ユーラシアの風~2010年・自転車による単独ユーラシア大陸横断記

2010年・自転車による単独ユーラシア大陸横断記

停車住宿

2010年05月16日 | 中国(1)天津→呼市
北京を出て、宿はもっぱら停車住宿。
長距離トラックドライバーが食事をし、一夜を明かす場所だ。
安い、うまい、量多い、けど不潔…。今のところノー下痢だけど。
街道沿いの平屋建ての貧弱な建物で、主人の住居も兼ねている。
そこで働いている若い連中は、それほど年も離れていない。
このまま一生いくのか、腕を磨いたらどっかで自分の店を持つのだろうか。

先に床に就いた。今日の宿は従業員と客が同じ部屋。
勤務が終わり、彼らがベッドに戻ってくる。時間は午前1時を回っていた。
汗と調味料にまみれ汚れたシャツ、青空トイレ、厨房は石炭を焚くかまど。
風呂はない。シャワーもない。たらいに水を汲んできて、体を拭いて終わり。

少し筆談をした。タバコやお菓子を次々に分けてくれる。
彼らは家族ではない。20~25歳。学校を卒業して以来ここにいる。
携帯電話は持っている。でもメールはできない。
もちろん、こちらもいろいろ聞かれた。仕事、年齢、行き先、期間…
ヨーロッパへ行くと知ると、親指を立ててグーのポーズ。

最後に、日本のことは嫌いかと聞いてみた。
笑顔で返ってきたメモには「好き」とあった。


自転車乗りの目に映る中国

2010年05月15日 | 中国(1)天津→呼市
(河北省の一般庶民版)
・日本人であることが分かっても、そんなに嫌な顔をしない。
→不思議だ。逆に日本人のほうが中国人と分かると嫌な顔するんじゃないか。
→でも、テレビ見ると普通に半日ドラマやってたりする。

・日本円の紙幣をやたら見たがる。あわよくば交換したがる。
→しかし日本円は船で使い果たした。没有(メイヨー)を連発し、諦めさせる。

・爆竹大好き。なのは知ってたが、本場の規模を体験すると忘れられない。
→一発で一分以上鳴り続ける。仕掛けた本人も驚いて耳をふさいでいる。迷惑な話だ。

・痰を吐く。とにかく吐く。
→中年以上の人はえげつない。むしろしつこい。ただ、若い人はあまりしない。

・男女交際はおおっぴらで恥じらいがない。
→北京では夫の膝枕で昼寝するおばあちゃん、交差点の真ん中で抱き合う男女、長家口では手をつないで自転車に乗るカップル(危険)…

・日曜日だろうが関係ない。仕事も一つではない。
→飯屋の兄ちゃんは、食事を作ったかと思うと、客の車を洗い、翌朝は別の職場へ出て行った。

・英語は全然通じない。
→たまにテンションの高い奴が英語になりきらない英語で絡んでくる 笑
→でもバイバイ、オーケーとSorry, I can't understand Chinese(言い終わるころには苦笑い)は大体通じる。

・全体的に、他人のことはあまり構わない。
→けど、何か意思を伝えると、何とかしようと奔走してくれる。親切なんだか、不親切なんだか。

昼飯時に、一度インテリっぽい兄ちゃんがDo you like China?
と聞いてきた。すぐにYes, that's righit! と答えると、
とても嬉しそうにThank youと。
人間同士一対一で向き合えば、こんなもんなんだろう。
少なくとも、一人旅する日本人に、この国の人は(今のところ)
とても友好的だ。
それは金を払う払わないに関係ない。先の質問にNoと答える理由が特に見当たらなかった。



○昼食で絡んできた青年ウェイくん。
「重っ!お前おかしいんじゃねぇの!?」

言葉の壁を恐れるな

2010年05月14日 | 中国(1)天津→呼市
お父さん、お母さんに、女四姉妹、一番上のお姉さん夫婦とその子供の女の子が、
だだっ広い住宿(中国式旅館)のロビーでワイワイガヤガヤ。
まるで『中国版、女だらけのサザエさん』を見ている気分だ。

言葉は相変わらず分からないが、それは相手も同じこと。
日本からの珍客を何とかもてなそうと必死だ。
自転車を一緒に運んでくれたり、明日行く張家口までの距離を調べてくれたり、
ちょっと強引にディナーに誘われたり。(きっちり料金請求されたり 笑)

ここでも次女は英語が堪能だった。

23歳。高校を出て以来ここで働いているという。
きっと彼女は優秀なのだろう。進んで通訳を買ってくれた。
そして、こんなに話せるんだ…と妙に感心してしまった。

夕食後、中国語の発音練習に付き合ってくれた。
指差し会話帳を Repeat after me 形式で交互に読んでチェックしてもらう。
日本人と違い「上手上手ー」なんてお世辞は一切なし。
ネイティブ発音をガンガン叩き込まれる。でも、きっとこれが一番効く。
明日になれば、いくつかは忘れてしまうかもしれない。
けど今は、ひとつずつでも知っている言葉を増やしていこうと思う。

いつの間にか、レッスン場のロビーには家族が集まっている。
突如起こったきょうだいげんかの中に出てくる、数字や人称くらいなら
聞き取れはじめている自分に気づいた。

先生とボーイフレンドの約束の時間をもって、教室はお開き。
「Thank you so much、謝謝!」
「You are welcome、不客気!」

この宿にして良かった。



○鳥の巣(オリンピックスタジアム)の横を通って



○万里の長城をくぐる


…うーん、贅沢だ!

フォビオくんとアキさんと

2010年05月13日 | 中国(1)天津→呼市
北京有家ユースホステルは北京で唯一、日本語人が経営している。
…と安心して行ったら、フロントのお姉さんは当然、英・中のみ。
いつものように無茶苦茶な英語でむりやりチェックイン。

ドミトリー(相部屋)のルームメイト、イタリア人のフォビオは、
5ヶ国語を操る語学の天才。我々の共通語は英語だけど、レベルが違いすぎて参る。
でも、二人っきりで自己紹介だ。知ってる構文や単語を羅列して、
何とか自分の情報を英語で吐き出す。

彼はというと、半年間の中国ビザで、中国語を学んでいる。
というか、働いている。挨拶が終わると、コンサルタントの仕事に出かけていった。
夜は夜で中国語を操り彼女とスカイプ。
イタリア男の甘いマスクから中国語がマシンガンのごとく飛び出す。
すごいというか、面白い。ギャップがありすぎる。

ディナーはちょうど帰ってきた日本人のアキさんと3人で中華。
アキさんは19年のアメリカ生活で英語ベラベラ。結局通訳のようになってくれた。
北京の食堂に中国語と英語、そして日本語が飛び交う。
不思議な旅の夜が更ける。

翌朝、フォビオは部屋から自転車を出すのを手伝ってくれた。

I respect you, Fobio.
きっと君は世界中どこでも生きていけるんだろう。
負けていられない。例えマイペースでも、前に進もう。



○天安門広場に乗り込む



○フォビオ

言葉の壁は高く険しい

2010年05月12日 | 中国(1)天津→呼市
北京に着いた。さすがに大都会。人も車もその量は京都の比ではない。

あてにしていた安宿は満室。あると思っていたユースホステルもない。
天津でトライした大学生寮をたずねるにはかなり距離がある。

この日は天津を9時に出発していた。
国道104号線は昼すぎまで強い向かい風。
思うように距離が伸びず、天安門広場へは9時前に着いた。
街は夜を迎えている。

言葉の壁を感じていた。
出る前から分かっていたが、現実になるともうお手上げだ。
何か買ったり、礼を言ったりすることはできても、
道を尋ねたり、自分の境遇を説明することは難しい。
逆に何かを尋ねられると苦笑いするのみ。
きっと助け舟を出してくれている人もいるのに、それに乗れない。
歯がゆい。悔しい。

たまに英語ができる人に出くわしても、
自分の英語力の低さに落胆…。
流暢に英語で語りかけてくれる中国の人々を目の当たりにすると、
一人のアジア人として、日本国民として、自分が不甲斐なく思える。


夜の首都北京は、日本の大都市同様、たくさんの街灯や
きらびやかなネオンに照らされ明るい。

焦りからか、最後の持ち駒のユースを探す途中、道に迷った。
助けてくれたのは日本語ができる中国の人だった。
正確な現在地と、目的地へ至る最短ルートを、
日本語と英語を交えて的確に示してくれた。

何とかチェックインし、ベットに倒れこんだ。
天津から147km、走行時間8時間以上。時計は10時を回っていた。

走行開始!

2010年05月10日 | 中国(1)天津→呼市
天津在住の日本人、Iさんのお宅でお世話になり、一夜明けると快晴。
ヘルメットも手に入れたし、昨夜も今朝も美味しいご飯をいただいた。

きっとこの先も、日本にいたら決して出会えない人の、
たくさんのご好意と力添えとともに旅を続けていくんだろう。
よーし、気合入れていきましょう!

…と思うのもつかの間、やはりそこは中国。
一筋縄ではいかない。

まず、交通ルールが違う。

右側通行だが、法律上、全ての交差点で赤信号にかかわらず
右折ができる。このためなのか?信号無視は当たり前。
よく大阪人の運転マナーをからかうときに、「青は進め、黄は急いで進め、
赤は注意して進め」…なんて言うが、からかうどころか、忠実すぎる。

そして想像を絶する土ぼこり。
襲い掛かる砂塵で時に目を開けていられない…。
ふと鼻を触ると、顔についた砂で手袋が真っ黒に。


向かい風の中、何とか踏ん張って50km強走り、天津駅に到着。

Iさんのアドバイスに従い、天津大学の招待所(宿舎)に行ってみるが、
予約がないと無理と言われる。
学生を捕まえて交渉してもらうも…130元(約1900円、ちと高い)
その前に、どっちにしても外人は無理とのこと。きっとそんなことは
ないはずで、中国語ができれば食い下がって交渉できるのに…

15時を回り、なぜか暴風が吹き荒れはじめた。
北京方向からの向かい風。ちっとも進まない。

たまたま通りがかったビジネスホテルに値段を聞くと、
130元。やっぱり高い…けど地球の歩き方に載ってるどの宿よりも
安いことは安い…。
もうちょっと安くならないか聞いてみるも、中国語でほにゃほにゃ
言われるだけで意味が分からない(いや、これは向こうは悪くないけど)

粘っても下がる気配がないので根負け。
部屋でこれを打ってる今、とりあえず中国語で簡単に
会話できるようにならねばならぬと痛感。




しゃべれない身に、カーネルおじさんの国境を越えた笑顔が沁みる…



天津駅

追い風、再び

2010年05月09日 | 中国(1)天津→呼市
それほどうまくない朝飯。
先輩旅行者との旅談義、入国カードの記入、なんだかんだで時間が過ぎるのは早い。
窓の外には韓国が見える。風は冷たい。天津は寒いのだろうか?

水は出たり出なかったり。風呂に湯は張ってない。
船員はみな中国人。アナウンスの日本語もたどたどしい。
同部屋の日本人やイギリス人はみな北京へ急ぐ。
新幹線なら30分。自転車だと2日はかかるだろう。

否応なく、中国の街にひとり放り出されるときは近い。

何とかなるさと思うのだが、何がどう何とかなるかは全く見えない。
無謀だな…と今さら思う。狭いベットで天井を見つめる。


夕食のとき、船のチェックインのときに話しかけてくれた日本人と再会した。
そう言えば、手荷物(笑)の自転車を見て、興味を示してくれていた方がいた。
短い時間で、京都を出るとき慌ててヘルメットを忘れたから、
買わなきゃいけないなんていうことを話していたんだったっけ。

事情を察して、天津新港周辺の地図で自転車用品を扱う店を教えてくれた。
また、天津市街までの行き方、地図の購入法、宿泊所のアドバイス、
中国の道路事情や交通ルールなども話題にのぼった。大変勉強になります。
そして、あろうことか、初日は家に泊めていただけるとのこと。

天津着は14時30分だし、港から市街まで60kmもあるし、
慣れない道でどう頑張っても日没までに宿にありつける保証がない。
ここはご好意に甘えることにしよう。

ちと話がうまいので、安易に人を信じるなと批判されそうだけど、
この旅は、再び追い風に吹かれ始めたようだ。




燕京号の朝食



天津が見えてきた

燕京号にて

2010年05月08日 | 中国(1)天津→呼市
神戸から天津まで2泊3日、約50時間の船旅。
国際フェリーには、日本人や中国人だけでなく、欧米人も乗っている。
割合で言うと、2:7:1くらいか。
席は2等洋室。畳一枚ぶんもない二段ベットが窮屈に並ぶ。
乗客は80人ほどらしい。船のキャパシティよりはるかに少ない。
「燕京(ヤンジン)」とは、北京の昔の名前のようだ。

日本人の旅行者が数名おり、食事などを共にする。
自転車ユーラシア横断まではともかく、初海外でという暴挙を、
なかなか告白できない。

特に年下のK君は、すでに(自転車じゃないけど)
ユーラシア横断を達成している猛者だ。
先輩方にいろいろと旅の日常を教えてもらう。

恥ずかしがっても仕方ないので、状況を説明すると、
なんだか心配させてしまった。そりゃそうだ。

朝の嵐が嘘のように穏やかだ。瀬戸内の街の灯を見て船は往く。
午前1時、関門海峡を過ぎると、不安定だった携帯電話の電波は途絶えた。
漆黒の闇に浮かぶ航跡は、船の明かりが届くところまでしか見えない。
自分と日本を結ぶ糸が、一気に細くなった気がした。

旅立ち

2010年05月08日 | 出発前
午前3時20分、起床。ロクに寝られなかった。
重い体を引きずり、負けず劣らずずっしりと重い荷物を搭載していく。
予報では、昼前にかけて寒冷前線の通過による雨。突風や落雷に注意。
早速逆風吹き荒れる波乱の旅立ちかと思われた。

午前4時7分、長いキスの後、彼女に見送られて出発。
ほどなくして弱い雨が降り出す。
関西屈指の幹線・国道171号の夜明け前は、交通もまばら。
知った道を快調に飛ばす。

淀川を左手に望むころには、周囲も明るくなってきた。
早速、ヘルメットを置いてきたことに気づく。
この自分の抜けっぷりには、我ながら先が思いやられる。
そもそもノーヘルで171号は危険すぎる。
…のは分かっていても、戻ることはできない。
神戸港まで70km強。9時には出国手続きが始まる。
悪天候の中、5時間はギリギリだ。

茨木を過ぎたころから雨脚は強まる。横を走るトラックから、
文字通りバケツをひっくり返すような水を浴びる。
汗と雨もあわせて早くも全身ズブぬれだ。

ただ、そんな嵐は、追い風でもあった。
天候悪化直前の北東からの湿った強風は、重い自転車をことごとく西へ押した。

神戸市内で、船旅の食料と靴下を調達し、
午前9時18分、神戸港国際フェリー乗り場に無事到着。
旅のスタートラインに間に合った。

午前11時、船は特にアナウンスもなく、至ってあっけなく離岸した。
見送りの人もわずか数名。雨に煙る神戸の街が遠ざかる。
甲板から父親に国内最後の連絡を入れた。

別れ

2010年05月07日 | 出発前
泣いても笑っても準備は今日まで。
時間単位ですべきことのメモを書き、こなしていく。

部屋の掃除と引き払い、住所変更、携帯電話の手続き、両替、予防接種、
不足物品の購入、知り合いへ挨拶、お守りをもらいにいく…
なんか別に今日じゃなくても良かったものがちらほらあるのは、
段取りの悪さが露呈している。3年間の社会人生活は何だったの?と
トロい自分が我ながら腹立たしい。

パッキングを終え、寝床に入ったのは午前1時を回った。
彼女の家にお世話になっている。

眠っていたけど、起きてくれた。

結婚しようと言って、ゼクシイを買ったのは去年の6月。
でも、何か苦しくて、違和感がぬぐえなくて、
そのもどかしさの原因のひとつが世界放浪だろうと気づいたのが7月。
きみの誕生日が、10日あまりに迫った、最低のタイミングだった。

それから10ヶ月。許せない、ありえない、そんな仕打ちを受ける筋合いはない
という思いから、旅を一緒に楽しもう、自分も自分の時間を充実させよう、
というところにまで気持ちを昇華してくれていたことを、枕元で囁いてくれた。

実際に、嫌味ひとつ言わず、静かに受け入れようとしてくれていた。
そして、旅が近づくにつれ寛容で、愛情に満ちた言葉と態度で
接してくれていたように思う。
いや、それは、実は旅が決まる前からそうだったのが、
改めて浮き彫りになっただけなのかもしれない。

そんなきみを置いていくという行為が、どれほど馬鹿げていて、
利己的であるのかが、ようやく分かってきたのかもしれない。

とにかく、謝るしかなかった。
そして、必ずきみの元に戻ると、そして結婚しようと誓った。

このときもらった手編みのミサンガが、今右腕に結ばれている。
こいつを、絶対きみの手でほどいてもらおう。

いつまでもおセンチ気分でいられない。
旅に出れば日本の人間関係ともしばしお別れ。
そして目の前の人々とこそ向き合うべきだということも分かる。
でも、この気持ちを忘れないで、毎日、走り出す前に思い出そうと思う。

どこまでも同じ空の下、ともに前へ進み続けよう。




…うわっ、くさ(笑)
でも正直な今の気持ち。