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将棋~脅威の羽生世代(41歳)旋風(1)棋界を席巻

2012年07月14日 | 将棋

 

 

 将棋を指すようになったのはいつの頃だったろうか?何がきっかけだったのだろうか?

 もう40年以上前の話で記憶に埋もれて思い出せない。小学3、4年生頃であったことは確かで、遊びの延長線上で同級生の誰かがやっていたからであろう。小学生の指す将棋は早い。一手に10秒もかけないから10分もあれば一局の勝負がつく。大局観や深く何手先まで読むというレベルの将棋ではなかった。ただただ直線的に攻めて局所的な争いを突破したほうが勝つことが多かった。

 重大な局面で慌てて一手指して指を離した途端、重大な間違えに気づき、「ちょっと待った!」と指し直しをする。相手が「待ったはなしだろ!」と指し直しを咎める。

 それから時は流れて90年代入った頃であろうか、新聞で「羽生善治19歳史上最年少でビッグタイトル竜王奪取」を見て稀代天才棋士「羽生善治」に興味抱くようになった。

 

 将棋界の1年は、桜咲く四月から新シーズン始まる。江戸時代から四百年超えるその沿革は、 

 江戸時代から名人は家元制の終身名人として続いていたが、1935年(昭和10年)、関根金次郎十三世名人が名人位を退位し、実力名人制に改められた。第1期名人戦は「名人決定大棋戦」と呼ばれた八段リーグ戦で2年にわたって行われ、1937年(昭和12年)に木村義雄が初代名人となった。これが将棋のタイトル戦の始まりである。

1946年(昭和21年)からは、名人戦の予選として「順位戦」のシステムが始まった。

1948年創設の「全日本選手権戦」に1950年(昭和25年)から九段のタイトル贈与がされることとなり、「九段戦」の呼び名もついた。これが史上2つ目のタイトル戦である。また、1950年度創設の「王将戦」が翌年の1951年度(昭和26年度)にタイトル戦となり、以降、タイトル戦の数が3つという時代が約10年続く。

1960年(昭和35年)に「王位戦」が始まり、タイトル戦は4つとなる。

1962年(昭和37年)に九段戦(全日本選手権戦)が「十段戦」に改称される。同年、史上初の1年度2期(前期・後期)のタイトル戦として棋聖戦が開始。以降、タイトル戦の数が5つ、年間のタイトル戦の回数が6回という時代が十余年続く。

1974年(昭和49年)に「棋王戦」が創設されて、タイトル戦は6つとなる。そして、1983年(昭和58年)には、「王座戦」がタイトル戦に昇格し、タイトル戦の数は7つとなり、年8回のタイトル戦が開催された。

1988年(昭和63年)には十段戦が発展解消して、賞金額トップの「竜王戦」が誕生。棋戦としての序列で名人戦を上回る初のタイトル戦となった。竜王のタイトルと名人のタイトルは同格である。

1995年度(平成7年度)から棋聖戦が他のタイトル戦と同じく1年度1期となり、7つのタイトル戦の開催は現在の形となる。

 

棋戦名保持者主催・協賛開始年タイトル戦(持ち時間・日数)優勝賞金
竜王戦 渡辺 明 読売新聞社 1988年 七番勝負(各8時間・2日制) 3,200万円
名人戦 森内俊之 朝日・毎日新聞社・大和証券 1937年 七番勝負(各9時間・2日制) 2,000万円
王位戦 羽生善治 新聞三社連合 1960年 七番勝負(各8時間・2日制) 1,000万円
王座戦 渡辺 明 日本経済新聞社 1983年 五番勝負(各5時間・1日制)   800万円
棋王戦 郷田真隆 共同通信社 1974年 五番勝負(各4時間・1日制)   600万円
王将戦 佐藤康光 スポニチ・毎日新聞社 1950年 七番勝負(各8時間・2日制)   300万円
棋聖戦 羽生善治 産業経済新聞社 1962年 五番勝負(各4時間・1日制) 1,700万円

 

 上記タイトル獲得記録 ( )内は挑戦回数

 1 羽生善治 81(108) 竜王6(13) 名人7(12) 棋聖11(14) 王位13(17) 王座19(20) 棋王13(16) 王将12(16)

 2 大山康晴 80(112) 1992年満69歳没

 3 中原 誠 64(91)

 4 谷川浩司 27(57)

 5 米長邦雄 19(48)

 6 佐藤康光 13(36)

 7 森内俊之 10(20)

 8 渡辺 明   9(12)

 9 加藤一二三 8(24)

10 木村義雄 8(11) 1986年満81歳没

11 升田幸三 7(23) 1991年満73歳没

 

 昭和12年から始まったタイトル戦を1回以上獲得した棋士は全部で35名しかいない。1回が8名、2回が4名、3回が4名、4回が3名、5回が3名、6回が1名とほんの一握りの棋士しかタイトルを獲得できない超実力主義の世界である。

 ちなみに、1977年4月1日付査定に基づく日本将棋連盟認定の四段昇進の順番で、いわゆるプロ棋士には棋士番号が与えられている。1977年3月以前に逝去した棋士には棋士番号はなく、物故棋士扱いとなる。

 棋士番号  1 金 易二郎 から始まり、

 棋士番号 26 大山 康晴

 棋士番号175 羽生 善治

 棋士番号287 八代  弥(18歳)

 と昭和、平成の半世紀以上の歴史でプロ棋士は287名+22名(棋士番号のない物故棋士)しか誕生していないことになる。なんという狭き門なのだろう。

 現在、四段昇進できる人数は1年間で最大4名(前期2名、後期2名)までである。奨励会というプロ棋士養成機関に入会するだけでもとんでもない難関であるのに・・・。

 東大へは毎年6,000名もの学生が入学できる。奨励会に入会できても、年齢制限28歳?までに四段昇進できる人の方がはるかに少ない。日本将棋連盟現会長の米長氏の「兄はバカだから東大へ入学した」という話しは有名である。

 

 さて、ここから本題であるが、「羽生世代」とよく言われる棋士達がいる。

 

 1969年生まれの佐藤康光、1970年生まれの羽生善治、森内俊之、藤井 猛、郷田真隆、丸山忠久、先崎 学。

 

 1990年頃から現在に至るまで、タイトル棋戦やA級順位戦は、常に「羽生世代」の棋士達が主役となっており、各年度の7タイトルの過半数を占める状態が長らく続く。その結果、タイトル獲得数3期以上(九段昇段の基準の一つ)の者が6人、永世称号を持つ者が3人(羽生、佐藤、森内 = 2011年現在)もいるという、特異な世代となっている。

 名人戦では、1994年から現在まで毎年、彼らのうちの誰かが七番勝負に登場している。羽生対森内のカードが特筆して多く、名人戦で7回(第54、61-63、66、69-70期)対戦しており、名人戦の中で2番目に多いカードとなっている。

 竜王戦は創設翌年の第2期に羽生が獲得して以来、「羽生世代」の棋士が七番勝負に登場しなかったことが、ほとんどない。第17期(2004年度)竜王戦で渡辺明が竜王を獲得して以降、05年に木村一基七段(当時)が挑戦した以外は、羽生世代の誰かが渡辺に挑戦する構図となっている。

 2004年頃までは彼らより上の世代の谷川が孤軍奮闘した。

 彼らが30代になると、逆に、若手の前に立ち塞がる壁となる。しかし、下の世代では、2004年からは彼らより一回り以上若い渡辺が、佐藤、森内、羽生らを相手にして竜王の一冠を5連覇し、初代永世竜王の資格を獲得した。

 2006年には、佐藤が棋聖5連覇で永世棋聖の称号の資格を得、2007年には、森内が名人通算5期で羽生より一歩先に永世名人の資格を得る。

 2007年頃からは、渡辺に加え、深浦康一、久保利明、木村一基もタイトル戦の舞台に多く出場するようになった。1998年度の佐藤の名人奪取以来ずっと羽生世代の複数人がタイトル保持者だったが、2008年度棋王戦で佐藤から久保が棋王を奪取したことでタイトル保持者が羽生四冠(名人・棋聖・王座・王将)・渡辺竜王・深浦王位・久保棋王の四人となりついにそれが崩れた。そして2009年度王将戦では久保が羽生から王将を奪取し、タイトルの過半数を羽生世代以外の棋士が占めることになった。

 2011年度に入り、羽生二冠(棋聖・王座)が広瀬章人から王位を奪取。渡辺が羽生から王座を奪うものの、久保の持つ王将・棋王の座を、それぞれ佐藤康光と郷田真隆が奪還し、2年ぶりに羽生世代がタイトルを席巻した。(渡辺:竜王・王座、森内:名人、羽生:棋聖・王位、佐藤:王将、郷田:棋王)

 

 (続く)