古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

邪馬台国を発見② 投馬国の比定地から絞り込み

2018-01-01 00:05:32 | 歴史
さて、前投稿 邪馬台国を発見① 九州説派?近畿説派?の続きです。

魏志倭人伝を読む限り、邪馬台国は 九州説です。
倭国は周囲5000里ですので
長崎、佐賀、福岡、大分、熊本(北部)の地域です。
邪馬台国は、その南側に位置しています。
有明海沿岸、福岡内陸部、大分、宮崎内陸位まででしょうか。

まずは魏志倭人伝に出てくる
・水行20日でたどり着ける投馬国の場所とその航路を考えてみます。
邪馬台国まで水行10日陸行1月です。
投馬国の水行20日も帯方郡を出発地でなくてはおかしいです。
その航路は
帯方郡から末盧国(松浦半島)まで水行10日です。
松浦半島から玄界灘を東へ進んだのでしょうか。
それはあり得ないのです。
伊都国に一大卒と呼ばれる役人がいて物々交換の検査をしています。
伊都国で上陸することなく玄界灘を東へ進んでしまう事は一大卒が許すわけがありません。
投馬国への航路は
帯方郡から狗邪韓国(7日)対馬、壱岐(2日)==>宗像市の大島です(壱岐から1日)
帯方郡から宗像市まで水行10日です。
(ひょっとしたら対馬から宗像市へ直行して水行9日かもしれません)
当時の最強国 伊都国と奴国を通ることなく大陸と交易できる航路が出来ます。
末盧国経由は漢の時代、1世紀ごろです。
魏の時代には、船も大きくなり壱岐から福岡の宗像辺りまで一日で渡航出来る様になります。
宗像一族が力を付けた時代です。
・そのまま、関門海峡を渡り周防灘を南下すれば、10日もあれば十分に日向、西都原付近まで行けます。
・もし投馬国が ズマ国と発音、出雲国であっても、日本海側を東へ進めば、鳥取県出雲市へ着くことが出来ます。

投馬国は、日向、或いは出雲でしょうか、この宗像経由の航路が邪馬台国を特定する重要なヒントです。
邪馬台国の候補地で
三門、朝倉など福岡の山間部、大分、宮崎の候補地が消えます。
理由
邪馬台国は水行10日の後に、陸行で1月かかります。
末盧国から奴国、不弥国まで陸行6,7日ですので更に山道を20日程で朝倉は可能性がありますが
宗像市まで水行10日で行けるのですから、福岡、大分の候補地は近すぎる事になります。
別府、大分、宮崎、日向など湾岸の国は船で行けますので陸路は不要です。
対象外です。
邪馬台国は有明海側の国です。

ここで、魏志倭人伝に紹介される新しくわかった国20国を見てみます。
奴国から順に並んでいると思われますので、ちょうど真ん中あたり
 9番目 対蘇国(とすこく)
10番目 蘇奴国(さがなこく)
11番目 呼邑国(おぎこく)
12番目 華奴蘇奴国(かなさきなこく)
の南側に大国 邪馬台国が位置しています。
実は、これらの国名が現在、ある地域が集中しています。


 9番目 対蘇国(とすこく)      鳥栖、多久
10番目 蘇奴国(さがなこく)     佐賀
11番目 呼邑国(おぎこく)      小城
12番目 華奴蘇奴国(かなさきなこく) 神崎
です。
ひょっとしたら、奴国の手前 烏奴国(あなこく)が鳥栖かもしれません。

もうひとつ、宗像で船を下りて佐賀へ向かうには博多(奴国、伊都国)を通過することになります。
大国 伊都国、奴国に知られずに佐賀へ到着する陸路のルートを考えます。
水行で末盧国で船をおりますが、あえて松浦半島の西側 玄海町側に舟を付けます。
陸路で伊万里(巴利国(はりこく))=>多久、武雄を経緯して佐賀、神崎辺り(吉野ケ里の近く)へ陸路を歩きます。
そして、更に南下すると
筑紫川流域の有明海湾岸が 邪馬台国です。
人口7万戸で博多湾の奴国より広い地域だったでしょう。
筑紫川から熊本市付近までが邪馬台国の領地です。

その南側にある狗奴国
熊本の八代には球磨川があります。この辺りが狗奴国です。

では、次に卑弥呼が祈祷を行った宮殿は何処になったのでしょうか。
似ている建物は、吉野ケ里の環濠内の集落です。
こちらは特定できません。
また、この地域に ヤマト に比定できるような地名が無いのです。
実は、奈良飛鳥のヤマト朝廷により消されます。
その地は、架空の国 高天原 に変更されたのです。

・卑弥呼に贈られた親魏倭王の金印は何処
 金印は卑弥呼の手元ではなく、伊都国、或いは宗像で交易に使われたでしょう。
 魏が滅んで大陸との交易が出来なくなったら不要です。
 他の形に変えられてかもしれませんね。
・卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡は
 鏡の他にも沢山の絹など生地が贈られています。
 大勢の女性と共に生活していたこともきちんと伝わっています。
 意外と鏡も、一枚づつ女性に配られたかもしれませんね。
 卑弥呼が使った鏡だけが特別なものだったのでしょうか。
・直系100歩の卑弥呼の墓は
 100人の殉職者と共に埋められています。
 当時は、まだ甕棺ですし、卑弥呼が生前に墓を作らせたとも考えられません。
 中央に卑弥呼を入れた甕棺、周囲に仕えていた女性陣も生きたまま甕棺に入る。
 穴を掘って、甕棺を埋めて上に土を盛っていく。
 弥生時代の集合墳に近いと思います。
 但し、魏志倭人伝に直系(丸い)100歩、手前に儀式の場所がある
 と記載された事から、後の前方後円墳が出来たのではないでしょうか。
 古墳時代に王が生前に作る竪穴式石室、横穴式石室 や 石棺ではないはずです。
 ましてや石室の中に沢山の鏡が置かれる儀式も後の事です。
 弥生時代の集合墳で中央に身体を折り曲げた形で一枚の鏡を抱いている女性が卑弥呼です。
 古墳の様にはっきりとしたお墓ではないでしょうから、見つけるのは至難の技ですね。
現在思いつく所はここまでです。

今年も古代の人々の気持ちを考えなら当時の歴史を紐解いてみます。
歴史の祠(ほこら)これからも宜しくお願いします。

それにしても昨年は、北朝鮮の各・ミサイル開発、中国の領土拡大 と
更に協力な武力、経済力をもって東アジアの地域支配を変えようとしています。
中国大陸、朝鮮半島では2000年前の歴史がまだ続いているのでしょうか。
2000年を経過しても人間の本質は成長していないのかもしれませんね。

邪馬台国を発見① 九州説派?近畿説派?

2018-01-01 00:01:26 | 歴史
新年あけましておめでとうございます。

新年早々ですが、邪馬台国の場所を指定いたします。
九州説
近畿説
について書いてみます。
上記サイトにそれぞれの主張があります。
皆さんは、どちらの説が有利だと感じられますでしょうか。
私は、九州説です。
邪馬台国の紹介があるのは、魏志倭人伝など大陸の史記です。
当時の倭国には、漢字がありませんでした。
邪馬台国は
・帯方郡(平壌)から、壱岐・対馬を経緯して12000里
・博多湾の奴国まで、10500里
・倭国は周囲5000里(博多湾の奴国を含む)
・倭国の東が海で、船で渡ると倭人が住んでいる。
・南に狗奴国があり、更に南に舟で渡ると歯黒国、小人国がある。
・南水行10日陸行1月は、帯方郡から末盧国まで水行10日と一致
で九州説に一致するのです。
対して、近畿説の反論は
・南は東の間違いで、博多湾の奴国から東へ水行10日(瀬戸内海)陸行1月(山陽から奈良まで)と主張
・東の倭人は、琵琶湖 或いは 伊勢湾の反対側に住んでいた倭人
という事になります。
しかし、もし東を南と間違えたとなると奈良にある邪馬台国の
南にある狗奴国は 実は、北にある狗奴国は京都
更に南にある歯黒、小人国が日本海の島々??
海の向こうの東にある倭種の国は、奈良の東にある海??
どう見ても矛盾が矛盾を広げます。

邪馬台国近畿説を主張するのであれば、邪馬台国=ヤマトと発音
後のヤマト朝廷=倭国=邪馬台国 の主張の方が力強く感じます。

次に九州説の反論です。
ヤマト朝廷が歴史に出てきたのは4世紀後半
邪馬台国が紹介されたのが2世紀末~3世紀前半
異なる国である。しかし、ここまで呼び方が似るでしょうか。

考えられる事
・奈良の倭の一族が魏志倭人伝など大陸の史記を読んだ。
・漢字が読める、理解できるレベルであった。
確かに、飛鳥時代には仏教が伝来し、より難しい仏典が伝わっています。
・飛鳥文化は、朝鮮半島の文化である。
・奈良に住んでいた一族が大陸の史記を理解した。
 自国の名前を 倭 と云う漢字を、読み方を ヤマト と名乗った。
ではないでしょうか。

もう一つ気になるのが、天皇家の正当性を主張する「古事記」「日本書紀」に登場する神々
日本神話です。
高天原に住む天照大御神の子孫、ニニギが天孫降臨した国が高千穂
日向で国を作り、初代天皇 神武天皇の神武東征
(日向を出発、北九州、瀬戸内海の安芸などを経由、大阪湾で敵に阻まれ、和歌山から奈良の土地へ移住する物語)
近畿説では、天皇家の正当性の主張で歴史の事実は関係ないと主張されていますが
もし、奈良のヤマト一族の血統を主張するのであれば
天孫降臨の土地が奈良の明日香
出雲と九州が奈良の天照大神に国譲りを行うストーリーにすべきだったはずです。

当時、明日香の一族に魏志倭人伝を伝えた朝鮮人は、邪馬台国は九州であったと教えたのです。
その話は明日香の一族以外大阪や出雲の国でも知られています。
倭(ヤマト)国と名乗る以上、九州地方へ天孫降臨、神武東征の物語を挿入せざるを得なかったのです。
もちろん、卑弥呼は、天照大神として登場させます。
「古事記」を作成する以前より、飛鳥のヤマト王(26代継体天皇位??から)は、九州の邪馬台国の女王 卑弥呼の子孫であると
主張して西日本の統一を推進したのではないでしょうか。

実際は、縄文時代から日本に住んでいた倭人は
・徐福など始皇帝から逃げて来た大陸人が新しい弥生文化を取り入れた(紀元前4世紀位から)
・そこへ漢の役人一大卒が伊都国を作り玄界灘湾岸を支配(1世紀位)
・有明海側で、一大卒の影響を受けずに邪馬台国が続いた。
・三国時代に、更に大陸から移住する人がいた(3世紀位)
・魏が滅びると高句麗が大陸との交易を出来なくして
・百済から瀬戸内海経由で大坂へ
・新羅から出雲へ朝鮮人が移住した(4世紀位)
この時に漢字と史記が伝わる。
そして、飛鳥の一族が古代から倭国に住んでいた一族
(邪馬台国、安芸、備前など奈良の明日香の一族が倭国の正当な民族であると主張した)が
正当な倭人であると主張する為に国をまとめた

飛鳥人、邪馬台国人 VS 大阪、出雲の朝鮮人 の分離です。
九州~瀬戸内海~近畿(大阪湾を除く)一族を天照の子孫(天皇家の本家)
鉄製武器で有利に立つ出雲は、スサノオ(分家、元は兄弟)
として、古くから住む倭人と
挑戦、大陸から移住民族との統合を可能にしたのです。

この事実は、平安時代まで語り継がれ「古事記」「日本書紀」になり
古くから死後の世界への信仰もありましたので
・太陽神(生きる、昼間の神)天照
・闇の神(死後の国、夜の神)月読(月夜見)
・争いの神(戦争、武力の神)素戔嗚
の三人の神様を擁立して、天皇家(倭人の祖先)は天照大神
とする日本神話が完成します。  
現在の伊勢神宮・出雲大社の神社制度なります。
天皇家か勝手に作り出した神々の神話ではなく、当時の状況、知りうる歴史を参考に
完成した物語だと思います。

天皇家の三種の神器も
・縄文時代から倭国に伝わる勾玉
・魏国から卑弥呼に贈られ、儀式に使っていた鏡
・素戔嗚が天照に渡した鉄の剣
きちんと物語になっています。

長くなりましたが、邪馬台国は九州北部で決定します。
さて、では邪馬台国は九州の何処にあったの??
次投稿で更に邪馬台国の場所を絞り込んでみましょう。