ユーラシアの風~2010年・自転車による単独ユーラシア大陸横断記

2010年・自転車による単独ユーラシア大陸横断記

本当にそれでいいの?

2010年10月11日 | 帰国後


カシュガルから日本へは乗り換えに次ぐ乗換え。
行く先々でオーバーチャージの件で揉めながら自転車を持ち帰る気力がなかった。

また乗れる気がした。もう二度と見れない気もした。
宿のユスフに、もし、戻ってこなかったら、この自転車は君に贈ると伝えた。
彼は、どんな手を使ってでも日本に送ると言った。
ユースの地下室で愛車に別れを告げ、空港に向かった。



現実感のないフライトだった。

カシュガルから1時間40分でウルムチ。
ウルムチから3時間20分で北京。
北京から2時間30分で名古屋。



飛んでしまうとあっけない。
飛行機は、自転車でコツコツと稼いだ距離を容赦なく巻き戻す。



それは、快適すぎる旅だった。
それは、早すぎる旅だった。
そして、それは、味気ない旅だった。



乗り換え便が即日取れなかったため、北京に滞在した。
国慶節でにぎわう街を、路線バスに揺られて眺めた。
5月の北京は、柳の木から飛ぶ綿帽子が舞っていた。中国3日目の私は、天安門や故宮、胡同の家並みやそこかしこにひしめく個人商店の佇まいなどに、逐一異国の要素を見つけ反応していた。
秋になったいま、綿帽子は消えていたが、観光客、ビジネスマン、市井の人々がひしめき合う巨大な街のエネルギーは、変わることなくそこに存在していた。しかし、5ヶ月を経て、内陸から戻ったこの目に映ったものは、高度に開発された日本の影だった。帰ってきた気がした。





北京の空港を飛び立つと、すぐに機内食の用意が始まった。
あわただしく食事をすませ、税関カードを書き、ぼんやりと映画を見ていると、耳がつんとした。早くも着陸態勢に入る。
あっけなかった。
隣のお客さん越しに、5ヶ月ぶりの日本の町の灯を見たとき、何の感傷も感慨も、心の動きもなかった。強いて挙げるのなら、虚無感だった。

カシュガルに着いたという達成感など、当に消えていた。
中央アジアへの期待と不安を交錯させていた。
体調不良の悔しさ、途中で終わる空しさ。
責めるのはただ自分のみ。取り返しのつかないことをしたという思い。
日本についてほっとする、ということもなかった。
終わった気が全然しない。でも、終わったんだ。
終わってしまったんだ。

本当に?
本当にそれでいいの?
そうするしかないの?




実家に戻って、留守中にあった出来事を聞いた。
家計のこと、仕事のこと、犬のこと、そして、この旅のこと。
自分が想像の及ばない範囲でいろんなことが起きており、そして想像もつかないような思いや言葉が交錯していたこと。
旅が家族、親戚へ与えたインパクト(破壊力?)の大きさには辟易するばかりだった。
そして、再出発の文字が霞んでいくのが手に取るように分かった。
ここでそれを押し通そうとすることの無神経さが、刺さった。



終わってしまったんだ。
やはり、一機しかないマリオだったんだ。
ゲームオーバーなんだ。

そう言い聞かせる自分と、いまだ終わった実感の乏しい自分。
ブログに頂くコメントの「いつか」や「続き」なんて、もうないんだ。
「いつか」なんて抱えたら、いつまでたっても腰が据わらない。「続き」を呑気に言い出せる状況じゃないことも分かっていた。自分と周りの人間を苦しめるだけじゃないか。やり場のない思いがこみ上げる。でも、仕方がない。受け止めるしかない。それができるのなら、私はこの旅で「変わった」と言える気がする。でも、それを、すんなりとは実行できない気もする。

本当に、まだ終わりたくないと思う。できることならあのオアシスの街から走りたい。カシュガルユースにお土産持って駆けつけたい。もう一度あの大地に抱かれて、広い空を眺めたい。
そして、大西洋を、見てみたい。



夢に犠牲はつきものなんて手垢のついた表現だが、否定できない。私が失った以上に、すり減らした以上に、消耗した家族の姿を目の当たりにしてしまった。それを再び強いてまで出かけていく横暴を働く?男なら、大人なら、勘当されてでも出て行く…というのが、大学まで行かせてもらった恩義に対する報い?
それって、夢以前に、人間として、どうよ?

夢と現実の中で、折り合いをつけて生きていくのが普通の人間の処世術。その技術の体得が、ある意味、青年と大人の一つの境目なのかもしれない。それを踏み越えることに、ビビってるだけなのかもしれない。



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