どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

盛岡で「大地の歌」が聞けた

2017-06-25 23:03:14 | 日記

 

岩手バッハアンサンブルというバロックの室内楽アマチュア合奏団がある。盛岡の中でも特に腕のいい人が集まっている楽団だ。それが事もあろうにマーラーの「大地の歌」シェーンベルク原案・リーン編曲というものだ。原曲は多分世界中でどこかで毎年演奏されている。だが東京でもそんなにできる演目ではない。それの室内楽版となれば、こんなの人生に一度聞けるかどうかわからない曲だ。そもそも大地の歌そのものが意外と演奏困難。リートの技術を持ったオペラ歌手、いやワーグナー歌手が必要ではないのかと考えているほどに歌手に負荷がかかる。ドラマティックに繊細な表現をできる歌手というのは、滅多にいないのではないのかと思う。

その前に弦のポルタメント奏法が簡単にできるアマチュアオーケストラというのは、多分ないだろう。

 

 

演奏そのものは、ある意味問題があった。譜面に忠実すぎる人とか、あとロマン派の歌手に慣れていない指揮者とか、そもそもギリギリなのだが。

冒頭で泣いてしまった。あのホルンで泣いてしまった。録音で散々聞いた曲だが、リアルではああ響くのだよ。本当にそう響くのだよ。

慟哭から始まる大地の歌は、録音では無理なのではないのかと思っていたが、そのようだ。

 

 

演奏が終わり、右の人が拍手をしたが誰も拍手をしない10秒があった。そしてまばらに拍手が始まった。

私は腰を抜かしていた。呆然と手を叩くしかできなかった。ただただマーラーに圧倒されていた。圧倒的な強度の曲、それを極限まで音を少なくした室内楽版の、骨格しかない世界のマーラーなのだ。

 

 

でもなぁ、こんなチャレンジングで確実にいい演奏があるのに、お客さんが少なすぎるの悲しいな。

特に若い人が全くいなかった。「大地の歌」は年寄りにはシャレにならない曲だ。夢も希望もある人が聞けば、ものすごいロマンティックな曲なのに、なんでだろうね。確実に感動があるはずの曲に、オケや合唱関連の人たちが全くいないというのはどうかと思った。


天才を生み出すシステム

2017-06-25 01:12:06 | 日記

 

文科省が迷走しているのは、加計学院問題で将来予測などの数字を持っていないからだとわかった。未来予想ができなければ、将来に向けた立案などできない。教育行政でPDCAサイクルができないのはその長期にわたる、人の一生にわたる壮大な実験で、現実的にそれはPDCAのショートサイクルではない。国家というものから考えなければいけないのだが、国家がどうなるのかという超長期予測は、経産省が散々失敗したし、厚生労働省は人口動態から年金問題から国民健康保険まで40年前にわかっていたことを放置し続けた。そして財務相は、将来の税収減に対して増税を画策して減収を招いてきた。つまり誰も成功しなかったのだ。

文科省の迷走はゆとりから酷いものだったが、なぜ失敗したのかという理由がとても簡単だ。

日本人は経験主義であり、教育に全く力点を置いていない。もちろん家庭によっては違うが、これは間違いがない。テストの点数は気にするが子供がどんな回答をしたのかを気にする親はとても少ないだろう。本当はここが大事なのだが、それは実社会で役に立つものではないと考えている。あんなの受験テクニックでくだらないことだとすら思われている。なので大学に入ったものを、お勉強ができたのね、と暗に差別する。それでいて大学に入ったら大学のヒエラルキーに縛られてしまう。

で、どっちにしても勉強しない。大学で勉強する人はかなり変わり者だ。その変わり者が研究者になる。勉強しなかった人たちは、現実的に大学で学んだことは全く役に立たなかったと、ほとんどの人が喋るだろう。なぜ?

基礎的すぎて役に立たないというのはある。だが一番大きいのは人間関係に役に立たないということだろう。日本の緻密な社会では大学を卒業しただけでは、大人として扱われることはない。修士あたりから専門家として扱われるようになるが、それは研究室で揉まれたという修行の成果が評価される。

 

 

ゆとり教育は、余った時間を子供達が自分の興味のある分野に振り向けるようになったというのがある。なので表現系ではかなりの進歩があったと思う。だが全体での教育水準を下げてしまった嫌いがある。

だが大学はまだ人の多様性がある。地方の多様性を認めない世界からそこに入った人は、ようやく考えるということを覚える。

ゆとりの考える教育の失敗は、結果考えさせなかったからだ。そして日本の社会は緻密で、考える必要が常にない。

大学は異論を認める社会だ。日本から切り離されているとも言える。だから考えないとどうしようもない所でもある。でもそこから出てきた人は、ある意味役に立たない人物なのだ。

 

 

教育の現場では常にPDCAサイクルが回っている。その上情報共有も行われている。学科別や教科別ではかなり進んでいる。これは間違いがない。ただ先生の個性や学生の個性によって結果の濃淡が出るだけで、これは幼稚園から大学まで全く同じだと思う。

なぜ専門の教科のPDCAサイクルが進むかと言えば、教材の内容が同じだからだ。大学でも文系は最新の事例を扱うことが多いので、さらにそうなる。

だが目標は高度な知識の取得でしかない。でもそれは必要がないと誰もが思っている。

それ以上の目標、つまり文科省のどっかの審議会で出た天才を育成する大学とドメスティックな大学とを分けるという考えは成立するのだろうか。天才を入学させてきた東大は、果たして天才的な官僚を輩出して日本を変えてきたのだろうか。確かに戦前生まれの70年代まではあった。だが今はない。

 

 

天才を生むのは教育だけではない。天才を守り育てる社会が必要だ。だが天才ってだいたい変人なのだ。

変人を守り育てる教育がアウトになった今、PDCAサイクル程度で天才は作れるのだろうか。いやもっと面倒なことを言おう。量産できるのか?実は社会的な要請はそうなんだとおもう。もっとひどいことにヤンキーに寄り添う天才哲学者とか、それは社会学者ではないのかと思うが哲学者としてね、そういった人物が欲しいのだろうか。

まあ哲学が日本で一番いらない学問と言われていますがね。西洋倫理学の個人主義を右翼は嫌いますなぁ。

ここが問題なのだ。