北海道の白老にある国立アイヌ民族博物館に行ってきた
気候変動の影響だと思うが、毎日暑い日が続いている。
今設計している建物の省エネ計算が終わった。建物の省エネはエネルギー消費の低減が目的だが、問題は温暖化効果ガスを減らすことのはずだ。
以前、東大のある教授に温暖化はエネルギーの使い過ぎが問題ではないかと伺ったところ、そうではなく、温暖化効果ガスが地球の熱を宇宙空間へ放出することを妨げていることが問題だと言うお話をいただいた。温暖化効果ガスの大きな部分は人類の営みに基づき排出される二酸化炭素だと思う。二酸化炭素を吸収して成長している森や草原を減らすような開発は、二酸化炭素の放出以上に問題だと思う。
二酸化炭素の回収事業も試みられているようだが、まだまだ実証実験段階のようだ。
日本でできそうな事はなんだろうか?
お米の栽培を二酸化炭素の吸収と考えればもう少しできることがあるのではないかと思う。国立環境研究所の研究では、草の吸収した二酸化炭素の多くの部分が根っこや地下茎として蓄積されているそうだ。地下部分は地上部分の5倍の炭素を蓄積しているということなので、収穫後に根っこを掘り出して燃料にすれば二酸化炭素の回収だけでなくカーボンオフセットエネルギー源としても使えるはずで、温暖化対策に二重の意味で有効なのではないだろうか。
農業的には根っこを土の中に鋤き込んできたことを考えると問題があるのかもしれないが、問題をクリアにできる技術開発が可能であれば進めていただきたいものだがどうだろう?
今朝の新聞で、生成形Aiで新聞などから記事などコンテンツを取り出して自分のサイトに表示させている会社の記事があったが、著作権、利用権、記事使用料など考えていなかったらしい
Aiの知識はあったかもしれないが、社会人としての常識はなかったのだろう
専門家の行動にたびたび見られるこのような事態は、高校教育や大学教育に原因があるのではないかと考えているがどうだろう?
大学のカリキュラムは専門課程重視で、一般教養は手薄だと感じているがこの問題はどの分野も共通しているのだろうか?
建築に関しては自分の大学時代は昔過ぎて参考にならないが、一般教養は第1第2外国語、哲学、倫理学、経済学、法学、数学、物理学、化学などがあり自分は、哲学、倫理学、法学、数学をとった
しかし、進級に必要な一般教養の単位数はそんなに取る必要はなく最低限で済ませる学生が多かったと記憶している
しかし、このような報道を見ると倫理学、法学は最低限履修することを進級の条件にすることが必要ではないだろうか?
去年来、急速に脚光を浴びる生成系Aiだが、日本では教育産業が小学生向けサービスを始めたりして、どうも前のめりになっていると感じる
色々な情報を集約してそれらしい文章や画像を生成するが、今までの検索エンジンと同様にそれが正解か?あるいは著作権を侵害していないか?などはわからない
今日は私の卒業した小学校の周年式典に出席したが、PTA会長があいさつの冒頭で「あいさつ文」を読み上げた後でそれが Aiが作成した文章であることを明かし、その後でご自分のあいさつを披露した
時宜に即した面白いものだったが、聞いていて学校の設立年を間違えていることに気がついた
終わった後で控え室で会長にそれを指摘すると気がつかなかったというのでみんなで大笑いになった
これは調べれば誰にでもすぐにわかる間違いだが、専門的なことなどになると意見の相違や環境バイアスでどれが正解か微妙になる問題もあるだろう
それらの間違いや問題を誰がどのようにして使った人間に知らせることができるだろうか?
検索エンジンでは検索者の希望に沿って関連情報を選り分けて表示することで、本人は本当は見たい周辺情報を見ることができないことになっている
SNSで同意見の人が独自の世界を作って問題を先鋭化することが様々な問題を引き起こしていることは参考になる
生成系Aiは便利なのは間違いないが、開発に携わるエンジニアたちが将来社会に及ぼす様々な危険性について言及していることに留意が必要だ
教育現場では利活用や子供の利用指導について悩んでいる教師も多いだろうし、国家レベルや自治体での指針を待つことなく自分たちで専門家などに意見を聞くなどする機会があればいいと思う
当面は小学校はもちろん中学校までは利用を制限し、批判的視野を持てる高校生くらいからにすることが適切と考えている
今年はずいぶん早く暑くなり始めた
天気予報の「例年」は今の若い人向けで、我々年寄りには「今までの気候」と比べれば明らかに「異常」だ
そんなことが関係しているのかはっきりしないが、レモンの花芽がたくさんついて3、4輪もう咲いていい香りを振りまいている
よく見るとアゲハの幼虫が葉っぱについていてどうしようか考えたが、少しは食われてもいいかと思いそのままにしておいた
今年の夏がどんな夏になるのかわからないが温暖化対策の先送りが心配だ
今年は古希という人生の区切りの年齢で幕を開けたので、しばらく私の建築について振り返って見ようと思う。初めにちょっと変わったところから。
私は人間性豊かな集住体という研究会を主宰していた時期がある。
そこで議論したかったのは、建築が街になっていく要素、街になるために必要なことはなんなのか?ということで、突き詰めて言えば建築の集合体はどのようにして街になるのか?ということ。
そこでの結論は建築が集まっているだけではダメで、建築に個性が反映されていて、かつそこにコミュニケーションが生まれ、「人間的コミュニティを形成できるか」どうかという点にあるということで、どのようにすればそれを実現できるか?が課題だった。
そこで実践的にそれを実現すべく、研究会メンバー数人が核となり、あるところでコーポラティブハウスを企画、建設、運営支援まで行い、コミュニティの創出を計画することとなった。コーポラティブハウスを選んだのは、家づくりの各段階から共同で話し合いをして完成後の住まい方の方向性を共有できると考えたからだった。
その際、研究会でコミュニティについて話し合っていた「ズカズカベタベタはダメ」というベースを守りつつ、共有の何かをコミュニティの核になる何かが必要と考えていた。研究会のメンバーの一人が「農ある暮らし」というコンセプトを提案し、中庭に農園を作りそれを囲んで住戸が配置される形式でコミュニケーションを誘発することを考えた。
このコーポラティブハウスが実現した背景や手法の概要は建築学会で発表したが、かいつまんで言えば、「定期借地権方式」「借地権終了時買取特約」「スケルトンアンドインフィル方式による自由設計」「農ある暮らしという明確なコンセプト」と言える。
元は農地だったところなので、農地転用など法的な解決も必要だったが、各方面の協力を得て無事実現できた上、出来上がった後が素晴らしかった。
4軒の参加者たちは土地の段階から共同でことに臨み、定期借地契約、融資、設計、施工段階と進めてきたこともあり、完成後には農園クラブを作り、4季に応じたお祭りを行なっている。さらには近隣の方々にも農園に参加していただけるような活動を展開した。これはコミュニティの卵を育てていることと言える。
これからもこの人たちを暖かく見守っていきたい。
例年たくさんの花が咲くけどなかなか実が大きくならないレモンの木に4個の大きな実が残っている
オザキフラワーパークの会長さんから肥料が足りないのではというアドバイスをいただいたので、それからせっせと肥料の追加をしてきた甲斐があったようで感謝!
やはりプロは違うと思う
だんだん黄色くなってきていて目立つようになり収穫を楽しみにしている
2008年に「真のプロフェッショナルの受難」という記事を書いた
「それにしても、耐震偽造事件以降の法改正の動きは何か変だ
現時点で頼りになる老練なプロフェッショナルを切り捨てるような結果になっている
実力のない資格だけの稚拙なえせプロフェッショナルばかりになっては、誰をたよりに設備設計をすればいいのかとまどうばかりだ
問題が社会に重大な影響を与えないうちに見直しを希望してやまない」
それから14年が経とうとしているが、建築設計者のうちの電気設計のプロフェッショナルはだんだんいなくなってきて、まさに風前の灯となっているのではないかと危惧している
ご存知ではない方も多いと思うので事情を説明すると、建築設備の設計者は規模に応じて設備一級建築士という資格を取らないと仕事ができないことになったが、設備設計のうちの電気の設計者は建築系の大学を出た方はほとんどなく、一級建築士を受験できないしできたとしても構造計算など専門外でまず合格できない
対して空調や給排水などの設計者は建築系の大学に研究室がたくさんあるので構造もあるカリキュラムから考えて、空調や給排水の設備設計者は合格可能な方が大勢存在する
電気設計は明らかに建築系のカリキュラムから外れていいて、今いる電気設計のプロフェッショナルは当たり前だが電気系の学校を出ている方がほとんどだ
そのため、電気設計者は空調や給排水が専門の設備一級建築士の下請け的な立場に置かれているのが実情である
この人たちを「設備一級建築士という資格」が取れないことで差別していいのだろうか?電気設計の能力に構造計算は必要なはずがないのに制度は今だに改善されていないことに苛立ちを覚えるのは私だけでないはずだ
このままだと、能力のある電気設計者の技能が伝承されずに建築設計界で大きな問題になるはずで、至急プロフェッショナルを守る資格を作るべきだ
設備一級建築士制度を作った人には見えないかもしれないが、空調設備や給排水設備設計と電気設備設計の分野は全く違うことを認識しなくてはいけないと思う
今からでも遅くないので、至急建築の電気設備設計資格を別途に新設することを願う
「建築電気設備設計士」でどうか?
2022年10月11日から全国規模での旅行業支援策が始まると発表された。以前のGoToトラベル事業もそうだったが、旅行業社経由で予約される宿泊や移動に対する補助施策で、個人が自由に自分のルートで好きな宿泊先を選んで組み立てるような旅行には適用されない。旅行業社偏重というイメージだ。
個人の申請を認めると事務的に煩雑になることは理解できる。ただ補助の仕組みや補助金の流れを工夫すれば可能になるはずだ。困っているのは旅行業社だけではない、ホテルや旅館、交通業界も困っている。それであれば、ホテルや旅館、交通業界に直接お金が流れるルートも用意すれば皆ハッピーになれるのではないか?
そもそも旅行会社経由の補助政策はいいことなのだろうか?いくら日本人が団体旅行よろしく旗の後ろについて回るような旅行が好きだと言っても、旅行会社経由しか認めないのは世界の人たちから見ると「自立能力のない日本人」とみられているのではないだろうか?そうだとすれば恥ずかしい限りである。
日本でも「プロフェッショナル」という言葉はよく使われているが、一般的には「素人とプロ」のように高度な技術的能力を発揮することと捉えられているだろう
しかし、そもそもは「神への宣誓」というような意味だという。
現代に当てはめるとどうなるか?
クライアント(依頼主)に対して「利益相反」がない状態で仕事をすると宣誓をした専門家というところだろうか?
日本でクライアントが、プロフェッショナルに対し、この「利益相反」をどのくらい重視しているか、あるいは気にしていないか?を考えてみることは興味深いことだと思う。存外あまり気にしない、意識しないクライアントが多いのではないだろうか?
対して、アメリカでは公職につく行政マンが事前の身元調査で「利益相反」を徹底的に調べられるという。関連する分野で「利益相反」が認められる人間は公職につくことができない。なぜか?当然、違法な利益誘導や供与、便宜などの懸念があるからだろう。
疑わしきは「初めから制限する」べきというのが彼の地の常識だが、日本ではどうか?
昨今の五輪疑惑を見ても、性善説が強く意識されていて「人を信用する」ことが和となり善となる世界で、悪い人間はやりたい放題やっているのではないかと思うと悲しくなる。
もちろん良い人間には関係のない世界だと思うが、問題が起きてからどうこうするより問題が起きないような仕組みを整えるのが上策と思う。
建築設計における「利益相反」とはどういう状況を指すだろうか?例えば建売住宅を考えてみるとわかりやすいだろう。
設計者は誰に雇われているか?を考えるのがいい視点となる。建売業が儲かるのは儲かるような仕組みで商売をしているからである。「どうすれば儲かるか?」が先にあって、購買者の利益が後になる。見た目は良くて安くできる、それは雇われる設計者の「腕」と言われる。工事の手抜きとは違う、ミニマムスペック(必要な技術的な仕様を最低限にすること)による利益増大手法だ。さらに法的に工事をチェックすべき設計者が雇い主のいいなりになり、指摘すべきことを言わないことも散見される。
そこには厳然としたクライアントに対する「利益相反」状況がある。
これを法的に看過しているのが日本の現実であり、多くの人は知らぬ間に安物買いの銭失いをしている。そして往往にして新聞沙汰になるような悪質工事が起き、それに引っかかることとなる。
日本人は昔はクライアントを大切に考え、信頼のもとに働くプロフェッショナルをもっと大切にして社会的に認めてきたはずだ。
私の職域である建築設計事務所、建築家はそれが大切であることを社会にもっとアピールするべきだと思う。
今こそ何が正解なのか?誰のいうことが本当に自分や社会の利益を守ることになるのか?を見極める審理眼を育てて行く必要があるのではないだろうか?