どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

本年のまとめ4

2011-12-30 03:33:13 | インポート
民主党政権の蹉跌がはっきりした。
ただ私は、これを内部がグダグダだとか菅直人がバカだったとか鳩山が変人過ぎたとかではない。
彼らが、自分たちのマニュフェストの先にある社会について誰も理解していなかったためだろう。
本来彼らは、新しい公共と言う社会概念を持っていたはずだ。
これは市民社会の確立と言っても良いかもしれない。透明性の高く効率的な行政。市民の自由度を高めそのニーズに答えるべく国家より、地方行政に重きを置くようにするつもりだったのだろう。
新しい公共の中には、平等と公正を分けるという考えもある。たとえば土木工事などでは、公正さが必要だ。しかし今まででは本当に必要なものを、正しい手段で、透明性高く建設出来たかどうか解りにくかった。これでやり玉にあげられていたのが八ッ場ダムだった。まあ実際あそこにダムを作ったら、本当に何が起きるのかはお楽しみだ。少なくとも盛岡の四十四ダムと同じ運命をたどるだろう。
この新しい公共の概念だが、民主党の中で誰もがこれを実現させるための手法について、説明出来なかったのだ。例えば彼らは子供手当について、本当に説明出来なかった。本来彼らはベーシック・インカムを考えていたはずだ。最低所得保証だが、その上で税制上の控除を無くしてしまう事を考えていた。まあ大体これで基礎控除以上の一般控除は無くなる。多分年金や障害車年金もこの中に含まれてゆく計画だったろう。控除から給付に変えただけで行政の事務手続きが激減する事を期待している。その上で単純なシステムは平等でもある。
所得税の議論で、年収に応じて還付金がある制度を考えていたようだ。これは消費税のように確定申告出来ない税制の逆進性を大幅に緩和する。たとえば年収180万で貯金出来ないと思われる人には、消費税率10%で18万払ったと思われるから、そのうち50%返しますと言った話しだ。
ここでアパート暮らしの人と親元から通っている人とでは、悪平等なのではないのかとなる。子供手当もそうだった。だがこの議論の重要な所は、それは個人に任せる、という点なのだ。
実はここが重要だ。市民社会というものの前提が個人の自由な発言と行動で作られるということを前提にしているのだ。この給付金を悪行に使おうが何しようがかまわないのだ。これを問題にしている人の気持ちは解るが、平等という事はそういったことなのだ。
まあこの件に関しては、簡単に差し押さえが出来るとかの法整備は必要になるかもしれないが、それはそれで問題になる。個人を阻害しているからだ。
新しい公共の概念の最大のポイントは、個人だ。個人の自由だ。もちろんそこには倫理や法的なこともある。逸脱したものが問題なのであって、それ以外は自由を考えるという事だ。行政はその個人から監視されるというシステムを考えていた。
まあ民主党の全く誰もがこれらを説明出来なかった。もちろんこれには、ねじれ国会もあった。これで説明をうまく出来なくなっていたフシはある。
更には今まである法体系の中で、この考え方を貫くには法体系の大規模な変更が必要だ。その時間もなかったし、子供手当や農家の所得保証みたいに枝葉からはじまったのが失敗のきっかけだったのかもしれない。
ただ説得出来なかった政治家は、消えてゆくのだろう。
実は震災のドサクサで、あの大バカものが何かやっちゃうかと思ったのですが、まあここまで賢いとは思いませんでした。
新しい公共という考えはまったく日本にはあわないかもしれません。イギリスあたりでしょうか。もしくはキューバとか。この考えは特に誰も言ってはいませんが、ベーシック・インカムは重要項目です。
前に正義を行う資格というのを言いました。実は公正を担保するのもこういった事があります。国民に公正を担保するというためには、明らかなガイドラインが必要です。しかし例えばこれを、年収100万以下の人物には控除があり、101万の人には無いという事もあります。こういったことは単純化した方が良いのです。
公正を担保するのは、行政では煩雑な作業になります。個別のすべてを判断するのですから。ここに恣意が入る可能性もあります。これが公共事業のように長時間かかるものでは容易になるのが問題だったのですが。
民主党に同情出来るのは、自民党の過去の負債が余りにも大きすぎる事でしょう。それ以上に、現在のソブリンリスクがあります。もはや国債と言えばすべてが疑われています。このなかで返済出来る可能性だけで生きてきた日本国債ですが、ここにきて消費税なりの直接的な税収で保証せざるを得なくなっています。これは民主党に取っては不幸な事です。もはやにっちもさっちも行かなくなっています。
民主党にとってありがたいのは、新自由経済学派が今イマイチに見える事だけでしょうか。
ただ解っている事は、アメリカのティーパーティもそうですが、日本人の大部分が本質のすり替えの言葉だけで政治を決めている事かもしれません。けっしてポピュリズムだとは思っていません。ただそこからどこへ行くのかだけは誰もが解っていない事です。
震災もそうです。ここから遠くが見えた人は多いはずです。今後何とかなるのかもしれないとも思います。


私はそれでもメチャクチャ悲観的な人間なので、ここで来年の見通しを。
東北での公共事業が活発化するにつれ、西日本から差別だエコひいきだという声が起きる事。まず正しく起きる。起きて当たりまえ。このために東北の公共事業の透明性をどこまで作れるのかが、行政の課題になる。
あの、絶対起きるから。もう間違いなく。文句なしの神戸と違うから。


市民のいない事を左はもっと前に気がつくべきだった。市民と自分が同じだと勘違いしていた右翼は、気がついていたが止められなかったのだろう。
その市民が、各政党とも日本人であるという事を本当に良く解っていなかったから、こんな事になったのだろう。