に続く言葉をクラーク博士のものとするのにはいくつかの疑問があって、まず“Boys, be ambitious”が帰国に際して島松まで見送った学生たちに向って最後に述べられた言葉だとすると(第一期生大島正健博士の著書)、多くの学生たちが聞き知っていたことは疑わしいのです。

また、その後に長い英文を書き加えたのが誰かもまったく不明です。天声人語が引用した稲富氏の著書にも言及はなく、岩波の「教育学辞典」(昭和11年)の海後宗臣氏の「クラーク」の項からの引用かと思われます。

海後氏は同文館の「教育大辞書」増訂改版(大正7年)の小林光助氏の「クラーク」の項によったのでしょう。小林氏はこの長文が“Boys, be ambitious”の意図する内容であるとしていますが、海後氏はこの英文全体をクラーク博士の離別の言葉だと述べていて、明治の中頃までは札幌農学校においてさえも“Boys be ambitious”は知られていなかったのではないかと思われます。

札幌農学校の文書でこの語が最初に確認できるのは、明治27年予科生徒安東幾三郎が学芸会機関誌「恵林」に掲載した「ウイリアム・エス・クラーク」なる文章です。「暫くにして彼悠々として再び馬に跨り学生を顧みて叫んで日く、Boys, be ambitious like this old man(小供等よ、此老人の如く大望にあれ)と」。

明治31年学芸会編集の「札幌農学校」と名付けた本は、巻頭に「Boys, be ambitious」を掲げ「この語は彼が最後の遺訓にして」とあり、札幌農学校の出版物にこの語が見られるようになるのはこの本以後のことです。

いずれにしてもこの語は長い間埋れたのち、札幌農学校が確固たる基盤を獲得し、学生たちの間に自信と誇りが培われた頃に想い起され、特別の意味を与えられるようになったようだと云うのが、北大図書館報「楡蔭」No.29の見解です。 北大の図書館報の見解ですから、その通りなのでしょう。

クラーク像 羊が丘展望台

お雇い外国人は明治政府によって雇用され、日本の近代化に必要な西欧の先進技術や知識をもたらし、我が国に海外の生活習慣を伝え、日本文化を世界に紹介する役割も果たしました。

明治政府は江戸幕府が計画していた鉄道網の建設構想や、殖産興業を大々的に推進するために工部省を創設し、大勢の技術系外国人を雇用しました。報酬は当時の日本人の給与体系よりも高く、1871年(明治4年)の時点で太政大臣三条実美の月俸が800円であったのに対し、外国人の最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1045円でした。

お雇い外国人の人選は政府間協定や信用のある機関を通して行われたため、ほぼ全員が真摯に役目を果たしました。日本人とのやり取りはすべて彼らの母国語でしたから、外国人の教えを理解するために必要な彼らの母国語の習得に当時の日本人がどれほど努力したかは、明治時代の半ばに日清戦争に勝てる近代国家を創り上げた成果からも明らかでしょう。

お雇い外国人は緊縮財政のため1876年(明治9年)に多くが解雇され、工部大学校の卒業生や海外留学生が力を発揮しはじめて、外国人の雇い入れは次第に少なくなります。

ほとんどの外国人は任期を終えると日本を離れましたが、ラフカディオ・ハーンやジョサイア・コンドル、エドウィン・ダンのように日本文化の魅力に惹かれて滞在し続け、日本で妻帯したり生涯を終えた人物もいます。

雇用された専門分野とは異なる分野で功績を残した人物も多く、アーネスト・フェノロサは政治学や哲学の教授でしたが、日本美術の評価で名が知られ、ホーレス・ウィルソンは英語教師として招かれましたが、我が国に野球を伝えて野球殿堂に名を残し、ウィリアム・ゴーランドは大阪造幣寮の技師でしたが、日本の古墳の研究や日本アルプスの命名で知られています。

1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)までに日本が雇用した2,690人の外国人の国籍は、イギリス人1127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人でした。

1890年(明治23年)までの期間に最多数を占めたイギリス人の雇用先は政府雇用が54.8 %で、工部省が43.4 %でした。大口雇用ではエドモンド・モレル他の鉄道建設技術者、リチャード・ブラントン他の灯台建設技術者、ヘンリー・ダイアー他の工部大学校教師団、コリン・マクヴェイン他の測量技術者が挙げられます。

アメリカ人の政府雇用は39.0 %で、文部省が15.5 %、開拓使が11.4 %で、フランス人は陸軍が48.8 %を占め、陸軍雇用の外国人の87.2 %はフランス人でした。少人数ですが司法省に雇用されて不平等条約撤廃に功績のあったギュスターヴ・エミール・ボアソナードや、左院でフランス法の翻訳に携わったアルベール・シャルル・デュ・ブスケなど法律分野で活躍した人物もいます。

ドイツ人は政府雇用が62.0 %で、文部省(31.0 %)、工部省(9.5 %)、内務省(9.2 %)が目立ち、エルヴィン・フォン・ベルツをはじめとする医師や、地質学のハインリッヒ・エドムント・ナウマンなどが活躍しました。

幕府が開設した長崎海軍伝習所はオランダ人の指導でしたが、明治の海軍は1873年(明治6年)イギリスから迎えたダグラス顧問団によりイギリス式に変わっています。陸軍がドイツ式に転換されたのは、1885年(明治18年)ドイツ陸軍のクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル参謀少佐を陸軍大学校教官に任命してからでした。

札幌農学校は北海道開拓に当たる人材の育成を目指す「開拓使仮学校」として1872年(明治5年)東京に設立されました。1875年(明治8年)北海道の組織的な開拓がはじまり、最初の「屯田兵」が札幌郊外の琴似兵村に入植し、仮学校も東京から移転して札幌農学校と改称されます。

マサチューセッツ農科大学学長であったウィリアム・スミス・クラークが札幌農学校の初代教頭に招かれ、僅か8か月の滞在でしたが、マサチューセッツ農科大学をモデルに、農学に限らず幅広い教育を行いました。札幌農学校のカリキュラムは農学、英語、数学、化学、物理学、植物学、測量学、土木工学、経済学、英文学、弁論術など理学、工学、教養の分野にまで及んでいます。

北海道開拓の主体は1875年(明治8年)に始まった屯田兵でしたが、札幌農学校は屯田兵に多くの幹部を送り込んでいます。開校初期はアメリカ出身の教師が多く、大農経営や畑作に重点をおく教育で、1890年代半ばには中小農経営と米作に重点を切り換えました。

1906年(明治39年)札幌農学校を農科大学に昇格して理工科大学とし、予科を設けて「北海道帝国大学」とする案が文部省に上げられ、仙台に理科大学を置いて札幌の農科大学と併せて1つの帝国大学とする案に纏まり、1907年(明治40年)札幌農学校は「東北帝国大学農科大学」となります。

農科大学長佐藤昌介が東北帝国大学総長を兼ね、農科大学には予科が設置されました。1918年(大正7年)札幌の東北帝国大学農科大学は独立して「北海道帝国大学」となります。

かつて北海道、台北、京城の3つの帝国大学には本科に進める予科がありましたが、帝国大学の入学定員は旧制高校生の定員を満たしていたので、旧制高校生は希望する大学や学科を選びさえしなければ、全員、帝国大学へ入学出来たのです。白線帽、マント、朴歯(ホウバ)の下駄が象徴の彼らは、何を学んでいてもよい自由を謳歌しながら、仲間同士で切磋琢磨していました。

各校を繋いでいたのは寮歌です。北大予科の「都ぞ弥生」はどの高校でも歌われていましたが、かつての旧制高校には国家を背負って立つ気概を受け継ぎ、将来の責任ある役割を夢見る若者の姿があり、この気概を煽ったのが寮歌だったのです。

明治は遠くなりました。しかし誰の作か分からない“Boys, be ambitious”に続く “Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”がもっとも望まれるのは150年後の現在の我が国の政界であると云うのは、誠に、嘆かわしいことです。このままでは日本が亡びてしまいかねません。

 

 

 

 

 

 


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鍋島 直正

2024-04-25 06:42:46 | 日記

鍋島 直正(なべしま なおまさ)1815年1月16日(文化11年12月7日)生まれは、肥前佐賀藩鍋島斉直の隠居により17歳で第10代藩主になった大名で、明治維新以前の諱は斉正(なりまさ)、号は閑叟(かんそう)です。

戦国時代とは異なり大名が直接藩の指揮を取ることなどなくなった幕末に、大名自身が采配を振るって佐賀藩の疲弊した財政を再建し、藩が長崎警護の役に就いていたことから、西欧の進んだ文明を取り入れて国防力を強化すべく、自身で長崎に足を運んで、当時、我が国随一の国防力を備えた藩を築き上げました。

若年時代の佐賀藩第10代藩主 鍋島直正

国立国会図書館臓

1817年(文政10年)将軍徳川家斉から松平姓を与えられ、1830年(天保元年)藩主に就いた際には家斉の偏諱(一字)を与えられて斉正と名乗りますが、1868年(明治元年)直正に改名しています。

直正は長崎でオランダ船に何度も乗り込んで鉄製大砲の製造に取り組み、佐賀藩はペリー来航時に鉄製大砲を所有していた唯一の藩で、幕末の佐賀藩や明治政府で活躍する多数の人材を輩出しました。

直正は江戸の藩邸で生まれ、若年で藩主になり様々な改革を断行して佐賀藩を幕末の雄藩にのし上げましたが、家督相続当初は藩の財政が逼迫していて、まず粗衣粗食令を出して自らも率先しましたが功なく、藩の役人の大幅な整理、借金の整理、磁器・茶・石炭などの産業育成により財政改革を断行しました。

当時の佐賀藩は長崎の警備役が負担で、先代藩主斉直の奢侈と、2年前の記録的な台風による甚大な被害も重なって、財政は破綻状況にありました。直正が佐賀に向けて江戸藩邸を出発した途端、藩に貸付のある商人たちが返済を申し立てて藩邸に押し寄せ、行列を停めざるを得なかった屈辱的な経験をしています。

直正の大名行列が通ったあとにはぺんぺん草一本生えていないと云われ、雑草までも粥に入れて家臣に食べさせる倹約と、蓄財、地場産業に力を入れて藩財政の健全化に成功しました。

あらゆる面での藩政改革を志し、藩校「弘道館」を拡充、洋学を学ぶ「蘭学寮」を設け、子息の成績の良し悪しで父親の禄が決まる「文武課業法」を制定するなど、徹底して勉学を奨励しました。

また「医学寮」を設置して、当時世襲制だった医師に日本で初めて免許制度を取り入れ、当時不治の病であった天然痘の根絶のためにオランダから「牛痘ワクチン」を輸入して、自らの長男で種痘を試して世に信頼性を示し、外来の医療技術を積極的に取り入れて普及させました。

長崎の警備担当で国を護る兵器の必要性を痛感した直正は、鉄製大砲鋳造のための反射炉を築きます。理化学の研究に当たる「精煉方」や海軍の伝習機関「三重津海軍所」を設け、国産初の蒸気機関を開発するなど、幕末の佐賀藩の技術力は日本の最先端を行き、その結果佐賀藩の軍事力と多くの優秀な人材は明治維新で大きな役割を果たし、日本の近代化推進の原動力となりました。

ゼンマイ仕掛けのからくり人形をはじめ、1度ゼンマイを巻けば1年間動いた万年時計、蒸気船や蒸気車の雛形、アームストロング砲、自転車、精米機、写真機など数々の発明品を生み出しました。

他藩に情報を漏らさない鎖国に等しい政策を執り、久留米藩の鼈甲細工師の子息で「東洋のエジソン」と呼ばれた田中久重を「精煉方」(せいれんかた)に任命、極秘裡に日本最強の洋式陸海軍を整えていきます。久重の発明のアームストロング砲がなければ「江戸城無血開城」は成らなかったと云われています。

直正が藩政改革に乗り出した当初は、江戸在住の前藩主斉直ら保守勢力の顔色を窺わねばならないことが多く、実行できた改革は倹約令の発令がせいぜいでした。しかし5年後の1835年(天保6年)藩の政治の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼すると、斉直の干渉を押し切って、荒廃していた佐賀城本丸に御殿を新築します。

これを皮切りに役人を5分の1に削減して歳出を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、磁器、茶、石炭などの産業の育成、交易に力を注ぐ藩財政改革を行い財政が改善しました。

藩校の弘道館を拡充して優秀な人材を育成する教育改革、小作料の支払を免除する農村復興改革を断行、役人削減とともに藩政機構を改革し、出自に関わらず有能な家臣を積極的に政務の中枢へ登用しました。

佐賀藩の歴史には1808年(文化5年)の長崎警備当番の年に、イギリス船フェートン号がオランダ国旗を掲げて入港し、オランダ商館員2人を人質にとって水と食料を要求、水、野菜、肉と引換えに人質を釈放して退去した事件がありました。当時の佐賀藩は少数の警備兵しか置いておいていなくて対応できず、事件の責任を負って長崎奉行松平康英が切腹、佐賀藩主も逼塞の処分を受けていました。

幕府も財政難で長崎警備の強化ができない事情から、佐賀藩は独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置して反射炉などの科学技術の導入と展開に努め、その結果、アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や、鉄砲の自藩製造に成功し、蒸気船「凌風丸」を完成させることに繋がっていきます。

1853年(嘉永6年)6月のペリー来航の後、9月3日に幕府の老中阿部正弘より佐賀藩に命令書が下され、鉄製36ポンドカノン砲5門、24ポンドカノン砲25門、それを乗せる車台50台が注文されました。佐賀藩では築地の反射炉だけでとうてい間に合わぬため、多布施に大規模な反射炉を築き、大砲の鋳造に当たりました。

何度も失敗を重ねてやっと安政2年大砲25門を鋳成し、大坂奉行の順成丸、妙法丸の2隻に16門を積載して輸送しましたが、7月23日紀州灘で暴風雨に遭い順成丸は沈没、妙法丸は勝浦に漂着しました。積み残しの大砲とその後出来上がった大砲を品川台場に据付けましたが、その遺構は今も「お台場」に残っています。

蒸気船凌風丸は全長60尺(18.2m)、全幅11尺(3.3m)、蒸気機関は10馬力で推進方式は外輪、船体は木造で船底は銅板被覆されていた、我が国で初めての蒸気船です。

「凌風丸」の絵図 作者は鍋島直映(鍋島直正の孫)

アームストロング砲は1855年にイギリスで開発され、佐賀藩が長崎のグラバー等を介して輸入して保有していた最新の鉄性後装施条砲です。佐賀藩で製造したアームストロング砲は、後の戊辰戦争の上野や奥羽の戦いで用いられ「佐賀の大砲」は強大な威力を発揮します。

戊辰戦争で用いられた佐賀藩のアームストロング砲

軍事以外では藩医伊東玄朴が、当時不治の病であった天然痘の根絶のための痘苗の入手を進言します。藩は長崎出島のオランダ商館長に牛痘苗の入手を依頼し、バタヴィアから牛痘苗を入手して、1848年6月に長崎で種痘が実施されました。

佐賀藩では7月に長崎で佐賀藩医楢林宗建が息子に接種、8月には楢林が佐賀藩領にもたらした痘苗が直正の長男に施され、安全性を知らしめました。種痘事業担当の「引痘方」が設けられ、藩領で無料の接種が開始されます。

この痘苗は長崎の唐通事頴川四郎八から蘭方医を中心のネットワークで京都に送られ、同年10月笠原良策とその師である日野鼎哉が京都で、京都の噂を聞きつけた緒方洪庵が翌11月大坂で種痘所を開設し、5か月ほどの短い間に京都、大阪、江戸、福井へと伝播します。 10月に江戸藩邸に送られた痘苗で、関東以北の各地にも牛痘法が広がりました。これは我が国にとって非常に大きな功績です。

1861年(文久元年)直正は48歳で隠居、家督を長男直大に譲って閑叟(かんそう)と号します。

48歳で隠居し閑叟と号した直正 国立国会図書館臓

1862年(文久2年)12月25日上京した閑叟は関白近衛忠煕に面会、京都守護職への任命を要請しました。この時に閑叟は「長崎警備は他の大名でも担当できるが、大阪、京都の警備には実力が必要である。現状の京阪の警備では私であれば足軽30人と兵20人の兵力で打ち破れる」と発言しています。京都守護職要請は薩摩藩などからもあって、この件は立ち消えになりました。

直正の質素倹約と経営手腕は、商人たちから「そろばん大名」と呼ばれ、佐賀は「葉隠」の保守的な風土でありながら、直正は当時医者の学問と侮蔑されていた蘭学を熱心に学び「蘭癖大名」と呼ばれるまでになったのです。

他藩が近代化と財政難の板挟みで苦しむ中で、佐賀藩は財政再建と軍備の近代化に成功しましたが、老中阿部正弘が没した後の激動の中央政界では、佐幕、尊王、公武合体派のいずれとも均等に距離を置いたため「肥前の妖怪」として警戒され、参預会議や小御所会議では発言力を持てず、伏見警護のための京都守護職を求めるものの実らず、政治力、軍事力をともに発揮できなかったことが藩内から犠牲者を出さずに済む結果になりました。

「鳥羽・伏見の戦い」で薩長側が勝利した後に佐賀藩も新政府軍に参加し、戊辰戦争では上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、最新式の兵器を装備した佐賀藩兵の活躍が非常に大きいものとなります。明治政府が近代化を推し進める上でも、直正が育てた人材の活躍は目覚ましく、直正自身も議定に就き、薩長土肥の一角を担うこととなりました。

1868年(明治元年)成正は直正と改名します。

知藩事(大政奉還後の藩主)として廃藩置県に最初に賛同し、1869年(明治2年)6月6日蝦夷開拓総督を命ぜられ、旧藩士島義勇らを開拓御用掛に登用、諸藩に先んじて佐賀藩民を移住させ、7月13日初代開拓長官に就任しました。蝦夷地へ赴任することはなく、8月16日岩倉具視と同じ大納言になります。

1871年(明治4年)1月18日藩邸で死去、享年58。23日に正二位が贈られます。中央での肥前勢力が薩長閥に比べて相対的に小さかったのは、維新が始まって間もなく直正が世を去ったことが一因です。

直正の残した人材は「明治六年政変」(征韓論政変)による江藤新平、副島種臣の下野や、続いて発生した「佐賀の乱」により、直正の構想を明治政府で十分に実現するまでには至りませんでしたが、佐賀藩は日本の近代化に極めて大きな役割を果たしたのです。

岩倉具視は「松平春嶽、山内容堂と較べて意外にも傑物だった。大名としては珍しく寛容で、誰にも親しみを感じさせ、議論にも気力があった。惜しむらくは病身だった」と述べています。

佐賀出身の大隈重信は「閑叟は成すべからざるときは大いにその力を使い、成すべきときはその力を用いざるものなり」と批判しました。大隈は閑叟と対立して処罰されていた存在で、誇大の批判をしたように思われます。

確かに直正は親幕的な行動を取りつつも幕府と一定の距離を保ち、明治維新まで佐賀藩が主導権を握れなかった一因になりましたが、藩政改革における直正の人材育成と登用、西洋化軍隊の構築は極めて評価が高く、戊辰戦争では佐賀藩兵40名が他藩の1000名に匹敵するとまで評価され、佐賀藩の西洋化軍隊の強さを発揮しました。

明治末期に閑叟の功績を顕彰する動きがあり、大隈を委員長として銅像の建設委員会が設立され、誕生から100年を記念して1913年(大正2年)11月10日佐賀市松原の広場に建立されます。

銅像の周りの広場は公園が整備され、銅像周辺に博物館「徴古館」、「佐賀図書館」が建設されたほか、1933年(昭和8年)には閑叟を祭神とする「佐嘉神社」が建立されるなど、佐賀県の中心的な文教地区となりました。

銅像は第二次世界大戦中に政府に供出されてしまいましたが、初代銅像の供出から73年を経た2017年(平成29年)佐賀城鯱の門北側の広場に2代目の銅像が建立され、除幕式が行われました。

墓所は1999年(平成11年)に東京麻布の菩提寺の賢崇寺から、佐賀市の春日山御墓所に改葬されています。

 

 

 


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ニコライ堂

2024-04-11 06:23:41 | 日記

「ニコライ堂」は東京都千代田区神田駿河台にある正教会の大聖堂です。ニコライ堂は日本に正教会の教えをもたらしたロシア人聖ニコライに由来した通称で、正式名称は「東京復活大聖堂」です。

建築面積は800㎡、緑青を纏った高さ34.5mのドーム屋根が特徴で、鐘楼の高さは37.7m、建坪は1,050㎡あります。日本で初めての最大級の本格的なビザンチン様式の教会建築で、1891年(明治24年)に竣工し御茶ノ水界隈の景観の重要な位置を占めました。1962年(昭和37年)に国の重要文化財に指定されています。

ニコライ堂 現在

建築様式はビザンチン式が基本で、壁が厚く、窓が小さく、中央にドームがあり、外からみると壮大で堅牢です。細かい部分にイギリスのロマネスク風やルネッサンス式が巧みに取り入れられているのは、イギリス人のジョサイア・コンドルが工事監督にあたったからでしょうか。

この大聖堂が建てられた駿河台の場所は、江戸時代の定火消の屋敷跡で火の見櫓が高くそびえており、ニコライが1872年(明治5年)にはじめて東京に来たときに、この地に大聖堂をと心に決めた場所でした。
最初の大聖堂はロシア人シュチュールボフの基本設計、コンドルの実施設計、長野泰輔の工事責任で、1884年(明治17年)に工事が始まり、7年かかって1891年(明治24年)に完成しました。

ニコライ堂 1891年(明治24年)完成時

正教会は東方正教会とも呼ばれます。ローマ・カトリック教会やプロテスタント諸教会が西ヨーロッパを中心に広がったのに対し、キリスト教が生まれた中近東を中心に、ギリシャ、東欧からロシアへと広がりました。

20世紀になり共産主義革命による迫害を受けて、多くの信徒や聖職者が世界各地に散らばっていき、その結果世界各地に正教会が設立され、欧米主導の現代文明の行き詰まりとともに停滞する西方キリスト教に新鮮な刺激を与えています。

日本へは江戸時代末期に、函館のロシア領事館の司祭として来日したニコライによって伝えられました。ニコライは「亜使徒大主教聖ニコライ」として聖人の列に加えられています。

イイスス・ハリストス(イエス・キリストの日本正教会訳)の十字架刑による死と、三日目の復活という出来事を直接体験し、その証人として世界中に伝えたお弟子たちのことを「使徒」と呼びます。正教会はこの使徒たちの信仰と、彼らから始まった教会のありかたを、唯一、正しく受け継いできたと自負します。

キリスト教会は、現在、多くの教派に分裂していますが、中世のある時期までは「一つの聖なる公なる使徒の教会」として一致していました。正教会はこの東西教会が一つにまとまっていた時代に、5世紀にわたって合計7回開催された全教会の代表者たちによる会議(325年~787年)で確認された教義や、教会組織のあり方、教会規則、さらに使徒たちの時代にまで遡ることのできる様々な伝統を、切れ目なく忠実に守り続けています。正教会と他の諸教会が分裂したのではなく、正教会から他の諸教会が離れていったのが「教会分裂」の真相です。

人間の理解をこえた事柄については謙虚に沈黙する古代教会の指導者(聖師父)たちの姿勢を受け継ぎ、後にローマ・カトリック教会が付け加えた「煉獄」「マリヤの無原罪懐胎」「ローマ教皇の不可誤謬性」といった「新しい教え」は一切しりぞけます。またプロテスタントのルターやカルヴァンらのように「聖書のみが信仰の源泉」だとも云いません。かたくなと見えるほどに、古代教会で全教会が確認した教義を守っています。

教会組織もローマ・カトリック教会のようにローマ教皇をリーダーとして全世界の教会がきちんと一枚岩に組織されたものではなく、各地域の独立教会がゆるやかに手を結びあっているにすぎません。しかし強力なリーダーシップがないからと云って、聖書解釈の違いや教会のあり方への理解の違いから無数の教派に分裂してきたプロテスタント諸教会とは異なり、正教信仰と使徒からの教会の姿を各教会がすすんで分かち合うことによって「正教会」としての一致を保ち続けてきました。

ビザンチン時代に現在のかたちがほぼ確立した奉神礼(礼拝)には、初代教会の礼拝のかたちと霊性がしっかり保たれています。中心となるのは聖体礼儀です。これはカトリック教会でミサ、プロテスタント教会で聖餐式と云われるものにあてはまります。主イイスス・ハリストスの復活を「記憶」する毎日曜(主日)と諸祭日を中心に行われます。

ニコライ堂 入り口

ドーム内 正面

「主が来られる時(再臨)に至るまで私を記念(記憶)するためこのように行いなさい(ルカ伝22:19)」という教えを守り、主日ごとの聖体礼儀に集い「主ハリストスの体と血」へと成聖されたパンとぶどう酒(聖体・聖血)を分かちあうことが、教会の基本的なつとめであると理解されています。

聖体礼儀は立ってか、膝まづいて行なわれます

椅子は用いません

一つのパンから、また一つの爵(カップ)から聖体聖血を分かち合うことを通じて、信徒はハリストス・神と一つとなると同時に、互いが一つとなり、ハリストスが集められた「新たなる神の民の集い・教会」が確かめられます。

しかしどれほど言葉を重ねても正教を完全に説明し尽くすことはできません。正教は教会生活の中に生きて働くハリストスの復活のいのちそのものです。教義も確立せず、歴史の積み重ねもなく、まして文化としてはまったく未熟で、しっかりした教会組織もなかった時代、そして現代においても、信徒ひとりひとりを生かしているのはこのハリストスの復活のいのちそのものです。いのちは言葉では伝わりません。体験の中からしか掴めず、体験を通じてしか伝えられません。

日本にロシアから正教会が伝えられたのは1861年(文久元年)です。その国の文化を否定せずに受け入れてキリスト教の信仰を土着させる正教会の伝統にのっとり、ニコライは当初から日本人のための日本人による正教会を目指しました。

ニコライは日本の文化を学ぶために日本語を習得し「古事記」や「日本書紀」などを読み、仏教を学び、日本の風俗習慣を研究しました。そして日本語による奉神礼ができるように祈祷書を翻訳し始めました。明治15年頃から漢学者パウェル中井木菟麿(つぐまろ)がニコライの翻訳の補助に入り、次々と膨大な量の祈祷書と聖書が翻訳されていきました。

私たち日本の正教徒は、この神に祝福されたニコライの翻訳の恩恵に与っています。ニコライは奉神礼にふさわしい文体として漢語調の文語体を選びました。現代の日本人には難解ですが、聖神の恩賜を伝える媒介として最善の言葉が選択されています。

日本語の祈祷書を示す画像

正面入口上部

日本人として初めてニコライから洗礼を受けたのはパウェル沢辺琢磨、イオアン酒井篤礼、ヤコフ浦野大蔵の3人でした(1864年)。生粋の土佐藩士の沢辺琢磨はニコライを毒する輩と決めつけてニコライのもとへ乗り込んだのですが、ニコライの話を聞くうちにその教えに心を打たれ、やがて正教会の信仰を熱心に奉ずるようになり、後に司祭となりました。

ニコライは明治5年頃東京に伝道の本拠地を移し、正教会の伝道を熱心に行いました。教勢はめざましく発展して日本全国に正教会の種がまかれていき、明治18年に信徒数は1万2千人を越えます。

1891年(明治24年)神田駿河台にビザンチン様式の「復活大聖堂」が建立され、ニコライの名に因んで「ニコライ堂」と呼ばれるようになりました。当時としては驚くべき大きさで、荘厳なその姿は多くの人々の関心を引きました。

奉神礼に欠かせない聖歌は、ヤコフ・チハイやデミトリイ・リオフスキーといった人たちが来朝して熱心に音楽の基礎を教え、日本音楽史上初めてと言われる四部合唱の聖歌隊が編成されました。彼等が編曲・作曲した聖歌は今でも歌われています。明治時代に女性ながらロシアに留学して学んだ山下りんが描いたイコンは、各地の正教会に掲げられています。

正教会の神学校もニコライによって創立され、聖職者だけでなくさまざまな分野で活躍する人々を輩出し、正教会の信仰、教義、精神性などを伝えるために多くの正教会関係の文書が翻訳、出版されました。ニコライは他の諸教派が持つような病院や福祉施設や大学などは創りませんでしたが、正教会の信仰は彼の福音宣教と伝統的な正教の奉神礼の実践に徹した働きによって、しっかりと日本に根付きました。

日本正教会は明治の後半から大正、昭和にかけて苦難の時代を迎えます。 まず日露戦争(1904年~1905年)によって日本とロシアの関係が悪化し、正教会は白眼視されます。ロシア革命(1917年)による決定的打撃も被りました。日本正教会は物理的にも精神的にも孤立無援の状態となり、ロシア正教会に吹き荒れていた混乱が日本にも押しよせようとしましたが、セルギイ主教はしっかりと正教会の正しい聖伝を死守しました。

ところが引き続いて起こったのが、関東大震災(1923年)によるニコライ堂の崩壊です。鐘楼が倒れ、ドーム屋根が崩落し、聖堂内部をすべて焼き尽くして、貴重な文献や多くの書籍も焼失しました。

1929年(昭和4年)に東京復活大聖堂は復興しましたが、日本ではすべての宗教にとって、政治的な統制を受ける困難な時代を迎えます。第二次世界大戦の混乱と悲劇の中、終戦直前にセルギイ府主教が永眠しました(1945年)。司祭や伝教師などが激減し、信徒の多くも離散してしまいます。

戦後、ロシア革命以来の共産主義政権下で閉じこめられていたモスクワ総主教庁との関係断絶の中で、日本正教会は姉妹関係にある在アメリカのロシア正教会から主教を迎えました。そして1970年(昭和45年)米ソの冷戦の緩和に伴い対話がよみがえり、日本正教会はモスクワ総主教の祝福を受け「自治教会」となります。
自治教会とは完全な独立とは云えないものの経済的には独立し、日々の教会運営を独自に行う形です。自治教会となった後フェオドシイ永島主教が最初の邦人府主教となり、日本正教会は低迷していた教勢や財政の立て直しに励みました。各地で聖堂が再建され、信徒の啓蒙教育や宣教活動が活性化されます。

1999年のフェオドシイ府主教の永眠後、東京の大主教ダニイル主代座下が日本教会を代表する府主教に着座し、東日本主教教区の仙台の主教セラフィム辻永座下とともに、日本正教会の伝道と牧会を大きな希望をもって進めています。

先ずは御祈りに来てください

現在の東京は高層建築が立ち並び、10階建ての高さに相当するニコライ堂もその姿を遠くからは望めませんが、近くに寄ってみると時代を超越したピザンチン様式の壮大な大聖堂の姿に圧倒され、我が国の重要文化財に指定された意義がよく理解出来ます。

          このブログは日本正教会の公式文書を参照したことを申し添えます。

 

 


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2023年カナダとマウイの森林火災

2024-03-28 08:40:43 | 日記

2023年の世界の自然災害としては、2月にトルコで起きた大地震が今世紀に入って6番目に死者の多い自然災害となり5万人以上の人びとが亡くなった報道に驚かされましたが、これまでは無人の地域に留まっていた森林火災が、市街地に直接大きな被害を及ぼす大規模な火災になったのが2023年の特徴です。

8月に森林火災が広がったカナダ西部のブリティッシュコロンビア州では、18日の避難命令は1万5000世帯対象でしたが、19日夜までに計3万世帯が追加対象となり、これとは別の3万6000世帯にも避難勧告が出されました。

ボウイン・マー危機管理担当相は「避難命令にぜひとも従ってもらいたい。しばしば現場に戻って、頑なに残っている人たちに避難するよう、必死に説得することになる消防隊員にも生死にかかわる問題だ」と述べています。

シュスワップ地域では2件の大規模な火災が融合して市街地を壊滅し、州南部のケロウナ地域への移動が制限され、オカナガン湖にも周辺の火災の煙が立ち込めて、湖の近くの人口3万6000人のウェスト・ケロウナで住宅に被害が出ています。

ウェスト・ケロウナの山火事を、マクドゥーガル・クリークから眺める住民

北西部ノースウエスト準州の州都イエローナイフ近郊でも大規模な火災が続き、市民に18日中に立ち退くよう避難命令が出されました。人口約2万人のうち1万9000人が自動車か飛行機で避難したといいます。

カナダ森林火災センター(CIFFC)によると、2023年の史上最悪の山火事シーズンでは、少なくとも1000件の山火事が発生しています。専門家らは気候変動による暑くて乾燥した天候によって、山火事が拡大した可能性を指摘しました。酷暑が極端に長く続くと地面からは水分が奪われ、特に風が強ければ火災は驚くほどの速さで延焼していく可能性があります。

2023年夏のカナダの大規模森林火災では、7月上旬時点で900万ヘクタールの森林が焼け(北海道の面積は834万ヘクタール)、15万5000人以上の人々が避難しました。この森林火災の煙はカナダだけではなくアメリカにも広がり、シカゴは6月に世界最悪レベルの大気汚染に見舞われました。

米国立気象局はカナダの山火事の煙で、ニューヨーク州全域とイリノイ、インディアナ、ミシガン、ノースカロライナ、オハイオ、ペンシルベニア、バーモント、ワイオミングの各州の一部に大気汚染警報を発令、7000万人が警報の対象となりました。

カナダの森林火災の煙でスカイラインが霞むニューヨーク

(2023年6月撮影)

インディアナ、アイオワ、モンタナ、ニューヨーク、オハイオ、ペンシルベニアの各州の都市では、大気汚染度を示す大気質指数(AQI)が165を超え、市民にとって不健康と云われるレベルに達しました。
米国立気象局はノースカロライナ州ウィンストンセーラムやペンシルベニア州フィラデルフィアなどの都市に「コード・オレンジ」警報を発しましたが、これはAQIが101~150の不健康な汚染度を意味し、カナダの火災は米国の各州に酷い大気汚染をもたらしたのです。

カナダの一方、2023年8月8日ハワイのマウイ島の西部で起きた山火事は、ハリケーンに伴う強い風にあおられて急速に燃え広がり、かつてハワイ王国の首都であったラハイナの中心市街地が壊滅的被害を受けました。

全焼したラハイナでは少なくとも97名の命が失われて行方不明者の捜索が続けられ、火事で焼けた一帯は立ち入りが厳しく制限されて、住民のほとんどが自宅の状況を見に行くこともできていません。

ラハイナ付近で発生した森林火災による惨状

ハワイ王国時代の歴史を誇る古都のラハイナは2,200の建物を全焼し、9月20日現在で近代のアメリカで最も死者を多く出した森林火災になりました。火災の原因は調査中ですが、専門家は強風により垂れ下がった電線が発火の原因となった可能性を指摘しています。

ハワイ州ではここ数十年で森林火災による年間の焼失面積が4倍になっていて、気候変動による乾燥と高い気温、そして燃え広がりやすい外来種の雑草の拡散によって、火災の被害が大きくなっていると指摘されていました。火災発生時マウイ島の南西部は中程度から重度の干ばつです。

アメリカで起きた山火事としては過去100年で最悪の被害で、バイデン大統領はハワイ州の大規模災害を宣言しました。事前に強風が見込まれていたのですが、ハワイアン・エレクトリック・インダストリーズ(HEI)は、強風による送電線切断に備えた計画停電には踏み切りませんでした。ビデオ、目撃者の証言、火災の進行状況、焼け残った電気機器のすべてが、HEIの機器がラハイナの町を破壊した炎の根源となった火花を発生させたことを示しています。

マウイ郡当局は「HEIが強風警報下で送電を続けたために火災が起きた」として8月24日電力会社を訴えましたが、会社側は火災が発生する数時間前の時点で送電を停止していたと反論しています。

2023年8月上旬は高気圧がハワイ諸島の北に停滞していました。この高気圧はハワイ諸島全域で安定した気圧配置を維持し、暖かい晴天をもたらしていました。ハリケーン・ドーラがカテゴリー4まで勢力を増し、高気圧と低気圧の間に大きな気圧差を生じる一因となった可能性があり、この気圧差は大きな貿易風が南西に移動するのを助け、島の上空に強い勾配風を形成したと思われます。

山火事自体にハリケーン・ドーラがどのような影響を与えたかは不明ですが、気象学者は暴風雨の中心が島々から1,100km以上離れたままであったこと、火災の発生時刻にマウイ島上空の低層の流れがわずかに増強しても比較的小さなサイズのままであったことから、8月7日から9日にかけての火災の発火にハリケーン・ドーラが大きく影響した説には反論しています。

国立気象局は8月6日までに東太平洋からやってくる非常に乾燥した空気を承知していました。8月7日から8日にかけては突風が強まり、非常に乾燥した状態になったと思われ、気圧の尾根は既存の気圧勾配と組み合わさって、日が進むにつれて非常に強い突風を発生させ、湿度は平年を大きく下回り、島々の地形の特徴が風の加速を強める効果があったと想定されます。

8月8日午前0時を過ぎたころ内陸部のマカワオ付近で最初の火災が発生しました。午前11時前に40km離れた西岸の町ラハイナで火災が発生、市街地だったため多くの犠牲者が出ました。正午には再び内陸部のクラで火災が発生、さらに午後6時になって別の場所でも火災が起きています。

マウイ島地図

ハワイ諸島では8月の最初の数日間に多数の小規模な山火事が発生していて、ホノルルの国立気象局はハワイ全島の風下地区に対し、8月7日午前0時に9日朝までの警報を発し「非常に乾燥した燃料と強い突風のような東風と低湿度が組み合わさると、火曜日の夜までは重大な火災気象状況が発生することになる」と強調していました。事実、マウイ島アップカントリー地区では、最高時速130kmの突風が吹いています。

8月4日6時1分マウイ島で最初の小規模火災が発生し、カフルイ空港に隣接する畑の30エーカーの山火事は、午後4時までに90%鎮圧されたと報告されましたが、フライトは8月11日まで延期されています。

8月8日マウイ島では強烈な風で、午後11時55分までに約30本の電柱が倒れたと報告され、少なくとも15の個別の停電が12,400人以上の人々に影響を与えました。マウイ西部のいくつかの地域で午後11時50分以後は電力が供給されておらず、切れた電線がビデオに撮影されていて、火災の発生要因とされています。

最初の大きな火災となった火事は8月8日午後7時22分にマウイ島北部クラのオリンダ・ロード近辺で報告され、近辺の住民への避難指示は午後10時43分に出されました。8月9日の時点で約544ヘクタールを焼き、544棟の建造物が被害を受け、その96%が住宅でした。

最も重大な火災は8日朝マウイ島西部のラハイナ付近で発火した山火事で始まりました。8月8日ラハイナの町に大きな直進風が来たことが影響を及ぼし始め、最速で時速130kmになった突風がラハイナの住宅や建物に被害をもたらし始め、その後町の北東側に近いラハイナルナ・ロード沿いで、電柱が折れるなどの被害が出ました。

午前1時37分1.2ヘクタール規模の山火事が発生し、数分後ラハイナ中級学校周辺を対象に避難指示が出されました。マウイ郡消防局の対応で火災は完全に鎮火したと発表されましたが、突風は町を襲い続けていて、午前10時30分に火は再び燃え上がってラハイナ・バイパスの閉鎖を余儀なくされ、ラハイナ西部の住民は避難指示を受けました。

ラハイナでは55億2千万ドル以上の損害が起きたとみられ、ムーディーズ・アナリティクスは全体で70億ドル(1兆190億円)の損失額を見積もっています。

火災が発生した後ハワイ州は、観光客に対してマウイ島西部への訪問自粛を要請しましたが、この呼びかけにも拘らず同島を訪問する人は絶えず、災害にはまったく無関心に泳ぐなど娯楽を楽しんでいる観光客に対し、地元住民の不満が高まりました。

ラハイナでは焼けた土地の所有者に不動産業者が購入を持ちかけているとのうわさが広まり、現地住民の中にはラハイナが、高層建物と高級ブランド店が海沿いに並ぶホノルルのワイキキになってしまうのを心配する人もいます。

2023年の世界の森林火災は、従来の人里離れた山林の火災では収まらず、近隣の都市を巻き込んだ大火災になったのが特徴です。この事実が世界的な気温の上昇と強い関係のあることは間違いなさそうですが、地球全体の気温の上昇は人類の生存を危うくするところまで進行するのでしょうか。

 

 


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杉原千畝

2024-03-14 06:38:07 | 日記

杉原千畝(すぎはら ちうね)1900年(明治33年)1月1日 生は、1939年リトアニアのカウナス領事館に赴任し、1940年7月から8月にかけてナチス・ドイツの迫害で欧州各地から逃れてきたユダヤ人たちに、日本経由の大量のビザ(通過査証)を発給し、多くの避難民の命を救ったことで知られています。

ルーマニア・ブカレストの杉原千畝

千畝は早稲田大学高等師範部英語科在学中に官報で外務省留学生試験の存在を知り、米国の雑誌を片端から閲覧する猛勉強の末合格しました。1919年(大正8年)11月外務省の官費留学生になり、ロシア語の重要性を説かれてロシア語講習生として満州のハルピン学院でロシア語を学びます。

1920年12月から1922年(大正11年)3月まで、一年志願兵として朝鮮駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営して陸軍少尉、1923年(大正12年)3月満洲里領事館へ移動命令を受け、1924年に外務省書記生に採用されてハルピン学院でロシア語、ソ連の政治・経済および時事などの講義を担当しました。

1924年に白系ロシア人クラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚、1926年(大正15年)600頁の報告書「ソヴィエト聯邦國民經濟大觀」を書き上げ、外務省から高い評価を受けます。

1932年(昭和7年)3月建国直後の満洲国外交部へ出向、1933年ソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉に携わりました。当初ソ連側は当時の日本の国家予算の一割強の6億2,500万円の巨額の要求をしてきましたが、譲渡代償金1億4,000万円とソ連側従業員の退職金3,000万円での買収に成功し、杉原らによる譲渡協定締結は外交的大勝利でした。

1935年(昭和10年)に満洲国外交部を退官、千畝は正教会の洗礼を受けます。聖名は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」です。

ハルピン在職中にユダヤ人や中国人の富豪の誘拐殺害事件を身近で体験、これらの事件の背後には関東軍が後援した白系ロシア人組織がありました。千畝は関東軍から破格の金銭的条件でスパイになるよう強要されましたが拒否、大日本帝国の軍国主義を冷ややかに見るようになります。

関東軍は妻クラウディアがソ連のスパイであるとの風説を流し、1935年(昭和10年)離婚の決定的理由になりました。満洲時代の蓄えはクラウディアに渡し、千畝は無一文になります。帰国後知人の妹の幸子と結婚し外務省に復帰します。

1937年(昭和12年)待望のモスクワ日本大使館への赴任が決まりましたが、反革命的白系ロシア人との親交を理由にソ連が千畝を拒否し、ヘルシンキのフィンランド日本公使館に赴任しました。

1938年3月杉村陽太郎駐仏日本大使が「杉原通譯官ヲ至急當館ニ轉任セシメラレ」たしと広田弘毅外務大臣に直訴しましたが拒否されます。1939年(昭和14年)リトアニア共和国のカウナス日本領事館領事代理として8月28日に着任しますが、千畝には日本の国家存亡に係わる独ソ間での重大任務が待ち受けていました。

カウナスに残る旧日本領事館 1940年

9月1日ドイツがポーランド西部に侵攻し、第二次世界大戦が始まります。9月17日「独ソ不可侵条約付属秘密議定書」に基づいてソ連がポーランド東部へ侵攻を開始、10月10日軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求したソ連の最後通牒をリトアニア政府が受諾し、1940年6月15日ソ連軍がリトアニアに進駐しました。

カウナスにおける任務について千畝は、1967年(昭和42年)に以下のように述べています。

「カウナスはソ連邦に併合される以前のリトアニア共和国における臨時の首都で、1939年の秋外務省の命令で私は日本領事館を開設しました。

第二次世界大戦の数年前、参謀本部の若手将校がファシストドイツと親密な関係を結ぼうとしていて、この運動の指導者の一人が陸軍中将大島浩駐独大使で、ドイツが本当にソ連を攻撃するかどうかの確証を掴みたがっていました。

参謀本部がドイツ軍のソ連攻撃に重大な関心を持っていたのは、満洲にいる関東軍をソ満国境から可及的速やかに、南太平洋諸島に転進させたかったからです。

ドイツ軍による攻撃の日時を迅速かつ正確に特定することが公使たる小官の主要な任務で、私は何故参謀本部が外務省に対してカウナス公使館の開設を執拗に要請したのか合点がいったわけです。」

千畝が欧州に派遣された1938年当時、ドイツのユダヤ人迫害政策によって極東に向かう避難民が増えていることに懸念を示す山路章ウィーン総領事は、ユダヤ難民が日本に向かう場合の方針を照会する請訓電報を送り、10月7日近衛文麿外務大臣から在外公館へ極秘の訓令が回電されました。

「貴殿第三九號ニ關シ、陸海軍及内務各省ト協議ノ結果、獨逸及伊太利ニ於テ排斥ヲ受ケ外國ニ避難スル者ヲ我國ニ許容スルコトハ、大局上面白カラサルノミナラス現在事變下ノ我國ニ於テハ是等避難民ヲ收容スルノ餘地ナキ實情ナルニ付、今後ハ此ノ種避難民(外部ニ對シテハ單ニ「避難民」ノ名義トスルコト、實際ハ猶太人避難民ヲ意味ス)ノ本邦内地竝ニ各殖民地ヘノ入國ハ好マシカラス(但シ、通過ハ此ノ限ニ在ラス)トノコトニ意見ノ一致ヲ見タ」

リトアニアにはユダヤ教の神学校があり、ドイツに降伏したオランダの出身のナタン・グットヴィルトとレオ・ステルンハイムがいました。6月末グットヴィルトは弁護士でユダヤ難民たちのリーダーだったゾラフ・バルハフティクに相談し、オランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクに出国の協力を求めました。

ズヴァルテンディク領事は「在カウナス・オランダ領事は、本状によって、南米スリナム、キュラソーを初めとするオランダ領への入国はビザを必要とせずと認む」とした文書をフランス語で書いてくれました。

ズヴァルテンディクの手書きのビザは途中でタイプに替わりましたが、難民全員の数を調達できないと考えたバルハフティクは、オランダ領事印と領事のサインのついたタイプ文書のスタンプによって偽「キュラソー・ビザ」を作成し、日本公使館に持ち込んだのです。難民たちの逃げ道はシベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか残されてなく、日本に向かうビザ取得のためにカウナスの日本領事館に殺到したのでした。

「忘れもしない1940年7月18日の早朝のことであった」と回想する千畝は「6時少し前、表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然喧しい話し声で騒がしくなり、ヨレヨレの服装をした老若男女ザッと100人が何かを訴えている光景が眼に映った」と述べています。

千畝は亡命ポーランド政府の諜報機関を情報収集に活用しており、地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名や、海外の親類の援助を得て来た数家族へのビザ発給を予定していましたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていません。

千畝は本省に「発給対象はパスポート以外での領事が最適当と認めたもの」とする情状酌量を求める請訓電報を打ちますが、本省からは行先国の入国許可手続を完了し、旅費および本邦滞在費などの携帯金を有する者にのみに査証を発給せよと、条件厳守の指示が繰り返されました。

難民の憔悴する子供の姿に「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という旧約聖書の預言者エレミアの「哀歌」が、突然、幸子夫人の心に浮かんだと云います。「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう。」という千畝の問いかけに夫人も同意。千畝は「人道上拒否できない」として、本省の訓命に反し受給要件を満たしていない者にも、独断で、通過査証を発給しました。

東京の本省は条件不備の難民などは眼中になく、千畝は厳しく叱責されます。千畝は自分の罷免は避けられないが、自分の人道的感情と人間への愛から1940年8月31日にカウナスを出発するまで書き続けたと、ビザ発給の理由を説明しています。

本省の譴責に真っ向から反論すれば、本省の指示の無視で通行査証が無効になるおそれがあり、千畝は本省との論争を避けて、米国への入国許可が確実で十分な携帯金も所持しているポーランド出身猶太系工業家レオン・ポラクへのビザ発給の可否を本省に問い合わせたりして、ビザ発給条件に関する返信を遅らせました。

カウナス公使館を閉鎖した後に、行先国の許可や必要な携帯金のない多くの避難民にもビザを発給したことを述べ、「外國人入國令」(昭和14年内務省令第6号)の拡大解釈を既成事実化しました。

杉原千畝が作成した通過ビザ

多量のビザを手書きして万年筆が折れ手を痛めた千畝を気遣い、亡命ポーランド政府の情報将校ダシュキェヴィチ大尉は、ゴム印を作って一部だけ手で書くよう提案、簡略化された形のゴム印が作られます。

ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら1か月あまりビザを書き続けた千畝も、ベルリンへの異動命令を無視することができなくなり、9月5日ベルリンへ旅立つ車窓からもビザを手渡し、発行されたビザの枚数は2,139枚にのぼりました。

汽車が走り出し「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。」と列車と並んで泣きながら走っている人達は、千畝たちの姿が見えなくなるまで叫び続けていました。記録に残っていないビザや渡航証明書の実数は把握できませんが、一枚のビザが一家に有効でしたから、少なくとも数千名の難民の国外脱出を助けたと考えられます。

1940年9月5日以降チェコのプラハの領事館勤務、1941年2月にドイツ勤務となりました。

逃げ遅れたユダヤ人たちの多くは「移動殺戮部隊」の手にかかったり、ドイツやソ連の強制収容所に送られ、カウナスでは1941年(昭和16年)8月末までに保護を口実に設置されたゲットーへのユダヤ人移送が完了し、開戦後わずか2か月で1万人ものユダヤ人が殺害されました。幸子夫人は「カウナスでのあの1か月は、私たちがこういうことをするために、神に遣わされたのではないかと思った」と述べています。

千畝の本省への回電に「スモレンスク」「ミンスク」に関する情報が含まれていたのは、ポーランド諜報網との協力の成果でした。千畝は1941年(昭和16年)5月9日の電信で「獨蘇關係ハ六月ニ何等決定スヘシトナス」と6月22日に勃発した独ソ戦の時期を正確に予測し、ソ連側が穀物の大量備蓄を始めて長期戦に備えていると報告しています。

1941年(昭和16年)8月7日ドイツ国家保安本部のラインハルト・ハイドリヒは、外相リッベントロップに「ドイツ帝国における日本人スパイについて」の報告書を提出し、日本領事杉原の名前を筆頭に挙げています。北満州鉄道買収交渉の時代からソ連にマークされていた千畝は、ドイツ諜報機関の最大の標的にもなったのです。

千畝は同盟国のドイツを出し抜き、名目上は敵国である亡命ポーランド政府の情報将校とさえ協力する、非情な情報戦の世界に生きていました。杉原ビザ発給の最初の契機は、千畝が活用していたポーランドの情報将校を、家族を含めて安全地域に逃すための通過ビザでした。

ここまでは日本の外務省も参謀本部も周知でしたが、ナチスに追われたポーランドからの大量の難民がリトアニアへ流入し、カウナスの日本領事館へ殺到する想定外の出来事が発生したのです。

ドイツはカウナス領事館の向かい側に監視用の部屋を整え、ソ連の秘密警察もカウナス領事館を監視し、暗号電報の一部の解読にも成功しています。

ポーランド参謀本部との協力関係は「シベリア出兵」中に日本が入手したソ連の暗号表をポーランドに提供し、この見返りにポーランドの暗号専門家ワレフスキ大尉が、1919年(大正8年)日本の暗号システムを全面的に改定したのが始まりです。赤軍の配置と移動を次々と見破る、当時のポーランド参謀本部の諜報能力は驚異的でした。

1940年リトアニア退去後の千畝は、ドイツの保護領になっていたチェコのプラハの日本総領事館に勤務、1941年には東プロイセンのケーニヒスベルク総領事館に赴任し、ポーランド諜報機関の協力を得て独ソ開戦の情報を掴み、5月9日発の電報で詳細に報告したのです。

ドイツ軍兵士たちと写真に収まるケーニヒスベルク在勤時の杉原一家

6月22日千畝の報告の通り独ソ戦が勃発しました。第二次世界大戦の終結後杉原一家はブカレストの日本公使館でソ連軍に身柄を拘束され、1946年(昭和21年)11月16日直ちに帰国するよう求められて、オデッサ、モスクワ、ナホトカ、ウラジオストックと厳寒の旅を続け、翌1947年(昭和22年)4月5日博多港に帰りました。

1968年(昭和43年)「杉原ビザ」受給者の一人で、新生イスラエルの参事官になっていたニシュリが、在日イスラエル大使館で千畝に再会します。ニシュリがSugiharaという名前で外務省に照会しても「該当者なし」でしたが、千畝が職探しで以前イスラエル大使館に自分の住所、電話番号を教えていたため探し出すことができたのです。

リトアニアの人々には千畝(ちうね)という発音がしにくく、千畝は名を音読にして「せんぽ」と名乗っていたので、戦後リトアニアの人々が「センポ スギハラ」で日本の外務省に問い合わせても、外務省は「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は存在しない」と回答していました。

1969年(昭和44年)12月千畝は、イスラエルの宗教大臣となっていたバルハフティクとエルサレムで29年ぶりに再会します。このとき初めて本省との電信のやりとりが明かされ、失職を覚悟した千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクは驚愕します。

「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という悪意に満ちた中傷や、ニシュリによる千畝の名前の照会時の杓子定規の対応など、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは一貫していました。

こうした外務省の姿勢に最初に抗議したのは、東京に在住していたドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンです。ダンプマンは西ドイツのテレビ協会の東アジア支局長を務めていて、1981年に出版した「孤立する大国ニッポン」のなかで、「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい」と記しています。 

1983年(昭和58年)9月29日フジテレビが「運命をわけた1枚のビザ 4,500のユダヤ人を救った日本人」を放映、千畝もレポーターの木元教子のインタビューに答えました。

1985年(昭和60年)1月18日ユダヤ人の命を救った功績で、日本人では初めてで唯一の「諸国民の中の正義の人」として、イスラエル政府より「ヤド・バシェム賞」を受賞し千畝の名前が世に知られると、賞賛とともに「政府の訓命に反した国賊」などの中傷の手紙も送られるようになりました。

日本政府による公式の名誉回復が行われたのは2000年10月10日の河野洋平外務大臣の演説です。

「これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。

故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。」

河野外相の演説があったのは救いですが、ダンプマンの指摘の通りの我が国の外務省の硬直した姿勢がなくなったとは思えないのが現実のようです。2019年10月21日「杉原千畝記念財団」は、杉原が参議院に提出した履歴書と人事記録を見付け、外務省の退職は依願退職であったと判明しました。

杉原千畝は1944年(昭和19年)に勲五等瑞宝章を受章、退職金や年金も支給されていて、千畝にとって不名誉な記録は存在しないというのが、現日本政府の公式見解です。

 

 

 


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