高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

原宿騎士団

2005-02-08 | Weblog
私が住んでいた静雲アパートから100メートルと離れていない遊歩道に、若者達が集団で暮すコンミューンめいた建物があった。ここは現在の「Another Edition」(ユナィテッド・アローズ)の近くで、今でもどういうわけか、ヨシズのようなもので囲われて無人のまま残存している。
そこには、カメラマン、コピーライター、デザイナーの卵などフリーランスの若者がいっしょに暮していて、松山猛(たけし)さんもそのひとりだった。松山さんはお料理が上手で、私の部屋に「晩御飯のオカズに、、」と一皿届けてくれたこともあった。
みんなで食べる晩御飯に呼ばれていったことも一度や二度のことではない。

猛くん(と、当時と同じに呼ばせていただく)はフォーク・クルセーダーズの「帰っ てきたヨッパライ」や、「イムジン河」の作詞をしていた。(アグネス・チャンの「妖精の詩」も) 映画「パッチギ!」で話題の「イムジン河」も、当時は放送禁止だった。
ここにはいろんな若者が居候をしたり、出たり入ったりしていたが、京都からのミュージシャンも多かった。村八分のメンバーなどのこ とは、以前書いたとおりだ。

その頃、「装苑」とならんで秋川リサがよく表紙に登場した「服装」というファッション誌があった。
その編集長が二川昭子さんだったとき、彼女が「何か書いてみない?」といってくれた。すでにいろいろ書いていた猛くんと「レオン」のちょっと離れた席で、締め切りの原稿を書きあったりした。
「僕、もう出来たよ」「うわっ、はやーい」などと言って、まるで学校の宿題をやるみたいだった。この「服装」という雑誌はまもなく廃刊になったが、そこに載った私のつたない文章をみて、本にしてくれたのが、「大和書房」の大石さんという青年編集者だ。恥ずかしながら本のタイトルは「表参道のアリスより」で、写真は染吾郎さんが撮ってくれた。
二川昭子さんはその後「流行通信」の編集長をして、「流通」を活気づけたが、現在はサンフランシスコで自然食のレストランをしていると聞いている。

話をコンミューンにもどすと、私は彼らにとてもお世話になった。私は、青春の残酷さ、というかバカ正直さ、といいなおそうか、ある人を単刀直入な方法で裏切ってしまった。(何十年か後には、私がシコタマやられたからおあいこです)
そのバチが当たって、私は高熱をだした。私は彼らの部屋(コンミューン)で面倒をみてもらった。コピーライターのおえいちゃん(女性)は、深夜「ユアーズ」にアイスクリームや氷を買いに走ってくれた。男性陣は「原宿騎士団」なるものを結成して (ジョークもあったけど)私を護ってくれた。 3日ぐらい、高熱にうなされて、熱が38度台に下がった時、ユアーズのアイスクリームがすごくおいしく感じられた。と、同時に「生き返った!」という想いがあふれて、「そうだ、逃げる人生はよくない!」と心底思った。私は彼に会いに行き、もう一回、話をした。それがどうだったのかは今となってはわからないが、その当時は自分の気持ちにウソはないと思うだけで精いっぱいだった。

写真(撮影・染吾郎) 松山猛さんと。コンミューンの隣の建物前で。私がジーンズにつけているのは子供用サスペンダー。小さなスパンコールを自分でつけて、デヴィッド・ボウイにほめられたもの。Tシャツは男性誌「GORO」創刊の特集ページのために、約一ヶ月、西インド諸島をロケしたとき、プエルト・リコのお土産屋で買った。PUERTO RICOと読める。