古代日本の歴史を謎解き

パソコンが故障して、パスワードが分からず
旧ブログから引っ越しです。

突然な投稿失礼しました。

2018-04-30 14:40:38 | 歴史
パソコンの故障で
旧ブログ 古代日本の歴史を謎解き
が更新できなくなり、こちらへ引っ越ししました。
今回、ご覧いただい皆様
ぜひ、古代日本の歴史を謎解きしかご覧になられていない方へ
紹介してあげてください。
復旧中でしたが、
古代の女王 卑弥呼の秘話 前書
ミステリー小説として物語を書いておきましたので
ゴールデンウィーク、時間のある方、電車など車中での時間つぶしにでも読んでいただければ幸いです。
卑弥呼の死の真相にたどり着けます。
アメノウズメさんが
となるお話も!!

パソコン、エクセルでお悩みの方は
おもしろエクセル塾 目次(Vol 1)
こちらからも。

「古事記」と「日本書紀」

2018-04-30 14:14:27 | 歴史
古代史ファンで必須なのが、日本で初めての歴史書
「古事記」と「日本書紀」です。
共に、平安時代に大陸の史記を参考に完成します。
天皇家を正当性を主張するあまり、かなりの矛盾も含んでいます。
最初に「古事記」
上巻は、ほとんど日本神話、漢字がまだない時代の言い伝え
中巻が、初代神武天皇即位以降
下漢は、16代仁徳天皇から33代推古天皇(女帝)
です。
後に完成する「日本書紀」海外(中国、朝鮮)に向けて書き直されました。
神武天皇の即位を紀元前600年と設定したため、沢山の長寿の天皇が書き加えられています。
信ぴょう性がある部分では
527年 筑紫磐井の乱 があります。
ヤマト王権(継体天皇)軍 物部 麁鹿火(もののべ の あらかひい) VS 筑紫磐井軍
筑紫葵が大和朝廷を裏切り百済と手を組んだ為、物部氏が討ち滅ぼします。
その物部氏一族も
新藤派の物部氏一族 VS 仏教派の蘇我氏一族の争いで滅ぼされます。
更に、権力の頂点に立つ蘇我氏も
645年6月12日 中大兄皇子と中臣鎌子が蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)
朝廷内の争いが絶えない時代の出来事が記述してあります。
何とも物騒な時代を得て、平安時代になるわけです。


空白の四世紀と朝鮮半島

2018-04-30 13:42:16 | 歴史
台与の時代を最後に大陸の歴史書から姿が消えてしまう倭国ですが
実は、朝鮮半島の当時のことが紹介されています。
七枝刀 と 広開土王碑です。
当時の朝鮮半島は、三国時代
高句麗 大陸が乱れる中、勢力をまします。朝鮮半島全体の支配に力を入れます。
百済  中国大陸との交易で栄えた国です。魏など黄河地域の国と倭国を結ぶ交易の拠点でした。
新羅  朝鮮半島の西側で三国中では、弱小国、倭国に支配され鉄が安い価格(わずかな穀物と取引)で日本へ輸入されます。
任那  朝鮮半島先端、倭国支配の入り口です。

七枝刀は、百済が倭国に献上した刀、奈良県石上神宮に奉納されており国宝です。
一説では、物部氏の倉から発見されとなっています。重要なのは、刀に掘られた文字
「泰和4年(369年)によく鍛えた鉄で七枝刀を造った。
倭国と百済はかなり有効な関係でした。

現在の北朝鮮にある広開土王碑(好太王碑を読むと
そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が391年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。
396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづから兵を率いて倭に壊滅的打撃を与えた。
4世紀に高句麗が力をまし、倭国の軍人を追い出し、百済を支配した。
と解釈できます。

地理的な関係を考えると
・百済、任那と友好的な関係は、九州の筑紫
・新羅を武力で支配したのが、山陰の出雲ではないでしょうか。
台与の国づくりも思うようにいかなかったようです。

高句麗の支配が増す中、大勢の朝鮮人が倭国へ移住します。
その朝鮮人を巧みに取り入れ活かしたのが、大和王権です。
奈良盆地の一角に百済人の住居を作り、漢字など文化を取り入れます。
出来上がったのが飛鳥文化です。
大和朝廷(飛鳥時代)」と朝鮮文化は密接な関係があります。
高松塚古墳の壁画

も朝鮮半島の影響がかなり強いです。


「魏志倭人伝」 晋の時代の台与(トヨ)

2018-04-30 13:37:02 | 歴史
「魏志倭人伝」の最後に登場するのが、卑弥呼の宗女とされる13歳の女王 台与(トヨ)
魏志倭人伝をまとめたのが、晋の時代の陳寿で、台与が貢物を贈り、国づくりを学んだのも晋の国からです。
台与の存在の信ぴょう性は非常に高いです。
急に年齢13歳とまで紹介されています。
一方で、台与の宮殿がどこになったのかは記載がありません。
理由
1、漢の時代の倭国
  伊都国、奴国など玄界灘湾岸の国々+その南にある21国
2、魏の議題の倭国
  1に加えて、さらに南にある邪馬台国と水行20日で行ける投馬国
  女王に従わない邪馬台国の南にある狗奴国
3、晋の時代の倭国
  2に加えて、瀬戸内海の国々+近畿
と広がりがあった。と考えます。
つまり、台与の宮殿は、奴国、邪馬台国でも投馬国でもなく、まだ名前が付けられていない
西日本のどこかにあった国ではないでしょうか。

そして、
張政らは(幼くして新女王となった)壹與に対し、檄文の内容を判りやすく具体的に説明した。
壹與は倭国大夫率善中郎將の掖邪狗ら二十人を随行させた上で張政らを帰還させた。
つまり大陸から国づくりを教わった。
大陸主導の元で新しい国づくりが行われた。
その際、男女生口三十人を献上すると共に白珠五千孔、靑大勾珠二枚および異文雑錦二十匹を貢いだ。
そのお礼に台与が貢物を贈った。
と云うことに・・・
後の大和朝廷の聖徳太子らが隋に遣隋使、唐に遣唐使を派遣しますが、
それより以前に台与が大陸の文化や国の統治の方法を学んだと云うことです。
台与が参考にした大陸の晋の国も滅び、五胡十六国の戦国時代へ
宋、隋、唐と大国がまとめたのは、6世紀ぐらい、日本では飛鳥時代になります。
台与の記述を最後の中国大陸の歴史書「史記」から倭国の記載がなくなります。
大陸もそれどこれはなかったのでしょうね。

「魏志倭人伝」 の信ぴょう性(投馬国)

2018-04-30 13:03:27 | 歴史
「魏志倭人伝」を理解する上で注意すべき事がもうひとつ
1、紀元前の漢の時代から
2、卑弥呼の魏の時代
3、台与の晋の時代と数百年の出来事がまとめてあります。
史記に書かれている情報がいつの時代の情報であるか見極めながら読む、理解しなければ飛んでもないことになります。
その例が
投馬国
南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。
官を弥弥(耳)という。副(官)を弥弥那利(耳成・耳垂か)という。
五万余戸ばかりである。

倭国の道程を紹介する中で、伊都国、奴国、不弥国の次に
南(行)へ水行二十日の投馬国が紹介されtりるので
博多湾から船で出発して、南へ20日と解釈してしまいますが
帯方群から末盧国(松浦半島)まで水行10日です。
博多湾を出発して関門海峡を渡り、南へ20日も進むと鹿児島を過ぎて
屋久島、さらに沖縄?ということに・・・
ましてや、末盧国で船をおりて陸路で進んでいるに、奴国に船があり20日も航海できる。
それなら、末盧国から船で奴国まで来いよ・・・
矛盾が残るのです。

解決する方法は
邪馬台国まで水行10日陸行1月と同じ表現で、魏の時代以降に航路が出来た。
南へ水行20日は、帯方群が出発地
狗邪韓国(或いはもう少し東)から直接、奴国、不弥国、或いは直接、投馬国へ行ける航路が出来た。
伊都国、奴国を経由せずに、帯方群から船で20日で行ける国
山陰地方では、出雲国(ずまこく=>いずもこく)
瀬戸内海の国々(安芸、吉備)
宮崎など太平洋側(日向など)
当時の遺跡の分布に一致する候補地があります。

邪馬台国まで水行10日陸行1月も
末盧国へは向かわず、現在の有田、武雄など南へ山越え
佐賀、小城、神崎市を通り、八代、熊本への陸路が考えられます。
漢の時代には出てこなかった
邪馬台国と投馬国の情報は魏の時代の新しい航路、陸路があったからではないでしょうか。



「魏志倭人伝」 の信ぴょう性(卑弥呼の年齢)

2018-04-30 11:48:10 | 歴史
「魏志倭人伝」ですが
帯方群から伊都国、奴国までの道程は、日数、水行陸行と方法、距離と詳しく記載されています。
しかし、その南に位置する21国は
(奴国が博多湾なので陸地は南ですので)
その国々の名前だけになってしまいます。
不弥国 奴国より東に百里
南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。
水行二十日である。
投馬国(とまこく、或いはずまこく)も南へ水行20日ですので、かなり離れた場所にある海側の国
としかわかりません。
大陸の役人や商人が行き来できたわけではないので仕方ないですね。
特に、女王 卑弥呼は180年ほどに女王になり、すでに長大(老婆)
249年に死亡ですので、女王の座に役70年、40歳で女王なら110歳まで生きていたことになります。
卑弥呼90歳の説もありますが、当時の寿命を考えるとかなり無理があります。
・当時の食事が自然食であった。
・よく噛んで食事をしていた。などが長寿の理由の様です。
一方、卑弥呼は祈祷の館から外に出ていません。
運動不足が長寿につながるだろうか?
「親魏倭王」の金印を受ける。
外交の最前線に90歳を超えるだろう老婆の卑弥呼?
大陸に、不良長寿の仙人が住む東の島と考える信仰がまだあったのかもしれません。

結局、私がたどり着いた結論は
卑弥呼複数説 卑弥呼は一人ではないです。
初代 女王 卑弥呼の死後、卑弥呼の宗女らに女王職 卑弥呼が受け継がれた。



「魏志倭人伝」 伊都国と一大卒

2018-04-30 11:33:11 | 歴史
「魏志倭人伝」に登場する 一大卒(一大率)
女王国より以北には、とくに一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。
諸国はこれを畏れ憚っている。
(一大率は)つねに伊都国に(おいて)治めている。
国中において、(その権勢は、中国の)刺史(郡国の政績、状況を報告する官吏。
州の長官をさすばあいもある)のごとき(もの)である。
(倭)王の使が京都(魏の都、洛陽)・帯方郡・諸韓国におもむき帰還したとき、(帯方)郡の使が倭国に(いたり)およんだときは、
みな津(船つき場)に臨んで 伝送の文書とくだされ物とを照合点検し、女王(のもと)にいたらせるときに、
差錯(不足やくいちがい)がないようにする。

つまり、大陸の役人(多分、漢の時代から)が一大卒
伊都国に住んでいて、さらに役人を諸国においている。
女王国にはいない。
大陸との交易の品々を検品している。

女王国より以北には と言う言葉がもう一か所
女三(王の誤り)国より以北は、
その戸数・道里は略載するを得べきも、その余の旁(わきの国々)は、遠絶していて、
つまびらかにしようとしてもできないことである。

つぎに斯馬国(しまこく)がある。
つぎに已百支国(いわきこく)がある。
つぎに伊邪国(いやこく)がある。
つぎに都支国(ときこく)がある。
つぎに弥奴国(みなこく)がある。
つぎに好古都国(をかだこく)がある。
つぎに不呼国(ふここく)がある。
つぎに姐奴国(さなこく)がある。
つぎに対蘇国(とすこく)がある。
つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。
つぎに呼邑国(おぎこく)がある。
つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。
つぎに鬼国(きこく)がある。
つぎに為吾国(いごこく)がある。
つぎに鬼奴国(きなこく)がある。
つぎに邪馬国(やまこく)がある。
つぎに躬臣国(くじこく)がある。
つぎに巴利国(はりこく)がある。
つぎに支惟国(きくこく)がある。
つぎに烏奴国(あなこく)がある。
つぎに奴国(なこく)がある。

つまり、伊都国までは大陸の人間が行き来できる場所
伊都国、奴国より南の情報は、行き来する役人などから聞いた話です。
伊都国の一大卒の役人たちも女王国まで行けていません。

まして、卑弥呼について
その国は、もとまた男子をもって王としていた。
7~80年まえ倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴る。
すなわち、ともに一女子をたてて王となす。
名づけて卑弥呼(女王:ひめみこの音を写したとみられる)という。
鬼道につかえ、よく衆をまどわす。
年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。
男弟があって、佐(たす)けて国を治めている。
(卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。
婢千人をもって、自(身)にはべらしている。
ただ男子がひとりあって、(卑弥呼に)飲食を給し、辞をつたえ、居拠に出入りしている。
宮室・楼観(たかどの)、城柵、おごそかに設け、つねに人がいて、兵(器)をもち、守衛している。

多分に、古代の環濠集落の中で卑弥呼を含む女性陣が生活しており
周囲を男性が警護している。
男性一人が卑弥呼に会うことを許されている
卑弥呼は独身ですでに長大、老婆である。

一大卒など大陸の人々はもとより、倭国の人、諸国の王達であっても
卑弥呼を見たものがいないと言う事です。
女王卑弥呼も同じ立場です。
周囲の国々の状況、大陸の情報などすべての情報が卑弥呼に仕えていた男子一人です。
この男性こそが倭国左右する大きな役目を担っています。


「魏志倭人伝」から見る邪馬台国

2018-04-30 10:38:43 | 歴史
さて、もう一度、「魏志倭人伝」を詳しく見てみましょう。
邪馬台国とは、魏志倭人伝に紹介されている倭国にあった大国です。
もし、魏志倭人伝がなかったら、見つからなかったら
邪馬台国の存在もわからなかったでしょう。

魏の皇帝が、邪馬台国の女王卑弥呼へ金印など多数の贈り物をしています。
邪馬台国、卑弥呼が実在した事は事実でしょう。
しかし、残念柄、倭国には文字が無いので、卑弥呼も邪馬台国も大陸が充てた漢字です。

さて、魏志倭人伝から邪馬台国が九州である理由です。
1、(帯方)郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある。
  帯方郡から伊都国、奴国(博多湾)までの道程も書いてあり、

 帯方郡~博多湾は、合計10,600里
  残り、1400里で邪馬台国
  ※近畿まで1400里では近すぎます。
2、南(行)して、邪馬台国の女王の都まで水行十日、陸行一月かかる。
  博多湾まで、水行十日、陸行6~7日 残り陸行20日ほどで邪馬台国です。
  陸行20日で近畿までたどり着けないでしょう。
  方向も東です。
3、女王国より以北には、とくに一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。
  伊都国、奴国など玄界灘湾岸の国々は一大率が権力者で、その南に邪馬台国
4、女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。
  東側が海で、千余里(水行1日)で陸地があり、倭人が住んでいる。
  ※周防灘を船で渡り、四国、或いは山口、広島(安芸)では
5、その南に狗奴国がある。男王に狗古智卑狗(菊池彦か)がある。女王に属していない。
  邪馬台国の南に、狗奴国がある。
6、侏儒(こびと)の国が、その南に(存)在する。女王(国)を去ること四千余里である。
  ※現在の鹿児島より南、屋久島、沖縄ではなかろうか。
7、裸国・黒歯国があり、 またその東南に在る。船行一年でいたることが可能であろう。
  フィリピンなど赤道に近い南国の国でしょう。
8、周旋すること(めぐりまわれば)五千余里ばかりである
  松浦半島(末盧国)から糸島半島(伊都国)まで500里ですので、周囲は、その10倍ほど
「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国に属する倭国は九州の北部
 倭国の南に女王卑弥呼が住む、邪馬台国がある。
 更に南、倭人であるが、邪馬台国に属しない狗奴国が九州南部
としか考えれたないのですが、如何でしょうか。

「魏志倭人伝」 倭の国々 と 邪馬台国

2018-04-30 09:47:42 | 歴史
「魏志倭人伝」については
「邪馬台国の会」さんが詳しく紹介してくれています。
さて、当時の倭国の国々です。
倭人は、(朝鮮の)帯方(郡)(魏の朝鮮支配の拠点、黄海北道沙里院付近か、京城付近)の東南の大海のなかにある。山(の多い)島によって国邑(国や村)をなしている。もとは百余国であった。漢のとき(中国に)朝見するものがあった。いま、使者と通訳の通うところは、三十か国である。

漢の時代から交易があり、100余国があったが
今は、30国にまとまった。
女王国も紹介されているので
倭国大乱の後、卑弥呼が女王になった3世紀ごろ国々です。
出発地は 帯方群(現在のピョンヤン付近)
・狗邪韓国 朝鮮半島南端(今のプサン当たり) ここまで7000里(水行7日)
・対馬国  船で南へ一日
・一支国  壱岐、ここまで船で一日
・末盧国  松浦半島 ここまで船で一日(合計 1万里、水行10日)
・伊都国  糸島半島 陸路5日(5百里)
・奴国   博多湾の大国 伊都国より陸行1日(1百里)

ここまでは、ほとんどの学者さんが一致するところです。
ここで意見が分かれるのが、邪馬台国(女王国)
近畿説と九州説
 南(行)して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である
近畿説では、奴国を出発して東へ水行十日、陸行一月
九州説では、出発地 帯方群より南へ水行十日、陸行一月
既に、奴国水行十日、陸行6日かかっているので、博多湾からさらに南へ20日ほどの陸行

「魏志倭人伝」など大陸の史記に登場する「邪馬台国」
この否定地についても、今も諸説あり結論が出ていません。


『三国志』の魏志倭人伝

2018-04-30 09:37:25 | 歴史
弥生時代を知る手掛かりが大陸の史記『三国志』に書いてありました。
『三国志』漢が滅んで、魏、蜀、呉 の三国に分かれて争っていた時代の歴史書です。

三国で、洛陽に都をおき黄河流域(朝鮮半島に近い)北東部の国が 魏 です。
魏書で、中国より東部の地域を
烏丸,鮮卑,夫餘,高句麗,東沃沮,挹婁,濊,韓,倭人に分けて記述されていて
倭人について記述した部分が「魏志倭人伝」
「魏志倭人伝」の内容を歴史の順番で紹介すると
1、西暦57年漢の光武帝が「漢委奴国王」の金印を倭国へ送る。
  奴国は、博多湾にあった国で、この金印が実際に発見され国宝になっています。
2、倭国大乱の時代が100年ほど続いた。
  (多分、漢が滅んで権力のバランスが崩れた)
3、卑弥呼が女王に推薦される。(西暦180年ほどと思われる。)
4、西暦237年、卑弥呼が魏の皇帝に貢物を贈り、「親魏倭王」の金印を贈られる。
  (残念ながら、こちらの金印は見つかっていません。)
5、西暦249年、卑弥呼が死亡する。
5、男王が立つが国が乱れる。
7、13歳の卑弥呼の宗女 台与(トヨ)が女王になる。
  国の治め方を草しく説明、台与も20人の倭国大夫率(視察団)を出したりした。
  『晋書』266年、倭の女王の使者が朝貢したとの記述があります。
弥生時代後期から古墳時代が紹介されているわけです。
この『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ
中国では正史として重んじられています。
つまり、卑弥呼の時代には「魏志倭人伝」も完成していませんし
当時の日本には漢字も伝わっていません。
最初に「魏志倭人伝」など大陸の史記(歴史書)呼んだのは
後の飛鳥時代の大和王権の時代位でしょう。