バスケと人生の日々~陽のあたる場所へ

NBAと高校・大学・JBL・Wリーグバスケの話題中心に日々の雑感、バスケ戦術の記録、時に音楽・将棋について

マイアミヒートGM名将パット・ライリー~懐かしのキャリア

2011年12月17日 | NBAバスケ

            

 

     現在のパット・ライリーフォトをみつけて、驚きのあまり思い立った。

    私の記憶では1987-88シーズン、ヘッドコーチとしてレイカーズで4度目のチャンピオンシップ

    得てから、1990年代前半のニックス時代、90年代後半のマイアミヒート時代のH.コーチとしての

    イメージしかなかったから・・・白髪の品あるおじいちゃんになってる。

    90年代のライリーは、アルマーニ高級スーツ、端正な顔立ち、ベンチでもモデル並みのスタイルで

    一糸乱れぬ黒髪オールバック、厳しそうなイメージだった。

 

        (80年代バスパンは短パンだ。懐かしい~)

 

     彼のキャリアは、1981-82シーズン途中、レイカーズアシスタントコーチからヘッドコーチヘの昇格で

    始まった。NBA伝説のセンター、ジャバーと長身PGマジック・ジョンソンらを速攻主体のオフェンスチーム

    に仕上げ、80年代レイカーズの「ショータイム」を演出した。80年代後半からは、走力あるジェームズ・

    ウォージーを得てマジックのノールックパス、ディフェンス重視からの速攻で「ショータイム」の時代を築き

    あげて一世を風靡した。

     若きレイカーズ時代では、81-82、84-85、86-87、87-88の4度優勝を成し遂げた。

 

 

          <パトリック・ユーイング>

 

     1991年から95年まで、ニューヨーク・ニックスで指揮を執る。

    M・J率いるシカゴ・ブルズに何度も煮え湯を飲まされ、同じイースターンカンファレンスでは

    プレイオフで何度もやられた。ガードのJスタークスとかニューヨーカーらしくない荒ぶれ軍団との戦いは

    一触即発の肉弾戦が多かった印象が残っている。

 

    「いかにしてM・Jを止めるか」、他のチームが20,30点は仕方ないと半ばあきらめる中、

    ライリーは徹底してM・J対策をダブル・トリプルチームで止めに来た。時には無謀とも思えるオールコート

    プレスでジョーダンをいじめに来たりした。しかし、ことごとくM・Jに打破されて、コーチとして心底M・Jの

    凄さを認識した一人ではなかろうか。ジョーダンもニックスとの戦いは、ライリーとの戦いでもあると何度も

    発言している。緊張感ある真剣勝負が大好きなジョーダンは、きっとニックス戦でライリーが打ってくる

    M・Jディフェンスシフトを楽しみにしていたのではないだろうか。

     ヒートで「23番」を永久欠番にした背景が、きっとこの5年間の戦いにあると推測する。

 

 

       

 

     2005-06シーズン、記憶ある方が多いでしょう。シャック、モーニング、ペイトン、ウェイド

      マイアミチーム創立以来の初優勝!

     若きウェイドが、プレイオフ平均得点34.7、ファイナルMVPを得た爆発的活躍だった。

              

           <ウェイド>        <シャック>       <モーニング>

 

      1995年から2003年まで新生チーム「マイアミ・ヒート」を指揮する。

     誕生したばかりのチームをゼロから強くするということは、大変なことだ。

     ドラフトで大物新人をピックアップして、トレードで有能選手、ベテランを集めて

     着実に強いチームになっていたが、2005ー08年で復帰した1年目に、

     レイカーズ時代から数えて何と18年振り5度目のNBAチャンピオンシップであった。

      マイアミ・ヒートというチームのすべてに関わり、マイアミをビッグチームに作り上げた

     最大の功労者だ。2008年現場を引退してからは、ヒートの最高経営責任者として、

     現在のチーム作りにも深く関わっている。

 

      今シーズンもマイアミは、優勝候補筆頭に挙げられるチームだろうが、ライリーの

     NBA史上最も厳格な練習、選手へのスピーチのうまさ・叱責・檄・期待かけた鼓舞等々、

     NBA創設50周年で、リーグ史上最優秀監督10名の一人である采配を、今のマイアミメンバーで

     みたいと夢見る。