だいぶ前(私が18才の頃)ですが「声に出して読みたい日本語」という本で大ベストセラーになった書籍があります。当時早速購入し、今でも2日にいっぺんぐらいは見返して読んでみたり声に出して読んでみたり眺めたり、CD付なので朗読を聴いてみたりしています。
声は俳優の小林薫さんと元NHKアナウンサーの平野啓子さんなので声もしっとり落ち着いててとてもいいのです。
特に最近は大地震があってからなんとなく気持ちが落ち込んだり、心が塞ぐような雰囲気がテレビから、街中から、人の中からあふれているようでどうもどんよりしているような感じがしています。そういう気持ち「ばかり」ではなく、少しずつ上昇しよう、という気持ちもそこここに見受けられるのですがじっとりと下地が濡れていて生乾きな感じもやはりするのです。
地震でなくても、私はなぜかそういう時いつもこの本を開いて元気の出る文章を読んでみます。
今朝はかなり長いこと色々な文章を探していました。
「不識庵機山を撃つの図に題す」頼山陽
鞭声粛々夜河を過る
暁に見る千兵の大牙を擁するを
遺恨なり十年一剣を磨く
流星光底長蛇を逸す
「静夜思」李白
牀前 月光を看る
疑うらくは是れ地上の霜かと
頭を挙げて山月を望み
頭を低れて故郷を思う
「日本書紀」(巻第一)
古に天地未だ剖れず、陰陽分れず、渾沌にして鶏子の如く、
溟にして牙を含めり。其の清陽なる者は、薄靡きて天に為り、
重濁なる者は、淹滞りて地に為るに及りて、精妙の合傅すること易く、
重濁の凝竭すること難し。故、天先づ成りて地後に定まる。然して後に神聖其の中に生れり。
もちろん振り仮名がないと読めませんが、これを声に出して読んでいるとなんか落ち着くんですよね。
あとこの本を読んでいるときは必ず「平家物語」の祇園精舎を暗唱します。
これはなぜか「暗唱できるようにしたい!」と強く思い、必死に覚えたものです。
祇園精舎の鐘の声・・から「心も詞も及ばれね。」まで全部覚えました。
「平家物語」
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高・漢の王莽・梁の周伊・唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にもしたがはず、
楽みをきはめ、諌めをも思ひいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民間の愁うる所を知らざッしかば、
久しからずして、亡じにし者どもなり。
近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、是等はおごれる心もたけき事も、
皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道前の太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、
伝え承るこそ、心も詞も及ばれね。
不思議とこうして昔の言葉を何度も反復しているうちによどんでいた気持ちがすーっと晴れていくような感覚になります。
日本語の美しさや響きの不思議な力がそうさせるのかもしれません。
声は俳優の小林薫さんと元NHKアナウンサーの平野啓子さんなので声もしっとり落ち着いててとてもいいのです。
特に最近は大地震があってからなんとなく気持ちが落ち込んだり、心が塞ぐような雰囲気がテレビから、街中から、人の中からあふれているようでどうもどんよりしているような感じがしています。そういう気持ち「ばかり」ではなく、少しずつ上昇しよう、という気持ちもそこここに見受けられるのですがじっとりと下地が濡れていて生乾きな感じもやはりするのです。
地震でなくても、私はなぜかそういう時いつもこの本を開いて元気の出る文章を読んでみます。
今朝はかなり長いこと色々な文章を探していました。
「不識庵機山を撃つの図に題す」頼山陽
鞭声粛々夜河を過る
暁に見る千兵の大牙を擁するを
遺恨なり十年一剣を磨く
流星光底長蛇を逸す
「静夜思」李白
牀前 月光を看る
疑うらくは是れ地上の霜かと
頭を挙げて山月を望み
頭を低れて故郷を思う
「日本書紀」(巻第一)
古に天地未だ剖れず、陰陽分れず、渾沌にして鶏子の如く、
溟にして牙を含めり。其の清陽なる者は、薄靡きて天に為り、
重濁なる者は、淹滞りて地に為るに及りて、精妙の合傅すること易く、
重濁の凝竭すること難し。故、天先づ成りて地後に定まる。然して後に神聖其の中に生れり。
もちろん振り仮名がないと読めませんが、これを声に出して読んでいるとなんか落ち着くんですよね。
あとこの本を読んでいるときは必ず「平家物語」の祇園精舎を暗唱します。
これはなぜか「暗唱できるようにしたい!」と強く思い、必死に覚えたものです。
祇園精舎の鐘の声・・から「心も詞も及ばれね。」まで全部覚えました。
「平家物語」
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高・漢の王莽・梁の周伊・唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にもしたがはず、
楽みをきはめ、諌めをも思ひいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民間の愁うる所を知らざッしかば、
久しからずして、亡じにし者どもなり。
近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、是等はおごれる心もたけき事も、
皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道前の太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、
伝え承るこそ、心も詞も及ばれね。
不思議とこうして昔の言葉を何度も反復しているうちによどんでいた気持ちがすーっと晴れていくような感覚になります。
日本語の美しさや響きの不思議な力がそうさせるのかもしれません。