ユーラシアの風~2010年・自転車による単独ユーラシア大陸横断記

2010年・自転車による単独ユーラシア大陸横断記

チーム肖加、中国行(2)

2010年05月29日 | 中国(2)呼市→西寧
彼はフフホトで仕事を探していた。
行った先々で短期のバイトをし、それを旅の資金にしているのだ。
ところが、フフホトで見つけた清掃員のクチは1月700元(日本円で1万円ちょっと)。
これでは割に合わないと諦めて、先に進むことにしたんだとか。

買い物や飯代は、交互に支払っていた。
これだとどうしても夕食が高くつく。 
あるとき、本音が出た。お金がないんだって。
そこで彼の提案。お会計の「AA制」。

日本の割り勘と少し違うのは、支払いのたびに割るのではなく、
どちらかが払っておいて、夜に出費を合算して差額を埋め合わせるというもの。
それもかなりのどんぶり勘定。
今のところ損してないけど、それって彼が損してるってことじゃん!
しかし細かいことは気にしない。それがルール。


○毎日毎日、浴びるように中華を食べる 笑


ある晩、少し話し込んだ。(筆談だけど)
この前きいた、「彼の理想」を、少し誤解していた。
大きな会社に入りたいんじゃなくて、自分で作りたいんだって。
前職の情報機器工場主任のキャリアもある。

いま、アメリカも中国もインドも、世界中で人々の心が不健康だと。
彼に言わせれば、抗日戦争がどうとかそういうことはもういいと。
世界はひとつじゃないかと。(英語ができないことはおいといて)
今の中国についてどう思うかも、中立との返事。
だから変えたいと。「何とかしたいんだ!」という彼の目は輝く。

あぁ、これだなぁ、と思った。
自分に無いもの、というか、どっかに置き忘れてきたもの。
ビッグになって、おれがこの世の中を良くしていきたいんだっていう意識。
こういうやつがゴロゴロいるなら、今ある矛盾も少しずつ解きながら、
この国は伸びていくんだろう。



○消印ゲット。
 田舎の郵政局では、自転車で来たことを称えて、
 ポストカードセットをくれたりする。


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チーム肖加、中国行

2010年05月28日 | 中国(2)呼市→西寧
10時5分。待ち合わせ場所の大学正門に、少し遅れで着いた。
笑顔で駆け寄り、握手を交わす。
今日から青海湖まで、約3週間の「チーム肖加」再結成だ。
しかし、彼の自転車が見当たらない。宿においてきたとか。
表で待ってろというからすぐなのかと思ったら、全然出てこない。
それもそのはず、今から準備するらしい。待ち合わせた意味ないじゃん!

…まぁ、そういう細かい段取りは気にしないのが俺達流!…ということにして、
11時、いざ銀川に向けて出発!


私が思うに、彼の自転車に対する知識の乏しさは、致命的だ。
ギヤの使い方、走行テクニック、オイルの意味と指す場所等々、全然分かっていない。
これではかなり疲れるはずだが、兵役上がりのバカ力で無理やりカバーしている。

そして、彼の荷物の重さときたら、半端じゃない。
肩に背負っているザックは、バックパッカーのもののように数10キロはあるだろう。
なのにサイドバック4つに加え、キャリアの上には、それ自体が思い金属ケースに
食料満載。
案の定、パッキングが雑なのでいろんなものを良く落とす。
後ろを走っているときは拾ってあげられるけど、そうじゃないときはどうすんだ。
でも、走行中ゴミもよく捨てるからややこしい。




彼は、意外に話しかけてくる中国人に対して素っ気ない。
けど、集めてる郵政局のスタンプがもらえると上機嫌♪
ちなみに、こちらに向かって話しかけてくるときはテンション高め。
「ラー、ラー!○※■∵△◆…」
でも全部中国語。わかんねぇって言ってるのに中国語。
(大事なときは筆談をしています)

とはいえ、二人の速度差がかなりあるので、一緒にいるのは食事と宿くらい。
食事のときは、二人ともがっついているので、ものすごく静か。
店員がちょっかいだしてきてもう相変わらず無愛想。
相手してくれ!

で、よく聞いてると肖も店員も、発音が勉強用のCDと全く違う。
会話が盛り上がらないのは、これが原因なのかもしれない。



○農村地帯を西へ西へとひた走る



○美岱召という古刹で会った高校生。
 「チーズ」は、撮る側だけでなく、撮られる側も発声する。


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すべて、つながっている(植林ツアー2)

2010年05月27日 | 中国(1)天津→呼市
今回のプロジェクトに使う日本の資金は、「カーボンオフセット」というものだ。
自分たちが仕事や私生活で出した二酸化炭素を、
植林などの活動を支援することで吸収・相殺しようという考え方。
欧米人の結婚式でそんなこと掲げてる人見ますよね。
日本の年賀状にもそんなものがあったっけ。

朝克さんたちは、その「吸収側」の現場にいるわけだ。

しかし、4万本と言えど相手は自然。当たり前だが何割かは枯死する。
おまけにひどい乾燥地帯。3ヶ月雨が降らないこともざら。
ところが、4万本は契約らしく、100%を要求されるらしい。
自分もいちサラリーマン。寸分たがわぬ数字を要求する気は分からなくはない。
しかし、この現実を見ると、途方もない。

ここも、木を植えることが地元の振興に結びついているうちはいい。
今は灌漑設備の整備や、管理にお金が出ている。
これらの木が大きくなったとき、住民の貧しさが解消されていなければ、
50年前と同じ結果が待っているのは想像に難くない。、

援助対象のカラマツなど以外に、自己資金で収入に結びつくアンズを植えたり、
村人の信頼を得ようと足繁く通い奔走している朝克さん。

「途上国での植林に役立てています」なんていうクレジットだけ見ても、
決して想像できない現場がここに広がっている。


この日は、資材の搬入とホースを埋める穴掘りのつづき。
お手伝いを申し出た。

朝から大量のホースとタンク、70キロ近い重さのポンプをトラックに積み込む。
手を貸すも中国語が分からず、なんとなく邪魔しているような気もする。
ポンプはあまりの重さにギブアップ。変わってもらう。
穴掘りも、現地の人たちのスピードは半端じゃない。
コツをつかんだころにはもう夕方。



○ホースを引っ張るために、山の上まで900m穴を掘る。


フフホトに来て、あっという間に一週間が過ぎてしまった。
「地球に恩返し」なんて並大抵のことではない。
そもそも恩もクソも…私たち人間は生きているだけでそれを消費する存在。
しかし、そのペースが地球のペースを上回ると、ひずみが出る。

どうすればいいのか、ひとつの決まった答えは出ていない。
むしろ、答えはたくさんあるのだろう。
よりよい明日にむけて、汗を流す人々に出会った。

こういった活動に、偽善とか、無駄とか言う人もいる。
難しすぎて、距離を置く人もいる。
しかし、黄砂、砂漠化、カシミヤ、そしてカーボンオフセットという仕組みを通じて、
日本と内蒙古はすでにつながっている。
この事実を、知ってほしいと思う。



○大召。チベット仏教(ラマ教)のお寺。
 モンゴル族はラマ教なので、毎年ここにお参りに来るんだとか。



○突然の雨。みんなで雨宿り。本当に天気が読みづらい。

明日からは、フフホトに別れを告げて、回族(イスラム教徒)の街・銀川に向かいます。

森をよみがえらせる現場(植林ツアー)

2010年05月25日 | 中国(1)天津→呼市
烏蘭察布市郊外、卓資県旗下菅鎮からさらに外れた村。
今日はここのプロジェクトに同行した。

4万本の森をよみがえらせよう!というのがこの地の課題。

まずは写真をご覧ください。



1950年代、この地は遊牧を生業とするモンゴル族の地で、
人間はほとんどいなかった。

奥のほうに木々が見えるだろうか。以前は森がこの谷を覆っていたそうだ。
ところが、急激に人口が増えた国内の他の地域から内蒙古へ、
政府による強制移住民政策が始まる。
無数の村が形成され、土地を開墾し、燃料として木を切った。

国の発展に伴い、過去を反省し、また予算をつける余裕が生まれ、
2000年代より、政府は開墾しすぎた畑や山を森を元に戻そうという政策
「退耕還林(たいこうかんりん)」を開始した。
そのときの補助金で植えた苗木が、足元に無数に植わっている。
ところが、木を植えるだけ植えて、アフターケアは何もなかった。
当然、家畜に芽が食べられるなどし、うまくいかない。

…というわけで、今度は日本の緑化協力の資金をもって、
仕切りなおそうというのがこのプロジェクト。

4万本の木を根付かせるために、ターゲットの範囲を絞って柵を立て、
(放牧されている家畜から芽を守るため)
簡単な灌漑設備(水をまくためのポンプと貯水池、ホース)を作ります。


しかし、ここでも否応なく見せ付けられる貧困の姿。
村人の家の中に入ると、電化製品は裸電球とテレビだけ。
水道ない。ガスもない。炊事も洗濯もカメの水。
まきを使って調理をする。
ほこりの巻き起こる土の道。時折響くヤギの鳴き声。
2010年にあってまさに、「となりのトトロ」の世界そのものだ。
しかし若い人がいない。皆快適な街へ出て行き、帰ってこない。

石炭を買うお金がないから、木を切って薪にする。
ヤギに食べさせるものがないから、植林地にも放牧する。
容赦なく襲う干ばつ。

村人を一日雇うのに約60元だそうだ。もちろん肉体労働。
以前、このブログに物価が安くてパラダイス!と呑気に書いた自分を恥じる。



○羊は、村人に貴重な現金収入をもたらす。



○村人が、昼ご飯を振舞ってくれた。

黄砂の生まれるところにて…

2010年05月24日 | 中国(1)天津→呼市
朝克さんの運転で、車はところどころ舗装のはがれた、荒れた道をゆく。
道路の溝が深く、車が跳ねると天井に頭をぶつけそうだ。

ここはフフホト市から南西に直線距離で150キロ、オルドス市郊外のとある村。
広々とした草原の後ろに、一段高く砂丘が横たわっている。
日本に飛んでくる「黄砂」のふるさとでもある。




「つい10年前、ここまで(沙漠で)何もなかったんだ」と言われた場所には、
沙柳(さりゅう)と呼ばれる植物の茂みや、ポプラなどの木が、
しっかりと根を張っていた。




一方、去年はこんな様子じゃなかった、と嘆く箇所も。
砂漠化の魔の手は、一進一退を繰り返しているようだ。


ここオルドスは、十何年も前から有名な日本の大学教授が入って、
熱心に植林に取り組んできた地。
先日お世話になった任さんも、彼の名前を知っていた。
今では数多くの団体が、さまざまな手法で砂漠化を食い止めようとしている。
日本だけじゃない。韓国のJICAにあたる機関も入っている。




そもそも、この地は草原だった。定住して放牧と農業を始めたのは
この半世紀の間のこと。農民は貧しい。何とかして豊かになりたくて、
付加価値の高い地場産業を生み出した。
それが、私たち日本人も好んで愛用する「カシミヤ」の生産だ。

カシミヤは、カシミヤヤギの体毛からとれる繊維。
このヤギは賢く、食欲も旺盛。草を根っこから食べつくしてしまう。
ある意味、沙漠になりかけた瀕死の草原でも、彼らは生きることができる。
そして、草原の草は完全にはがされ、もともと乾燥しているこの地域は、
動く砂の波に飲み込まれていく。これが急激な砂漠化のひとつの要因だ。

地元の人たちの生活は農業と放牧である。
瀕死の草原を柵で囲って、木を植えていく作業…植林は、
ある意味彼らの生活の場を奪うことでもある。
そこから生じる摩擦もあるときく。
せっかく植えた木の芽をヤギに食べさせたり、農民自身が植えた木を切り、
薪にすることすらあると。

では、私たちがカシミヤを買わなければいいのか。答えはノーだ。
カシミヤを買わなければカシミヤの単価は下がり、ただでさえ貧しい彼らは
より多くのカシミヤを生産しなければならなくなるだろう。

朝克さんたちが考えている今の答えは、
ヤギと人と草原がバランスよく共存できる形、すなわち、多くの日本人が
パフォーマンスのようにする植林…外から高価な苗木を買ってきて、
それを何本植えたかを競う…のではなく、沙柳の様に、この地に自生し、
生育が早く、ヤギのえさにもなる植物で、沙漠化を食い止めること。
また、種や実が売れる種類の木を植えたり、畑で作る作物の品種を変えて、
農民たちの現金収入を増やすこと。
カシミヤに依存しすぎない生活をつくり、また、砂漠化を止めることが
彼ら自身の生活向上につながる仕組みをつくること。


一年にわたり走らせてもらうユーラシアの大地に、微力でも何か恩返しをしておきたい。
そんな気持ちから訪ねた沙漠・植林ツアーが始まります。



○砂漠になる前は、一面このような草原だった。
 一度砂漠化すると、食い止めることはできても
 決して元の状態には戻らない。


砂漠化の詳しいメカニズムや、日本人、現地人の活動について、
詳細はぜひ以下のホームページをご覧ください。

地球緑化クラブ
[http://www.ryokukaclub.com/]

険悪、日中草の根交流

2010年05月22日 | 中国(1)天津→呼市
夕方、ルームメイトのシンガポール人、テゥン君と共に食事に出る。
彼は英語と中国語のバイリンガル。
店の主人に、どこから来たのと問われ、彼は自分の故郷を、
そして私を日本人だと紹介した。
すると、主人はぶつぶつと、彼だけに話しかける。
他の客は、それを聞き、くすくす笑っている。
  
とても居心地の悪いディナーだった。
会話の端々に「リーベン(日本)」と聞こえた。
自分(達)のことを言っているのは、充分わかった。

食後、部屋で飲むお茶を買い、あわせて会計をした。
後で聞くと、わずかながら日本人だからと食事料金もぼられていたらしい。
(これは自分でしっかり数えていなかったのも悪いが)
一方、テゥン君も会計後にお茶を買おうとすると、主人はお金はいいと、
受け取らなかった。


外に出ると、テゥン君は少し熱っぽく英語で語った。

中国人の中でも、特に中高年の人は今も戦争のことを忘れていない。
南京であったことは、知っているだろう?
シンガポール人も、戦争を忘れることはない。
占領はシンガポールが5年、中国が15年。
大陸は、それだけ傷跡が深いのだろう。
僕をはじめ、若い人は日本人に対しニュートラルな人が多い。
どうか気を悪くしないでくれ。

後で詳しく聞いた。店の主人は、こう言っていたそうだ。
中国人は60年経ち、日本人の罪を許した。
しかし、この遺恨は、永久に消えないだろう。

どうしてそのとき(ぼられたとき)抗議してくれなかったのかと、
テゥン君に詰め寄ることなどできなかった。

テゥン君には、なんとかこう伝えた。
日本人も、戦争について学ぶ。しかし、それは十分ではない。
日本人の中でも、それぞれ理解に差がある。
これは日本人にとってとても難しい問題だ。

…なんと嘆かわしく、そして、どっちつかずな、いかにも日本人的な答えなんだ。

日本での、中国に対する歴史の総括は、右派左派、タカ派ハト派の枠組みの中で
翻弄され、結局統一的な見解などありはしない。
教科書は事実を淡々と(その事実がこちらの国での事実と食い違ってるのだが)
羅列するに過ぎない。私たちは、それをテストの点を取るために暗記するに過ぎない。
だから、彼らと論戦なんか出来るはずもなく、そもそも意見すらまとめられない。

どう処理していいか分からない、このもどかしさ。
初夏の宵。薄暗い街。生ぬるい風が、肌を伝う。


(補足)
二日後にチェックインした、中国人系アメリカ人にこのことを話したら、
「未だにそんなこと言ってんのか!もう60年も前のことじゃねぇか!!」と大笑いしていた。
「君がやったわけでもない。我々は平気でベトナムにも行くし、平気で彼らと握手するよ!」
「実は、多くの中国人は、日本人と知ってもとても親切にしてくれます」
「だろう?そんなに気にすることじゃない。」
…事実、あからさまに嫌な態度をとられたのは、先の一度だけ。
こうして記事にするとインパクトが大きいけど、
朝克さんや肖君やほかの多くの人も「気にしてないよ」と言う。

彼らのためにも、決して反中感情を煽りたくはないことを記しておきます。

内蒙古人の親切

2010年05月21日 | 中国(1)天津→呼市
相変わらずの向かい風。昼食後に肖と一旦別れ、夕方6時ころ内蒙古自治区の
区都フフホト市に入る。
モンゴル族の多い街角には、中国風の町並みに日本人そっくりの顔があふれる。

走行中、たくさんの人に声をかけられたが、電動自転車に乗ったおじさん
(任さんという)に呼び止められる。
「何か手助けすることはないか?」と聞いてきている。
ものは試しに「120元以内でLAN接続ができるホテルを探している」と答えた。
そこからが大変だった。



彼は国際賓館の清掃部長のようで、「俺について来い」と言い、激走を開始する。
いや、こちらは電動じゃないんだなー…という声も届かず、街路を爆走。
帰宅ラッシュを縫い、なんとかついていく。

15分ほどの走行の後、着いたホテルは見るからに高そうだ。
120元は無茶だな…と思っているうちに中に通され、経理部長との交渉が始まった。
服務員の何人かは日本語を知っていて片言で話しかけてくる。
会っていきなり「さようなら」
意味の分からない「日本だがお!」
そしてお決まりの「ミシミシ」…多分、反日映画の日本人兵士が「飯、飯!」とでも
言ってんだろう。

結局オーナーに電話している。このオーナーは日本語を話す。
「120元じゃウチには泊まれないから、どこか近所のホテルを案内してもらいなさい」
とのこと。言わんこっちゃない。

任さん食い下がり、経理部長も折れたが、オーナーの許可がなきゃ駄目でしょう。
結局、再び宿探しの奔走が始まる。任さんは相変わらず「おれにまかせろ!」


近所のビジネスホテルをあたる。
全国チェーンの知ってるところもあった。ここでいい!と思っているのに、
任さんはフロントと料金交渉をしてモメて帰ってくる。
「ここはダメだ!次行こう!」
次でも、その次でも同じような感じ。
大体フロントと喧嘩して帰ってくる。あぁ、こりゃ自分で探したほうが早いな…
と思うが、ここは中国・面子大国。それじゃ任さんの面子を潰してしまうので、
まかせておく。

もう8時。あたりは暗くなってきた。なぜか高架道路がネオンに彩られている。

4件目では、当地許可証がないと駄目といわれて、任さん怒り心頭。
確かにフフホトが外国人未開放地域とは聞かない。
相変わらずフロントと大激論。スタッフは一様にめんどくさそうな顔をしている。
仮に泊まれても、この雰囲気の中過ごしたくはない…。

結局ここも駄目で、なぜか裏口へ連れて行かれる。
そこを抜けた先のホテルでやっとチェックイン。
フロントのおばさんは外国人料金300元の所を中国人価格138元(約2000円)に
してやるという。
いまどき外国人料金なんて設定してんのかよ。恩着せがましく言うな。

ともあれ、部屋は値段以上に広く快適。中国一般人民の中でも、
底辺に近い環境で過ごしてきた身には過剰だ。
…で、LANは?と聞くとフロントも任さんも皆そろって苦笑い。おい。


まだ終わらない。任さんは食事に行こうという。
まぁ腹は減ってるし、いいか、と思いついて行く。
近所の割と立派なレストランに入る。

色々頼みなさいといわれる。任さんのおごりか?自腹か?
半信半疑で若干セーブしながら注文する。
近くのテーブルの別のおじさんは、日本人と知って「さようなら」と
言いながら握手を求めにくる。
いち、に、さん、し…と、じゅうまで数えた。
こっちもまけずにイー、アール、サン、スー…
ビールをおごってくれた。

任さんと筆談しながら料理を食べる。
そして任さんは全然食べない。少し怪しい。

いよいよ支払い。彼は茶でも飲んでろといい、会計へ。
そして固まっている。やっぱり。予想以上に高くて足りないんだ。

中国では、割り勘はしないので、結局80元(約1200円…
現地の物価感覚からすると1万円近い)くらい払う羽目に。
まぁ、たまには贅沢もいいけど。
でも、ヨーロッパでこうされたらたまらないけど。


長い一日が終わろうとしている。

最後の最後に、彼は日本語でいいから感謝文を書いてくれと要求してくる。
なんのこっちゃ。外国人に親切にしたら報奨制度でもあるんだろうか。
でも、彼も食事中になにやらメッセージをしたためてくれたし、
走り回ってくれたのは確かで、かつ悪気がある風でもないので、
「体に気をつけて、元気でやってね」という無難な文を書いてあげた。

内蒙古人の特質は「好客」「熱情」「誠実」
筆談のとき記した彼の言葉より。



○いくつもの丘を超えてゆく



○沿道には羊!
ほかにも牛やら犬やら猫やら、なんだかよくわからない獣や人間…
当然、柵はなく、突然道路を横断する。怖っ

中国人サイクリストに遭遇

2010年05月19日 | 中国(1)天津→呼市
天候は回復したが、この日も朝から強い向かい風。
風をさえぎるものが何も無いモンゴル高原。
かなり急な下り坂でも、漕がなければ止まってしまう。

が、そんな風に苦労しているのは自分だけではなかった。
そしてこの恨めしい向かい風こそが、出会いを導いた。
先を走っていた中国人サイクリスト・肖くんに追いついたのだ。


○彼もこの風でバテバテ


彼は広州から100日以上かけてやってきて、これから蘭州、西寧から
チベットへ入り、国内を一周するらしい。
中国は広大だから、日本一周とはスケールが違う。1年以上の長旅だ。
しばらくは抜きつ抜かれつを繰り返したが、山間に小川が流れるきれいな
草原を発見し、今夜はここで野宿しようということになった。

彼は同い年で今年26歳。仕事は辞め、資金がなくなったら行った先々で働きつつ、
旅を進めるのだという。
サイドバック4つ+フロントバックに荷物満載。自転車に乗り切らない分は
さらにバックパックに背負っている。
相当重そうなのだが、テントを張り始めて気づいた。一つ一つの道具がかさばるのだ。
テント、シュラフ、バーナー、音楽プレーヤー、どれをとってもでかい、重い。
まあ、食料を大量に運んでいるのも原因のひとつだが…。

日本で揃えてきた自分の道具たちが(それでも決して贅沢はしていないつもりだったが)
いかに優れたものだったのかということがわかった。

夕食は彼の持ち合わせの食料をご馳走になる。かなりの種類の麺と
漬物(ザーサイ)を食した。
一人じゃない夕食は、贅沢メニューではないけれど、とてもうまかった。

食後は彼のテントで話し込む(筆談だけど)
旅に出た目的、資金調達法、旅の間に成し遂げたこと…

我知道、我出来是受苦、而不是享福…
何か漢文の授業を思い出す。
まただ。あの時ちゃんとやっておけばという気持ち…英語と漢文。
両方使わなくても生きていけると思っていた。
生きてはいけるかもしれない。けれど、目の前の彼の言いたいことを、
リアルタイムで全て正確に理解してあげられないこの歯がゆさ。

でも、今彼はここにいる。そして、目を見て問いかけてくる。
表情と身振り手振りがある。
同じ鍋の飯を食った彼との「交信」は、夜更けまで続いた。





※以下、断片的な内容
・フフホトで自転車を直そうと思う。君は予定があるのかい?
→会えそうな人がいるから、尋ねてみるつもり。あと、少し休憩をする。
・青い草原は八月が見ごろらしいよ。待たないの?
→先を急ぐよ。
・じゃあ青海湖まで一緒に走らないか?
→OK、いい案だね(彼は英語はだめだがOKは通じる)(この決断をもって、
 西安には寄らない事に決定)

そして終盤、彼はこんな質問を投げかけてきた。
・君の理想はなんだい?僕は、有力な企業に所属することだと思う。
→(答えに窮する。しばらく考えて、「探している」と答える)
・僕のように明確に答えてほしいんだ。
→再度「探している」と。
日本の、自分たちの年代の若い人たちは、中国の若者からのこの質問に、
どう答えるだろう。
「日頃から考えてないわけではない。でも、答えられない」
自分のこんな気持ちに、豊かな国・日本の「病理」を見た気がした。



○特製フラッグ。サイクリストの自己主張が激しいのは万国共通?

休業日

2010年05月18日 | 中国(1)天津→呼市
朝から突風(しかも向かい風)吹き荒れるモンゴルの大地。
そして異様に寒い。晴れてると思ってたら突然雨が降り出す。
…こんな日は戦線離脱!
よくよく考えてみれば、長城に登った日以来、まともに風呂に入っていない。

昼過ぎに何とかたどり着いた烏蘭察布市・集寧の街は、大学があるせいか、
ネットカフェや安宿ばかり。
その中の、とある招待所にチェックイン。
隣には「洗浴」という期待が高まる看板。銭湯!?

…しかし、実際は風呂ではなく、シャワー屋さん。中国ではこれが一般的らしい。
ただ、個室だったのは嬉しい。ついでに洗濯もする。
そして自分の汚れのひどさに閉口。
シャツやズボンを浸けておいたタライの水が真っ黒に。
日本を自転車で旅していても、ここまでにはならないと思う。
汗と垢だけじゃない。乾燥地帯ゆえの砂埃と、精製が荒い燃料から出る
排気ガスのススだろうか。
料金は30分150円。

次にネットカフェに行く。
周囲の人に助けられながら何とか使える状態に。
しかし、ブログのアップだけがうまくいかない。
料金は1時間30円。

そしてご飯を食べる。
中国は一人前が日本の二人前くらいある。お腹一杯になるまで食べても、
庶民的な食堂なら300円を超えることはない。

そういえば昨日なんて一泊二食付き(但し風呂なし・青空トイレ)750円だった。
ここでは日本人というだけで金持ちになってしまう。
そして、広大な国土に走るべき道はどこまでも続く。
概して大食いなサイクリストにとってはほとんどパラダイスのような地だ。
物価の違いというものを改めて実感する。



○ある朝の朝食。食いきれるか!と思いながら、
日本人の性…残したくないと食べ切る。



○何かお祭り。多分道路工事の完成式典。
この後周辺道路は国道含め全て通行止め。
(自転車はお咎めなし)間もなく公安関係の車列とすれ違った。
影響で反対車線のトラックは何キロも先まで大渋滞。

…やること起こることが、いちいち半端じゃない。

内蒙古自治区に入りました。

2010年05月17日 | 中国(1)天津→呼市
宿のある河北省のはずれ、杯来県郊外の標高は1000メートルを越えている。
朝が冷える。
出発してまもなく、周囲は荒涼とした無人地帯となる。
上り坂が終わると、内蒙古(モンゴル)自治区。
国語の教科書に出てくる「スーホの白い馬」や、果てしない草原で知られるモンゴルは、
平均標高1000m以上の高原地帯。古くから遊牧民の土地で、今でも牧畜が主産業。
さて、内蒙古とその北にはモンゴルという国がある。
この2つの地域は地勢的には一緒で、外蒙古が中国の支配から独立し、
内蒙古は中国共産党の下で、自治区設立という道を歩んだだけ。

小難しい話はこの辺で。
眼前に広がるのは、果て無き山々荒れた大地、地平線です。


吹く風は冷たい。




このまま進むとフフホトの先で黄河に出会い、包頭、銀川、蘭州と進むのが
ユーラシア横断最短ルート。ただ、シルクロードの起終点とされる西安が
ルートから外れてしまいます。ここが頭の痛いところ。少し考えます。



○この日の住宿の女主人は美人

この子はやんちゃ盛りで全く言うことを聞かない。
言葉も少し喋る。柔らかい頭にほんのちょっぴり日本語を吹き込んだ。

アジアの子供の洋服は、お尻に穴が開いていてかわいい。