生駒のアラ還の独り言

医療業界のあることないことを独断と偏見で綴る

医療連携のお粗末な実態

2010-05-26 17:51:10 | 日記

 「医療連携」の重要性が様々な場で強調されています。「餅屋は餅屋」ということで,診診、病診、病病 等の連携が進んでいます。これからの地域医療再生の鍵を握る極めて重要なポイントです。

 生駒市立病院開設計画においても、医師会の発言や市議会議員の発言の中で、この医療連携の話がよく出てきます。”生駒市立病院も医療連携が不可欠。しかし医師会の意向を無視した地域医療連携は不可能。市立病院も医療連携を重視する以上は、医師会の意向を十二分に汲み取ることが大切”といった主張です。とどの詰まりは、”指定管理者候補を徳洲会とする市立病院とは医師会は連携しない。地域連携できないような市民病院はおかしいではないか”という脅迫まがいの主張です。

 脅迫じみてはいますが、医療連携の重要性の観点からすれば結構納得のゆく医師会や議員の主張ではあります。が、その医療連携の実態はどんなものなのでしょうか。

 結論から言わせてもらえば、「実態は余りにもお粗末」ということです。
生駒市医師会のデータによれば、2005年の連携数は年間ベースで、172医療機関で、957件にすぎません。1日当り2.6件、1医療機関当り5.6件です。これを多いか少ないかは議論のあるところでしょうが、少なくとも私にはとんでもなく少ないと感じられます。正直、5分の1程度の感覚です。
 さらに驚くことは、2005年以降は医師会としてのデータを取っていないということです。データを取っていないということは、医師会としては医療連携の意味が無いという考えなのでしょうか。

 こんなお粗末な医療連携の実態であるにもかかわらず、市立病院開設の前提条件を医療連携に置き、さらにはその為に医師会の賛同なければ医療連携はできないぞ、徳洲会なら医師会は医療連携を拒否する…と脅迫まがいに主張する医師会と議員。
 でもその主張する根拠たるや、要はこの程度なのです。本来は「伝家の宝刀」なのですが、実態は「錆びた鈍らの刀」を振り回しているだけということがお解かりのことでしょう。別の言い方をすれば「空疎な言葉の空回り」であり、きつい言い方をすれば、実態を隠した「虚言」です。

 医師会がもし賢明であれば、誰が見ても判る錆びた鈍ら刀は抜かないはずなのですが、他に頼るものが無いのか切羽詰まったうえでの抜刀なのか。どうなんでしょう。

 新生駒市立病院は、低迷している生駒市の地域医療連携の再生と活性化に大いに貢献してくれると期待していますし、その中心的役割を果たしてくれると思います。


医療業界の歪な構造

2010-05-21 17:27:29 | 日記

 昨日に続き歪な医療業界についてです。

 どんな歪さなのかを医師の供給面に絞って思いつくままに列挙してみます。
1.医科系大学の定員が一校当り1学年100名前後に縛られており、医師供給数が最初から抑えられていること
2.全国ベースでは8,000名程度の医学部定員になるが、その数が妥当なのかといった検証が未だになされていないこと
3.また、勤務医数と開業医数それぞれが妥当なのかの検証もされていないこと
4.政府を中心に、医学部定員増といった医師不足への対策や医師の地域偏在是正の対策を進めているようであるが、効果が現れるのは相当先の話になること
5.数自体は増えても、早急に増員が必要な勤務医(特に救急、小児、産)が増える保障のないこと
6.開業の自由は保障されたままであること
7.誰でもが受験できる司法試験とは異なり、医師国家試験の受験資格は医学部卒業が必須となっていること
 等々です。
 一つの業界としては、全くのクローズで極めて歪な異例な業界です。

 その結果として今日本で起こっている地域医療崩壊は、国民・患者としては到底納得の行かない状況です。少なくとも国民・患者の責任ではありません。

 根本的な問題は、やはり「医師の供給システム」にあると考えます。
医科系大学の定員を絞るとともに、医学部卒業生しか医師国家試験が受けられないシステムが存在する以上、医師の供給不足は解消しません。なお、人口が激減する30年後には解消していると思われますが、そこまで待てません。

 このシステムは、問題を孕みながらも長い年月をかけて確固たるものになっており、一朝一夕に変更できるような生易しいものではありません。が、供給サイドの問題のツケを需要サイドの国民・患者に回してもらっては困ります。

 ここまで医療崩壊が進んでいます。変な意味ではなく、むしろこれを最後のチャンスと認識したうえで、供給サイドのシステムを作ってきた責任者(政府、医師会、大学等)が性根を入れて再構築を果たして欲しいものです。
 勿論、それを許してきた国民・患者にも一端の責任があることも否定しません。

 


経営ノウハウ無くても開業医は安泰

2010-05-20 19:08:50 | 日記

 私が常日頃疑問に感じていることです。
開業医の倒産が何故こんなに少ないのか ということです。私の推定では、開業医の倒産比率は10,000分の1程度す。しかも本業以外の理由で倒産したのが大半だと思います。例えば、株式投資の失敗とかです。医療という本業での倒産は殆どゼロと考えてよいと思います。

 医科系大学で6年間勉強し勤務医を経た後にかなりの比率で開業します。親の跡継ぎなら楽でしょうが、新規開業となると結構大変なはずです。なぜなら、新規の参入であるからです。他業種の場合、新規に参入するのは並大抵のことではありません。いまや弁護士業界でも大変なようです。
 でも、医療業界は違います。何故なのでしょうか。
私の独断ですが、要は①医師の不足と②格付の無いこと なのです。
①は医科系大学の定員の縛りがあること、②はミシュランガイドのようなガイドブックがないこと です。 *②についてはある識者のご意見です。
 よって、開業医の経営が極めて安定するわけです。新規参入は制限され、医療の腕を見定めるミシュランガイドも無いのですから、医師会入会が認められ開業してしまえば先ず先行き安泰ということです。見方を変えれば、こんな楽勝な業界はありません。タイトルにも書いたように、「経営(=ビジネス アドミニストレーション)」という概念がそもそも必要ないのです。医科系大学で、開業の経営ノウハウの講座は存在しませんし、卒業後に経営の勉強をしているとも思えません。
 要は、需要と供給のバランスが極端に崩れた歪なマーケットが医療業界であり、その供給サイドの開業医は、経営のノウハウが無くても経営は安泰 という 「??」の業界に君臨しているということです。
 本来それぞれの業界の発展には、自由参入と自由競争が不可欠のはずです。これなくして、国民の納得は得られないはずです。しかし、医療業界だけはその例外になっています。

 これで本当に良いのでしょうか。こうした歪な業界を作ってきたのは誰なのか、その責任は誰が負うのか、被害者はいないのか。又の話にします。

 


「奈良県救急医療フォーラム」=失望・失望・失望

2010-05-15 19:38:03 | 日記

 今日開催された掲題フォーラムに出席しました。奈良県医師会の主催ということですので、余り期待せずに行ったのですが結局はその通りでした。毎度のことですが、独断と偏見で感想と今回は特別に私なりの採点を記しておきます。
 
1.特別講演者は、独断と偏見で名を馳せた「勝谷誠彦氏」でした。こんな場所に何故こんな人物を医師会が呼んだのか?と疑問を感じましたが、講演内容もまさに ???の連続でした。
 普天間基地問題を例にとりながら、大淀事件や妊婦たらい回し事件等の医療事故問題を報じるマスコミの見識の無さとそれに踊らされる市民の民度の低さを「馬鹿のデフレスパイラル」という表現を使って糾弾していました。
 彼の発言には、現下の医療崩壊への理解が浅く低い(もしくは皆無のように感じました。むしろマスコミ批判を主眼にしたのでしょう。医療問題はマスコミ批判のための手段として利用したにすぎない と感じました。こんなやり方は、今後は避けていただきたいものです。
                               (独断と偏見による採点:30点

2.奈良県医療政策部長 武末氏のプレゼン
 言い訳めいた発言の連続で、地域医療再生は”これでは無理やな”と痛感しました。切迫感や切実感が全く感じられませんでした。まるで他人事の発言でした。せっかく出来た新医療計画も疑問符だらけになりました。”絵に描いた餅”、”魂の入らない仏”なのでしょうか。失望のみ。           (独断と偏見による採点:40点

3.奈良県医師会長 塩見氏のプレゼン
 一次救急は、先ず地元の「かかりつけ医」に任せてくれ。夜間・休日も対応できる。責任を持って対応する。必要なら二次・三次救急病院を紹介する。Dr=Drの繋がりが大切で、救急車を呼ぶよりベターなケースも多い。妥当な「たらい回し」はむしろ健全。24時間365日受け入れるという全国展開の病院(=徳洲会のこと)は実態を無視した無責任体制。
 ということで、たらい回しや徳洲会の箇所は別にして結構前向きな一次救急対応の発言でした。ここだけに限れば及第点でした。 
                   (独断と偏見による採点:70点→しかし結局0点) 

4.奈良県医師会救急医学会 会長 奥地氏のプレゼン
 ドクターヘリとか救急専門医とか具体論での話は評価できましたが、その結果として医療崩壊がどれだけ食い止められるのか の展望が見えませんでした。でも、救急医療に向き合っている立場での発言だけに同感できるものも多いにありました。
                              (独断と偏見による採点:70点) 

5.2,3,4の3者でのパネルディスカッション
 一般参加者(医師会員の開業医さんと思われます)から塩見会長に興味ある真摯な質問がありましたので紹介しておきます。
(質問) 
  開業医も患者の緊急連絡に対応できるように24時間オンコール体制を敷くように 医師会から指示があった。私は当然の義務と考えて実行する気だが、塩見会長の考えはどうか
(塩見会長の回答)
 義務ではない。標榜科目や体制の未整備とかあるので、やれる診療所からやってゆけばよい。決して義務というものではない。
 
 この会長の回答に私は唖然としましたし、一方では変に納得したものです。
 そして、この心ある質問者の開業医さんは憤然と席を立って会場を後にしました。
私はこの開業医さんに100点満点を捧げたいと思います。
                             (独断も偏見も無しに:100点満点)
 先日記事にもしましたが、三角形の土台である一次救急を医師会や開業医の皆さんで支えて頂きたいとの思いは、この塩見会長の一言で一瞬のうちに脆くも崩れ去りました。

 決して作り話でも笑い話ではありません。一部 ブラックユーモア はありました。
 
 
 


公益的、公的、公共的 という言葉の恣意的な使い分け

2010-05-14 19:24:55 | 日記

 医療業界では、公益的とか公的とか公共的とかの言葉がよく使われます。それが恣意的に使われることが多くこれが結構市民の誤解を招いています。特に問題なのは、実態の伴わない形式的・表面的な部分に拘った使い方が多いことです。
 ここ生駒市の生駒市立病院開設案件においても同類の発言が、医師会や市議会議員からなされています。
 公的病院と一般病院を別次元の存在のように主張する医師会。その意を汲んでか、医師会は公益法人だとか公共的法人で、その意見は厳かに拝聴すべきと主張する議員。
 しかしちょっと待ってください。その主張には、言葉の定義の曖昧さと実態無視さらには恣意的なものがあるのではないでしょうか。生駒市民は言葉遊びをしているわけではないのです。生駒総合病院が閉鎖されて5年余を経過し、生駒市の切実な医療崩壊の再生を議論しているのです。一般病院でも、個人病院でも、国立病院でも、医師会立病院でも、恩賜財団日赤病院でも、大学病院でも、県立病院でも 何でも結構です。それが、公的であろうが私的・一般的でも構わないのです。要は形に関係なく、実態的に生駒の医療ニーズ(特に2次救急、小児救急)に対応してくれる指定管理者を求めているわけです。公立私立関係なく、看板倒れの救急告示病院は却って迷惑です。看板だけ集めて、”救急体制は万全である”という医師会の詭弁はもうご免です。実態と本質の議論をしたいのです。
  
 ある業界識者の意見でもありますが、そもそも医療というもの自体が公益的なものなのです。個人開業医でも、同じく医療という公益的事業を行なっているはずです。
 話がくどくなりそうですので簡潔にします。要は、経営主体が誰であれ、やるべきは公益的事業である「医療」を真摯に遂行することなのです。赤字であろうが黒字であろうがやるべきことはやる というのが医療機関の本来の姿です。最終的に黒字経営ができるかどうかは経営者の力量次第です。ビジネスである以上、ゴーイング・コンサーンの埒外ではないわけです。①やる気と②志と③経営ノウハウ でしょうか。これができない医療機関は即刻退場ものです。赤字部門には見て見ぬふりをし、黒字部門のみにコバンザメのように張り付く医療機関は情けない限りです。
 で、「政策医療=赤字=市立(公的)病院が担当・負担」 という図式は、それこそ恣意的主張と思います。赤字部門のみを担当するのが市民病院(公的病院)の役割だ という医師会の主張がどれほど外れた主張なのかは以上でご理解いただけると思います。民間でも当然やるべき公益的事業をやらず(もしくは 力量がない)、嫌なものだけを市立病院に押し付けているだけなのです。

 しかしこんな医師会の意識レベルですので、生駒市立病院は民間病院が嫌がることも結局はやらざるをえないのでしょう。尻拭いですが、ことここまで崖っぷちまできた以上仕方ありません。
 政策医療という赤字部門を抱えながらトータルとしての病院全体では黒字経営を達成し、生駒市民の負担をさせない健全経営を行うこと。これを市立病院指定管理者である徳洲会に実行していただきたい。市民も全面的にサポートしてゆくでしょうし、必ずや成功します。そして、こんなお粗末な医師会や民間医療機関を見返してやりましょう。

 話が散漫になりましたが、緊急の具体的な議論をする際には言葉を意図的に恣意的に使うことは避けるべきことを話しました。また、議論は表面や形式でではなく、実質的・実態的な議論をすべきを指摘しました。

 なんで今更こんなことを話する必要があるのでしょうかね。我ながら情けなくなってきました。