さて、前投稿 邪馬台国を発見① 九州説派?近畿説派?の続きです。
魏志倭人伝を読む限り、邪馬台国は 九州説です。
倭国は周囲5000里ですので
長崎、佐賀、福岡、大分、熊本(北部)の地域です。
邪馬台国は、その南側に位置しています。
有明海沿岸、福岡内陸部、大分、宮崎内陸位まででしょうか。
まずは魏志倭人伝に出てくる
・水行20日でたどり着ける投馬国の場所とその航路を考えてみます。
邪馬台国まで水行10日陸行1月です。
投馬国の水行20日も帯方郡を出発地でなくてはおかしいです。
その航路は
帯方郡から末盧国(松浦半島)まで水行10日です。
松浦半島から玄界灘を東へ進んだのでしょうか。
それはあり得ないのです。
伊都国に一大卒と呼ばれる役人がいて物々交換の検査をしています。
伊都国で上陸することなく玄界灘を東へ進んでしまう事は一大卒が許すわけがありません。
投馬国への航路は
帯方郡から狗邪韓国(7日)対馬、壱岐(2日)==>宗像市の大島です(壱岐から1日)
帯方郡から宗像市まで水行10日です。
(ひょっとしたら対馬から宗像市へ直行して水行9日かもしれません)
当時の最強国 伊都国と奴国を通ることなく大陸と交易できる航路が出来ます。
末盧国経由は漢の時代、1世紀ごろです。
魏の時代には、船も大きくなり壱岐から福岡の宗像辺りまで一日で渡航出来る様になります。
宗像一族が力を付けた時代です。
・そのまま、関門海峡を渡り周防灘を南下すれば、10日もあれば十分に日向、西都原付近まで行けます。
・もし投馬国が ズマ国と発音、出雲国であっても、日本海側を東へ進めば、鳥取県出雲市へ着くことが出来ます。
投馬国は、日向、或いは出雲でしょうか、この宗像経由の航路が邪馬台国を特定する重要なヒントです。
邪馬台国の候補地で
三門、朝倉など福岡の山間部、大分、宮崎の候補地が消えます。
理由
邪馬台国は水行10日の後に、陸行で1月かかります。
末盧国から奴国、不弥国まで陸行6,7日ですので更に山道を20日程で朝倉は可能性がありますが
宗像市まで水行10日で行けるのですから、福岡、大分の候補地は近すぎる事になります。
別府、大分、宮崎、日向など湾岸の国は船で行けますので陸路は不要です。
対象外です。
邪馬台国は有明海側の国です。
ここで、魏志倭人伝に紹介される新しくわかった国20国を見てみます。
奴国から順に並んでいると思われますので、ちょうど真ん中あたり
9番目 対蘇国(とすこく)
10番目 蘇奴国(さがなこく)
11番目 呼邑国(おぎこく)
12番目 華奴蘇奴国(かなさきなこく)
の南側に大国 邪馬台国が位置しています。
実は、これらの国名が現在、ある地域が集中しています。
9番目 対蘇国(とすこく) 鳥栖、多久
10番目 蘇奴国(さがなこく) 佐賀
11番目 呼邑国(おぎこく) 小城
12番目 華奴蘇奴国(かなさきなこく) 神崎
です。
ひょっとしたら、奴国の手前 烏奴国(あなこく)が鳥栖かもしれません。
もうひとつ、宗像で船を下りて佐賀へ向かうには博多(奴国、伊都国)を通過することになります。
大国 伊都国、奴国に知られずに佐賀へ到着する陸路のルートを考えます。
水行で末盧国で船をおりますが、あえて松浦半島の西側 玄海町側に舟を付けます。
陸路で伊万里(巴利国(はりこく))=>多久、武雄を経緯して佐賀、神崎辺り(吉野ケ里の近く)へ陸路を歩きます。
そして、更に南下すると
筑紫川流域の有明海湾岸が 邪馬台国です。
人口7万戸で博多湾の奴国より広い地域だったでしょう。
筑紫川から熊本市付近までが邪馬台国の領地です。
その南側にある狗奴国
熊本の八代には球磨川があります。この辺りが狗奴国です。
では、次に卑弥呼が祈祷を行った宮殿は何処になったのでしょうか。
似ている建物は、吉野ケ里の環濠内の集落です。
こちらは特定できません。
また、この地域に ヤマト に比定できるような地名が無いのです。
実は、奈良飛鳥のヤマト朝廷により消されます。
その地は、架空の国 高天原 に変更されたのです。
・卑弥呼に贈られた親魏倭王の金印は何処
金印は卑弥呼の手元ではなく、伊都国、或いは宗像で交易に使われたでしょう。
魏が滅んで大陸との交易が出来なくなったら不要です。
他の形に変えられてかもしれませんね。
・卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡は
鏡の他にも沢山の絹など生地が贈られています。
大勢の女性と共に生活していたこともきちんと伝わっています。
意外と鏡も、一枚づつ女性に配られたかもしれませんね。
卑弥呼が使った鏡だけが特別なものだったのでしょうか。
・直系100歩の卑弥呼の墓は
100人の殉職者と共に埋められています。
当時は、まだ甕棺ですし、卑弥呼が生前に墓を作らせたとも考えられません。
中央に卑弥呼を入れた甕棺、周囲に仕えていた女性陣も生きたまま甕棺に入る。
穴を掘って、甕棺を埋めて上に土を盛っていく。
弥生時代の集合墳に近いと思います。
但し、魏志倭人伝に直系(丸い)100歩、手前に儀式の場所がある
と記載された事から、後の前方後円墳が出来たのではないでしょうか。
古墳時代に王が生前に作る竪穴式石室、横穴式石室 や 石棺ではないはずです。
ましてや石室の中に沢山の鏡が置かれる儀式も後の事です。
弥生時代の集合墳で中央に身体を折り曲げた形で一枚の鏡を抱いている女性が卑弥呼です。
古墳の様にはっきりとしたお墓ではないでしょうから、見つけるのは至難の技ですね。
現在思いつく所はここまでです。
今年も古代の人々の気持ちを考えなら当時の歴史を紐解いてみます。
歴史の祠(ほこら)これからも宜しくお願いします。
それにしても昨年は、北朝鮮の各・ミサイル開発、中国の領土拡大 と
更に協力な武力、経済力をもって東アジアの地域支配を変えようとしています。
中国大陸、朝鮮半島では2000年前の歴史がまだ続いているのでしょうか。
2000年を経過しても人間の本質は成長していないのかもしれませんね。
魏志倭人伝を読む限り、邪馬台国は 九州説です。
倭国は周囲5000里ですので
長崎、佐賀、福岡、大分、熊本(北部)の地域です。
邪馬台国は、その南側に位置しています。
有明海沿岸、福岡内陸部、大分、宮崎内陸位まででしょうか。
まずは魏志倭人伝に出てくる
・水行20日でたどり着ける投馬国の場所とその航路を考えてみます。
邪馬台国まで水行10日陸行1月です。
投馬国の水行20日も帯方郡を出発地でなくてはおかしいです。
その航路は
帯方郡から末盧国(松浦半島)まで水行10日です。
松浦半島から玄界灘を東へ進んだのでしょうか。
それはあり得ないのです。
伊都国に一大卒と呼ばれる役人がいて物々交換の検査をしています。
伊都国で上陸することなく玄界灘を東へ進んでしまう事は一大卒が許すわけがありません。
投馬国への航路は
帯方郡から狗邪韓国(7日)対馬、壱岐(2日)==>宗像市の大島です(壱岐から1日)
帯方郡から宗像市まで水行10日です。
(ひょっとしたら対馬から宗像市へ直行して水行9日かもしれません)
当時の最強国 伊都国と奴国を通ることなく大陸と交易できる航路が出来ます。
末盧国経由は漢の時代、1世紀ごろです。
魏の時代には、船も大きくなり壱岐から福岡の宗像辺りまで一日で渡航出来る様になります。
宗像一族が力を付けた時代です。
・そのまま、関門海峡を渡り周防灘を南下すれば、10日もあれば十分に日向、西都原付近まで行けます。
・もし投馬国が ズマ国と発音、出雲国であっても、日本海側を東へ進めば、鳥取県出雲市へ着くことが出来ます。
投馬国は、日向、或いは出雲でしょうか、この宗像経由の航路が邪馬台国を特定する重要なヒントです。
邪馬台国の候補地で
三門、朝倉など福岡の山間部、大分、宮崎の候補地が消えます。
理由
邪馬台国は水行10日の後に、陸行で1月かかります。
末盧国から奴国、不弥国まで陸行6,7日ですので更に山道を20日程で朝倉は可能性がありますが
宗像市まで水行10日で行けるのですから、福岡、大分の候補地は近すぎる事になります。
別府、大分、宮崎、日向など湾岸の国は船で行けますので陸路は不要です。
対象外です。
邪馬台国は有明海側の国です。
ここで、魏志倭人伝に紹介される新しくわかった国20国を見てみます。
奴国から順に並んでいると思われますので、ちょうど真ん中あたり
9番目 対蘇国(とすこく)
10番目 蘇奴国(さがなこく)
11番目 呼邑国(おぎこく)
12番目 華奴蘇奴国(かなさきなこく)
の南側に大国 邪馬台国が位置しています。
実は、これらの国名が現在、ある地域が集中しています。
9番目 対蘇国(とすこく) 鳥栖、多久
10番目 蘇奴国(さがなこく) 佐賀
11番目 呼邑国(おぎこく) 小城
12番目 華奴蘇奴国(かなさきなこく) 神崎
です。
ひょっとしたら、奴国の手前 烏奴国(あなこく)が鳥栖かもしれません。
もうひとつ、宗像で船を下りて佐賀へ向かうには博多(奴国、伊都国)を通過することになります。
大国 伊都国、奴国に知られずに佐賀へ到着する陸路のルートを考えます。
水行で末盧国で船をおりますが、あえて松浦半島の西側 玄海町側に舟を付けます。
陸路で伊万里(巴利国(はりこく))=>多久、武雄を経緯して佐賀、神崎辺り(吉野ケ里の近く)へ陸路を歩きます。
そして、更に南下すると
筑紫川流域の有明海湾岸が 邪馬台国です。
人口7万戸で博多湾の奴国より広い地域だったでしょう。
筑紫川から熊本市付近までが邪馬台国の領地です。
その南側にある狗奴国
熊本の八代には球磨川があります。この辺りが狗奴国です。
では、次に卑弥呼が祈祷を行った宮殿は何処になったのでしょうか。
似ている建物は、吉野ケ里の環濠内の集落です。
こちらは特定できません。
また、この地域に ヤマト に比定できるような地名が無いのです。
実は、奈良飛鳥のヤマト朝廷により消されます。
その地は、架空の国 高天原 に変更されたのです。
・卑弥呼に贈られた親魏倭王の金印は何処
金印は卑弥呼の手元ではなく、伊都国、或いは宗像で交易に使われたでしょう。
魏が滅んで大陸との交易が出来なくなったら不要です。
他の形に変えられてかもしれませんね。
・卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡は
鏡の他にも沢山の絹など生地が贈られています。
大勢の女性と共に生活していたこともきちんと伝わっています。
意外と鏡も、一枚づつ女性に配られたかもしれませんね。
卑弥呼が使った鏡だけが特別なものだったのでしょうか。
・直系100歩の卑弥呼の墓は
100人の殉職者と共に埋められています。
当時は、まだ甕棺ですし、卑弥呼が生前に墓を作らせたとも考えられません。
中央に卑弥呼を入れた甕棺、周囲に仕えていた女性陣も生きたまま甕棺に入る。
穴を掘って、甕棺を埋めて上に土を盛っていく。
弥生時代の集合墳に近いと思います。
但し、魏志倭人伝に直系(丸い)100歩、手前に儀式の場所がある
と記載された事から、後の前方後円墳が出来たのではないでしょうか。
古墳時代に王が生前に作る竪穴式石室、横穴式石室 や 石棺ではないはずです。
ましてや石室の中に沢山の鏡が置かれる儀式も後の事です。
弥生時代の集合墳で中央に身体を折り曲げた形で一枚の鏡を抱いている女性が卑弥呼です。
古墳の様にはっきりとしたお墓ではないでしょうから、見つけるのは至難の技ですね。
現在思いつく所はここまでです。
今年も古代の人々の気持ちを考えなら当時の歴史を紐解いてみます。
歴史の祠(ほこら)これからも宜しくお願いします。
それにしても昨年は、北朝鮮の各・ミサイル開発、中国の領土拡大 と
更に協力な武力、経済力をもって東アジアの地域支配を変えようとしています。
中国大陸、朝鮮半島では2000年前の歴史がまだ続いているのでしょうか。
2000年を経過しても人間の本質は成長していないのかもしれませんね。