どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

今日もなんだかなぁ

2017-06-19 01:08:41 | 日記

 

土日も仕事をしていると、少し嫌になる。隙をみて泳ぎに行こうと思っていたのだが結局やめにした。やっぱり総合プールが大会で一般公開していないと、山の上のゆぴあすになってしまう。それだけでかなり億劫になってしまう。山の上というのはあるが、移動時間が往復30分余計にかかるというのが大きい。

最近時間の使い方がうまくできなくなってきている。なので余計な時間がかかることはしたくない。しかしだ、間の余計な時間を潰すことがどうも難しいのだ。疲れているのだろうが、それにしても腰が重い。気がかりなことが多すぎるからだろうか、それともボケが始まっているのだろうか。

 

 

まあ最近イライラさせられることが多いから。

やっぱりどうなのかと思うのは、加計学園問題で文科省が教育制度とそのアウトプットの把握をしていなかったということが出てきた。獣医は公衆衛生分野で必要な分野だが、その人数が足りていないという実情があったと思う。公衆衛生でも屠畜場での検査は獣医資格が必要だ。新薬の検査でも動物実験があるため獣医資格が必要だ。そして産業医、つまり牛などの大動物の医師のなり手にも問題がある。あれは激務だからな。いや獣医は基本的に激務だが、それだったら華やかでお金が稼げそうな分野に魅力があるわけで、それは人の医者も変わらない。

ただ面白いのは人間の医者もそうだが、人の個性によっていろんなジャンルがあるというのは、とてもいいことだ。

だが、その意味で獣医は足りないというのが現場の認識だった。それが20年間既存の獣医学科の定員増も認めたがらなかったのが文科省だ。なぜかといえば実態調査ができなかったからだと思う。なので獣医師学会からの聞き取りの情報が根拠になっていた。

加計学園問題では、経産省に押し切られてしまったのは、その実態を知らなかったからという。

 

 

文科省の持っていたデーターといえば学力テストなどの計測しやすいデーターばかりだったのではないのだろうか。例えば獣医学科の卒業生の進学傾向や進路の計測はできても、その後に彼らがどのような人生を歩んだのかは全くわからないし、計測できないわけだ。各大学である程度は把握しているかもしれないが、30年後はわからないだろう。

文科省の立場は間違いなく、いまベストと思われるものを出すという立場なのだろう。だから一貫性がないが、同時に一貫性があるわけだ。世論から少し遅れるが、常に忠実だった。誰も畜産での要望を知らないから、獣医が増えないのは当たり前と思っていた。だから世の中の話題にはならなかった。そして人間の医者は、多いほうがいいはずなのに少ないのが当たり前になってしまった。

大学も留年率や授業満足度や、就職率、そして大学教育の国際認定基準などわかりやすい形で改革はしている。だがそれでも卒業後の把握はどのようにしても、30年後までゆけば確実に不可能にある。正確にいえば成功者のみが把握できる。

だが社会に有用なクリエイティビティ溢れる活力ある人材を生み出すための、PDCAサイクルというのは果たして存在するのか。

たぶんなのだが、もう実は実現している。それはゆとり以降の世代だ。使えないとかイロイロ言われているが、彼らはクリエイティブだ。

 

 

ゆとりの目指したのは多元主義だったと思う。多元主義を充実させるための評価法とかだったのだが、いまそれが「社会の目的に合わない」と言われてしまった。

PDCAサイクルを回すためには、この「目的」が重要なのだが、そこが抜けているのが教育行政でもある。なぜかといえば、日本人が求めているのは天才ではないからだ。教育は広く浅くを文科省は考えている。その中で広く深くを考えているのが現場で教材も恐ろしく進歩した。

日本人は経験を重要視する。学校での勉強はくだらないことで、それは実際に生かされることはないという考えがある。経験に裏づくことが、学問より人柄が重要だと考えている。

はっきり言ってしまえば、それでは単一の思考にしかならない。それが今だ。

天才を生みたければ「社会の目的」に合わない人材を大量に排出して、それを認める社会にならなければいけない。

今の日本の行政は、将来の人物像に関して教育に負荷をかけすぎている。多元主義と国家主義を両立させるのは、えらく難しいぞ。文科省が迷走するのは正しい姿なのだ。