ユーラシアの風~2010年・自転車による単独ユーラシア大陸横断記

2010年・自転車による単独ユーラシア大陸横断記

本当のゴールは日本にあり(最終回)

2010年10月22日 | 帰国後
健康診断の結果、預貯金残高の状況、家庭環境、その他いろいろ考慮の結果、再出発含めた旅の続行は不可能と判断した。
判断したけど、果たしてそれでいいのか、葛藤が波のように押し寄せた。
時々、意味もなく、このままどこにも行けなくなってしまうんじゃないかと、たまらなくなった。不安定な日々を過ごした。



彼女に会いに、5ヶ月ぶりに京都へ行った。

久々の再会は、やはり少しぎこちない。
最近の仕事の様子なんかを話をして…、いや、それだけを話して、後は間ができる。


夜。少しずつお互いのスタンスを明かしていく。

旅に出たい気持ちは消えていない。でも、再び旅に出ることはもう難しい。
結局どっちとも決めあぐねて、相も変わらず悶々としていた。悶々としながら、旅はもう終わるだろう、と告げた。

彼女が、何を言っていいか分からないと言いつつ、少しずつ口を開く。


悔しいね。旅は終わってないね。

私は旅の期間を限定したつもりもないし、一時帰国を挟んでまた出発することも禁止してなんかいない。
だから、ここで泣きついて止めたり、自分の気持ちを出しすぎて、再出発をためらわすようなことはしたくない。
これは、貸しとか、借りとかじゃなくて。

私はこの旅を、認めたんだから。

私に悪いと思うことで、あなたの本当にとりたいと思う行動を変えないで。


そう言われて、こちらもいよいよなんと言っていいのか分からなくなった。
自分のことなのに、自分の気持ちを整理し切れていない状況が失礼にも思え、でも、どうすることもできないでいた。
理性的に考えたら「旅行中止」以外の選択肢はなかった。
しかし、心の中には、たとえこの身体が壊れ元に戻らなくても行ってしまいたい!という、衝動という名の魔物が暴れ狂っていた。
その魔物が、彼女の一言ひとことで少しずつ溶けて行く、そんな気分だった。
間が開き、再び彼女の言葉がゆっくりと続く。


でも、結婚したら行っちゃだめとも言ってない。

今行かず、また時機が来たら…ということではだめなのかな。
そんなことがができるんだったら、私はそのほうがいい。

あの時行っておけば…って後悔することがあって、それを事あるごとにボヤかれても、私は一生ボヤかれ続けたほうが、本当は嬉しい。


結局、自分を送り出してくれたのはこの人であり、帰るのはこの人の元。
どんなに世界広しと言えど、どんなに隅々まで探し回っても、そこまで言ってくれる人はここにしかいない。帰るところがあるからこそ旅に出られのだという事を、改めて思った。
旅は誰にでもできる。
でも、この人と出会い、ここまで日々を重ねてこられたのは自分だけ。恋人に限らず、それは自分を囲むあらゆる人に当てはまるのだけれど…


出発の日、テールライトが見えなくなるまで見送っていたときのこと。
その日一日、仕事が手につかなかったこと。
でも、一日ずつ、帰って来る日が近づいていると思い直せるようになったこと。
奴は大丈夫なんだと信じられたこと。
そんなエピソードの一つひとつが、挫折の苦しみを、無事に帰って、またこの人に会えたということに対する素直な喜びに変えていった。




もし、彼女を含め、今回の旅を見つめてくれた沢山の人たちに対して、いや、今まで一緒に過ごしてきた身の回りの多くの人たちに、感謝の意を表すならどうすべきか。何はなくとも、再び生活を切り開いていくことだと思った。働いて、生きて、家族を設けて、みんなで幸せになるために努力をする。その姿を見せることが一番のメッセージじゃないかと思った。

あの大地で、誰もがそこに向かって生きていた。あれこれ複雑なことを考えることなく、まっすぐに、純粋に、家族のために、ただ一生懸命だった。その姿が、とても「自然」に見えたんだ。その姿が、まぶしかった。理屈じゃない、思想でもない。それは、本来人間が備えている内なる望みのように思われた。幸せって、与えたり与えられたりするものじゃなく、一生懸命な毎日の中で、自分の中から自然に沸き出る感情なんだろうな、と思われた。


旅の続きをやるだけが大切なわけじゃない。
遠くへ行くだけが旅なのでもない。
再出発「できない」と考えるんなじゃなくて、また状況にあわせて考えればいいということにして。楽なほうに流れるとか、ご都合主義と捉えるのではなく、優先順位を踏まえ、考えに幅を持たせたということにして。自分を責め立て、追い込んでいくのではなく、もっと自然に、しなやかに考えてもいいんじゃないか。

旅をすることは難しい。でも、今の自分のおかれた環境や、関係を築き、得てきたことのほうが、はるかに尊い奇跡。だからこそ、時にはそれを「大切にすること」も必要。手入れしたり、温めたり、思ったりすることも必要なんだ。


卑屈にならず、前向きに、もう一度、この国で生活を組み立ててみよう。
まだ見ぬ新しい家族を作ってみよう。大切な人たちに囲まれながら!


「結婚しよう」

彼女は、ただうなずいていた。
目には、涙が光っていた。




ポルトガルへの道はまだ半ばですが、今回でブログ更新を終了します。

途中の挫折。心身へのダメージ。社会人としてのキャリア上のブランク。
この旅は、取り返せない損失を私に与えました。
それでも、旅に出たことへの後悔は1mmもない。全くない。これだけは断言できます。
途中で諦めざるを得なかった悔しさと惨めさは消えません。しかし、たとえ中国一国だけだったとしても、遠く離れた地に暮らす人々と触れ合った体験、まぶたに焼きつく絶景の数々、そして、今も肌に残るユーラシアの風の感触は、同じように消えることはありません。そして、そんな旅の空の下に出会った人の縁、考えたこと、少しは広がった視野や日本人としての意識は、何ものにも替えがたい宝です。
長く無難に生きるだけが人間の使命じゃない!自らの意思に従い、リスクを振り切り、レールを外れ、流れに逆らった経験も、そんなことできる自分のアホさもパワーも、いつか何かの糧になる。というか、しなきゃいけない。そんな奴がいたっていいじゃない。本当に何も、後悔はしていないのです。

今後は、年内を目処に親サイトへ細かい走行データ、かかった費用等を掲出します。
中国~中央ユーラシア方面に自転車旅行を計画中の方、参考にしてください。
親サイトからは直接私へメールが送れますので、質問等あればお気軽にどうぞ。
また、ブログの感想等いただけると非常にうれしく思います。

たった半年、短い間でしたがお世話になりました。
そして、ありがとうございました。またどこかで、お会いできることを願って!
再見!



~ユーラシアの風~
2010年・自転車による単独ユーラシア大陸横断記
(完)

番外編・中国に思う

2010年10月20日 | 帰国後
5ヶ月近い滞在を終えて思うのだが、中国は、到底つかみきれなかった。その中で一番心にのこるのは、意外にも人民の優しさ、素朴さだった。

正直、旅に出る前はどんなヤバい場所なんだ、とか、日本人とバレたらぶん殴られそう…なんて思っていたのだが、それは、マスコミを通してみる中国だったり、無意識に私たち日本人が持っている中国への悪いイメージとか感情などが作用したからだろう。
しかし、実際に顔をつき合わせてみると、彼らはことごとく明るく、嫌な顔などせずに迎えてくれるのだった。

当然、抗日教育やそれに類するテレビ番組もいまだにやっている。ただ、それも少し背景を学べば、共産党支配の正統性を担保するためのある種の口実、プロパガンダなのだと分かる。そして、そんな意図のもと扱われている「抗日」なのだと冷静に受け止めている人民すらいることを知った。

道中、何度か同じ宿の漢族の青年に「日本人のことをどう思うか」と尋ねた。彼らは、「国籍は問題じゃない。一人の人間として等しく接する」と即答した。私たちが同じ状況になったら、同じように返せるだろうか。どう答えるだろうか。


一方で、今回の旅は、内モンゴル、青海、新疆と、少数民族の多い地域を巡る旅でもあった。馬に乗り、羊を追うモンゴル族。高原でヤクを追うチベット族。そして、オアシスに暮らし、目鼻立ちの高いウイグル族。彼らに出会い、彼ら独自の言葉を聴き、彼らの文化に触れ、私の「中国人」というイメージは崩壊した。そして、彼らを中国人と呼ぶことに対する違和感を覚えた。国って、何なのだろうと思った。

近代国家という概念は、彼らにもともとあったものではなく、ましてや現在の国境線も、決して彼らが望んで引いたわけではない。
度重なる独立運動の背景にある中央政府の圧政、人権侵害…集会を開いたとか開いてないとかで連れてかれる、なんて時代劇みたいなことが未だに起こっている。こと新疆においては執拗な核実験や宗教儀礼への干渉、強制移住などなど…。テロや暴動にだって原因がある。背景がある。
それについて論じることも、調べることも、かの国では許されていない。ほぼ一社独占の本屋では、検閲された本以外手に入らない。インターネット上で見ることのできないページの多さには閉口した。

中国と言う国は、そういった不安定な要素を多く抱えた地域。対する日本の今の状況、環境がいかに特異なものなのか、ということを思わずにはいられない。他を知って己を知る、と言う意味においては、中国は日本を知るための絶好の学習の場だと思う。


さて、日本と中国。
最近も尖閣関係でだいぶ揉めているが、いろいろと問題の多いこの国同士の関係性、一体どうもっていくがいいのか。私ごときがあれこれ言及する立場にはないのだが、ひとつだけ。

「反日」とか「反中」とかいう戦後の悪習を、国レベルでも、市民レベルでも、いい加減打ち捨てませんか。

どんなに好き合おうが、嫌い合おうが、お互いの存在を消すことなどできないのだから、歴史関係の堂々巡りの不毛な水掛け論はさっさとやめて(中国は絶対やめない。というか、共産党政権である限りやめたくてもやめることができない。だから日本人=世論がいちいち反応する必要がない、それによって政府を困らせる必要はない、ということ)、お互いにとっての利益だけを淡々と追求する「至極ドライな関係」をさっさと築きませんか。というか、国同士の関係ってのは、それが普通じゃ?戦略的互恵関係って、わざわざ言うまでもなく、当然の形態…
だいたい、日中友好って、何?日米同盟はあっても、日米友好、日仏友好なんて言うか?国同士の関係に、友情とか感情とかそんなもの噛ませてどーする。そんな仲良しごっこみたいのを外交カードにされてどーする。アホか!

一方、それに引きずられて個人レベルでも中国人ってのは…とやる人が多いのがまた悲しい。国家と国民を同一視しないでほしい。管総理が歯切れが悪いからって、民主党が頼りないからって、日本人がみんなそうじゃないでしょ。右翼が怒って大使館に火炎瓶投げ込んだって、みんながそれを正しいと思ってないでしょ。中国共産党とか一部民衆の暴挙、暴動なんかに、国内世論はいちいち目くじら立てないでほしいと思う。中国なしでは生活が成り立たない。安い中国製品を買い叩いて、いい思いしてきたのは誰?砂漠化を進めているのは誰?お互い様だよ。いや、どっちかって言ったら、我々はずいぶん甘い汁を吸ってきたんだよ。人を憎まないでほしい。

彼らの文化は私たちのそれと『明らかに違う』のだから、いちいち言いも悪いもない。それはお互い様なのだから。理解しあったり、心通わせるなんて不可能だし、その必要性は全くない。ただ、尊重し合いさえすればいいのだ。まあ相手は中華思想だから、尊重し「合い」はあまり期待できないが。それすら尊重し、一歩前を行けばいいのだと思う。

とにかく、中国という言葉に付随するさまざまなマイナスイメージ(その正体の多くはマスコミに植えつけられたバイアス)をまずは取っ払いたい。そりゃ悪さする奴はいるが、何せ人口が多いんだから。悪いやつも多いけど、良い奴はそれこそとてつもなく多い。とにかく、程度の低いいがみあい、それ故逸失する利益が真に誰を利するのか、誰に笑われるのかということこそを、考えるべきだろう。
異質なご近所さんともうまく付き合う。本来日本人の特技じゃないか。

「今も新しい歴史が私たちの手で作られているのよ」
白銀市でであったおばさんが伝えてくれた言葉で、シメます。

旅は、終わった

2010年10月17日 | 帰国後
参加することに意義があるなんて、そんな小学校の運動会みたいなこと言いたくねぇ。
やるからには完走しか目指さない。できないなら帰らない。その先に見えるものを確かめたい…。
前回の記事の通り、それなりの覚悟を持って望んだはずだった。

そして、今ある全てを捧げた。
その結果は、周知のとおり。
何かのためになる、肥やしになると言われたって、失敗は失敗だ。
勝てない監督や選手はクビになる。
成し遂げられなかった挑戦の結果が、消えることはない。

願わくば、後進の人は、このおれの有様を見て、自分にはできないなんて絶対に思わないでほしい。
むしろ、この失敗のパターンを十分に研究して、必ず成功に結び付けてほしい。

敗因はいろいろあるが、やはり出発時点での体力の低下、コンディションの不完全さは無視できない。会社勤め慢性疲労の上に、1ヶ月のわずかな準備期間がさらに疲労を蓄積させた。慣れない環境下での肉体的、心理的ストレスは元々弱っていた身体にダメージを与え続けた。そして「絶対失敗できない」という思いがまた、心を硬直させた。
事前の準備の不足から、砂漠地帯にもかかわらず、高性能のマスクを装備するのを見落とした。これも響いた。寛平さんに会いにカザフスタンルートを取っていれば、中央アジアに進めた可能性も高い。
いまさら何を言っても遅いのだが。




残念ながら、決して感動的な言葉でこのブログを結べるような状態じゃない。
悶々とした思いが渦巻く中でのフィニッシュだ。
そこまで言うならもう一度出て行けよ、と言われても、そうもいかない事情は消せない。
出て行きたくても出て行けない。そんな状況を打ち消せない。自分には何の力もない。
この「悶々」が時間とともに薄れ、消えていくのを待つ…現実にはそんな退屈な結末も、受け入れざるを得ない時がある。これは映画でも、テレビドラマでもない。普通の人間の生活の記録だから。
夢と現実の狭間の中で、まだ夢の世界から抜け切れていない青年の嘆きで終える、この無念も「旅行記としてアリな展開」なのだろうか?どうしてこんな旅を思い立ってしまったのか、旅自体を恨めしく思う夜すらある。
中国横断したからいい…なんて、思えるわけがない。満足なわけがない。たった一つの国境すら越えられなかった不甲斐なさを思うと消えてしまいたい。絶対誇れない。おれはそんなに柔軟な人間じゃない。
でも、現実問題、この夢は食うための夢じゃない。この夢に溺れているうちは、所詮「甘えてる」と言われ続ける羽目になる。そして実際、今日も預金崩しの浮浪者でしかない。地に足が着いていない。何も生み出せていない。情けない。



この悶々とした時間が早く過ぎることをただ祈る。

この旅に続きがあるのか、それは今は全く分からない。これまでを振り返ると、身体的にも、周囲の人たちのためにも、それはあってはならないことなのかもしれない。それでも、期待を寄せてくださる意見が嬉しくない訳はない。それらは、これまでの旅やブログに対する評価として、勝手に解釈させていただこうと思う。そして、まだまだやりたいこと、行きたいところ、約束がたくさんあった。それらが果たせなかったことに対して、お詫び申し上げたい。




ユーラシアの風は、強烈だった。
それは、激流とも言うべき、多民族国家・中国の息吹だった。
それは時に心地よく、時に荒々しく、日本からの旅人を迎えた。たった一人で乗り込んでいったはずなのに、いつも誰かに囲まれていた。数え切れない出会いを運んだ。

旅は、遠く離れた場所で、鮮やかに家族や、恋人、友人との絆を浮かび上がらせた。日本では見えない関係性を見せ付けた。それは決して心地よいばかりではなかった。でも、日本にいただけでは見つけることのできない糸だった。

そして、自分の国・日本を見つめる機会となった。物事には、何か他のものを通して見たときにこそ、その輪郭が明らかになるときがある。中国と日本、その異質な隣人は、それぞれに良い部分と悪い部分を認めることができた。日本という国を、より好きになったし、嫌いにもなった。

自転車でなければ出会えない景色、人間、瞬間に満ちた旅だった。全て風任せ、自然任せ。まだ感受性も豊かな20代中盤で、こんな時間が持てた事は、幸せだった。その後の幸せを、どこに見出していくのか、何が優先されるべきなのか、何に拘っていくべきなのか、確固としたものはまだないけど、そのヒントを集めることはできたと思う。

旅は成功か失敗か。その点で言えば完全に失敗だったと思う。でも、行かなければ手に入らなかった体験は確かにある。今はそれを大切にして、生活に生かしていくこと。そして、たった5ヶ月だけど、何物にも替えがたい貴重な体験を、身の回りの人と少しずつ分かち合っていくこと。
そういう風に、時間をかけて、自分を納得させていくことが、ひとつの到達点だと言えるのではないか。

旅は、終わった。


回想(2)

2010年10月16日 | 出発前
来る日も来る日も、朝から晩遅くまで働いて、時には鼻血を出してぶっ倒れ、それでもいただけるお給料に心から感謝して、謙虚に素直に、巡り来る一日に感謝して生きていたんだ。足るを知るべしと言い聞かせ、別段贅沢もせず、コツコツとお金を貯めて、地に足つけて生きていこうと決めたんだ。そうやって得られる「安定感」が、幸せのひとつの姿だと信じて。実際、なんだかんだで不自由のない暮らしなのだから。



物心ついたころから失われた10年が始まっていたおれたちに、明るい未来なんて想像できないんだ。今より良くなっていく明日なんて、どう見繕っても、どこにも見えやしないんだ。だから、今目の前にある毎日を大切にしたいんだ。でも、それすら危うい日々の生活。
大学を出て、名もない毎日が繰り返され、職場と部屋との往復だけの暮らし。昨日何食ったかも思い出せない。まぁ、20代はそんなもんだと言い聞かせ。

そして、今の世界は良くない。世の中が良くない。地球が危ない。だから、自分のこの暮らしも仕方ない。いや、仕事があって、食いっぱぐれないだけマシな方。生きてるだけでありがたい。そんな風に思いながら過ごした。或いは、思わされていた部分も、あるかもしれない。
でも、このままで、おれは果たして彼女と幸せになれるのか?たとえ二人が幸せになれても、周りが不幸なままだったら、その幸せは長続きするの?二人が幸せであるためには、その周りにもっとでっかい幸せがなきゃいけないんじゃないの?…

そのために、おれは何ができる?
世界に対して、世の中や地球に対して、何ができる?何をしてきた?



世界が地球がって言うけども、結局そのつかみきれないモノを、見たふりをして見れていなかったのは自分。
ディスプレイの向こうに見えるのは、セカイじゃなくて画素なんじゃないの?

つーか、世界なんて飛び出して見なきゃわかんねぇだろうが。


恵まれた環境に生まれた、分別をわきまえないモラトリアムの延長戦。現実逃避。えぇーそれで結構。
所詮どこまでも凡庸ないち一般人として、おとなしく立派な社会人になるべく己の勤めを果たしてりゃいぃんだよ。そうすりゃ結婚も親子も、会社の人間関係もみんなすんなり行くんだよ。そんなの分かってんだよ。
でも、見ようと思えば見れるんだ。手を伸ばせば、届くところに世界はあるんだ。
そんな境遇にある人間は、世界の中でもごくわずか。それだけは分かってる。
おれはただ、デキるビジネスマンになる前に、胸張って「生きてる!」と叫べる人間になりたいんだ。
自分の欲求に蓋をして、夢をあきらめることを覚えさせたくないんだ。
この無機質な毎日に、無抵抗に溺れていく自分を見ているのが怖いんだ!



えぇい、開き直れ!
所詮、おれは何も持っちゃいない。あるのはただどこまでも広がっていく選択と行動の自由。それそのものが稀少で尊い「チャンス」以外の何ものでもない。たとえ後ろ指差されようが、馬鹿扱いされようが。

この旅は、現実逃避というより、現実の別の側面を照らす、別の見方を探る体験への欲望なんだ。
先を明るく見通すことのできない現実を、正面から受け止めるんじゃなくて、もっと別の捉え方が、攻め方があるんじゃないかっていう視点を磨く、チャンスなんだと思う。
だって、おれたちの知ってる世界なんてちっぽけで、きっと全体の何万分の一も分かってなくて。でも、もしかしたら、その中にこもって考えるから、暗い側面ばかりが強調されるのかもしれないじゃない。
向かってくる敵を討つために、グローバリゼーションの波に呑まれるときに、おれたちがすべきことは、今起こってることを知ること。
そして、「知る」ということは、そう簡単なことではないと思うんだ。



世界が世界はなんて屁理屈こねる前に、まず世界を見ろよ。その目で見ろよ。えらそうに働いてるフリしてんじゃねぇよ。何いっちょまえに大人になった気分でいるんだよ。人生なんてそんなもの…なんて浮かない顔して言い聞かせ、分かったつもりで凝り固まっていくのか?そのキリキリと痛むトゲを、見ないように、ごまかしながら歩むのか?歩み続けられるのか?
そんなんで結婚して子供作って、お前はその子に何を語れる?何を託せる?

この人と幸せに生きたい。
でも、このまま進むのが幸せと思えない。
その気持ちを胸に旅立つのなら、そう思う自分を信じるしかない。
きっと答えは見つからない。そんなもんはどこにも用意されていない。
旅路の果てに自分が紡ぐ言葉、踏み出していく歩みが、「とりあえずの答え」なんだ。
それで充分。旅立つ理由は、それだけで充分。

回想(1)

2010年10月15日 | 出発前
※出発前の日記から抜粋します。

旅立ち予定まであと5ヶ月。



自転車で、ユーラシア大陸を横断してやる!という思い付きを、かたちにする作業を淡々としている日々。
自転車を改造して、パスポートとって、装備品を整えて、予防接種して、語学対策をして、現地情報や歴史を勉強して、身体を鍛えて…。到底、5ヶ月では足りない。むしろ、完璧な準備を待ったら出発などできない。残り時間とやるべきことを天秤にかけて、大事なことを優先する以外に道はない。

準備をしながら、この旅がひどく中途半端なものにならないか、不安がよぎる。
ロクに喋れず、まともな健康体でもなく、この小心で、果たして本当にロカ岬までたどり着けるのか。
着いたとしても、それはいったい自分のためになるのか。何のためになるのか。



うすうす気付き始めているのは、この旅を持って何かが劇的に変わることはないだろう、ということ。
先人たちの報告や活躍は、それはもう洪水のように溢れており、実際、海外を走る日本人サイクリストなど掃いて捨てるほど存在するのであり。別に世界一周でもなけりゃ一年未満の短い旅で見ることのできる「世界」なんてたかが知れている。

ただの自己満足としていくのはたやすい。しかし、それだけのために仕事も辞めて(職場からは後に「休職」扱いとする配慮を頂きました)散財して、人間って、地球って、素晴らしいよね!なんて口走ったところで一体何がどうなるのか。
本を書くでもない。原稿を売るでもない。スポンサーをつけるでもない(後にいくつか頂けました)。つけるだけの価値をこの旅に与えられていない。このままじゃ、ただの人生の夏休みを謳歌するだけになりはしないか。
かといって、今の自分の中に何があるのか。
モノを語るだけの見識も、知識も、経験もない中で、何を発信できるというのか。



…とは言え、やってみたいことはいくつかある。
普通に暮らしてたらきっとありえない経験を手に入れる。普通の人が一生かけても出会えない風景、感じることのない風、そして交わることのない人々と、時間を分かつ。
今の日本の暮らしの中で、見えにくくなっていること、見つけていきたいこと、見出したいこと。それは、豊かな暮らしって、なんなの?といこと。人が生きていくうえで必要なもの、いらないもの。これからの地球を生きるうえで、大切にすべきこと。家族とは?仕事とは?友人とは?恋人とは?
いろんなものを見つめられる。見つけ出したい。いろんな生き方のバリエーションに、触れてみたい。
そして、それを、この国の身近な人たちに、持てる力を持って届けてみたい。

この国の限られた環境の中で考えてるだけじゃ、行き詰って前に進めない。
自分の力で走ることで見える、自分だけの体験を届けていけばいい。
それが自分なりの今を変える一歩なら、その労を惜しむことはしない。


本当にそれでいいの?

2010年10月11日 | 帰国後


カシュガルから日本へは乗り換えに次ぐ乗換え。
行く先々でオーバーチャージの件で揉めながら自転車を持ち帰る気力がなかった。

また乗れる気がした。もう二度と見れない気もした。
宿のユスフに、もし、戻ってこなかったら、この自転車は君に贈ると伝えた。
彼は、どんな手を使ってでも日本に送ると言った。
ユースの地下室で愛車に別れを告げ、空港に向かった。



現実感のないフライトだった。

カシュガルから1時間40分でウルムチ。
ウルムチから3時間20分で北京。
北京から2時間30分で名古屋。



飛んでしまうとあっけない。
飛行機は、自転車でコツコツと稼いだ距離を容赦なく巻き戻す。



それは、快適すぎる旅だった。
それは、早すぎる旅だった。
そして、それは、味気ない旅だった。



乗り換え便が即日取れなかったため、北京に滞在した。
国慶節でにぎわう街を、路線バスに揺られて眺めた。
5月の北京は、柳の木から飛ぶ綿帽子が舞っていた。中国3日目の私は、天安門や故宮、胡同の家並みやそこかしこにひしめく個人商店の佇まいなどに、逐一異国の要素を見つけ反応していた。
秋になったいま、綿帽子は消えていたが、観光客、ビジネスマン、市井の人々がひしめき合う巨大な街のエネルギーは、変わることなくそこに存在していた。しかし、5ヶ月を経て、内陸から戻ったこの目に映ったものは、高度に開発された日本の影だった。帰ってきた気がした。





北京の空港を飛び立つと、すぐに機内食の用意が始まった。
あわただしく食事をすませ、税関カードを書き、ぼんやりと映画を見ていると、耳がつんとした。早くも着陸態勢に入る。
あっけなかった。
隣のお客さん越しに、5ヶ月ぶりの日本の町の灯を見たとき、何の感傷も感慨も、心の動きもなかった。強いて挙げるのなら、虚無感だった。

カシュガルに着いたという達成感など、当に消えていた。
中央アジアへの期待と不安を交錯させていた。
体調不良の悔しさ、途中で終わる空しさ。
責めるのはただ自分のみ。取り返しのつかないことをしたという思い。
日本についてほっとする、ということもなかった。
終わった気が全然しない。でも、終わったんだ。
終わってしまったんだ。

本当に?
本当にそれでいいの?
そうするしかないの?




実家に戻って、留守中にあった出来事を聞いた。
家計のこと、仕事のこと、犬のこと、そして、この旅のこと。
自分が想像の及ばない範囲でいろんなことが起きており、そして想像もつかないような思いや言葉が交錯していたこと。
旅が家族、親戚へ与えたインパクト(破壊力?)の大きさには辟易するばかりだった。
そして、再出発の文字が霞んでいくのが手に取るように分かった。
ここでそれを押し通そうとすることの無神経さが、刺さった。



終わってしまったんだ。
やはり、一機しかないマリオだったんだ。
ゲームオーバーなんだ。

そう言い聞かせる自分と、いまだ終わった実感の乏しい自分。
ブログに頂くコメントの「いつか」や「続き」なんて、もうないんだ。
「いつか」なんて抱えたら、いつまでたっても腰が据わらない。「続き」を呑気に言い出せる状況じゃないことも分かっていた。自分と周りの人間を苦しめるだけじゃないか。やり場のない思いがこみ上げる。でも、仕方がない。受け止めるしかない。それができるのなら、私はこの旅で「変わった」と言える気がする。でも、それを、すんなりとは実行できない気もする。

本当に、まだ終わりたくないと思う。できることならあのオアシスの街から走りたい。カシュガルユースにお土産持って駆けつけたい。もう一度あの大地に抱かれて、広い空を眺めたい。
そして、大西洋を、見てみたい。



夢に犠牲はつきものなんて手垢のついた表現だが、否定できない。私が失った以上に、すり減らした以上に、消耗した家族の姿を目の当たりにしてしまった。それを再び強いてまで出かけていく横暴を働く?男なら、大人なら、勘当されてでも出て行く…というのが、大学まで行かせてもらった恩義に対する報い?
それって、夢以前に、人間として、どうよ?

夢と現実の中で、折り合いをつけて生きていくのが普通の人間の処世術。その技術の体得が、ある意味、青年と大人の一つの境目なのかもしれない。それを踏み越えることに、ビビってるだけなのかもしれない。


幕切れ(2)

2010年10月04日 | 中国(4)烏市→喀什
(前回からの続き、写真はありません)

下痢はとどまることを知らない。もはやただの水のようになっていた。
トラックに乗っているときから「脱水症状」の文字が頭をよぎっていた。とにかく、一刻も早くスポーツドリンクを探すしかない。ウイグル人の売店を見つけたが、こういうときに限ってお茶とジュースしかない。仕方がないからジュースを飲む。

スピードが出ない。一生懸命こいでも13kmがいいところ。自分の体じゃないみたいだ。でも、進むしかない。

何とか市内に入って、もうユースまで戻る気力もないから、多少値段が高くても最初に見つけたホテルにチェックインしようと決めた。
遠くに見えていたネオンサインが近づく。ホテルと思って期待していたビルは、水道局だった。だから中国のライトアップは嫌だ。もう値段交渉もせずにチェックインしようと決めた。
幸い、300mほど先にホテルは見つかった。フロントの漢族のお姉さんに、いつものように外国人は泊まれるか確認すると「可以(OK)」。値段もロクに聞かず、パスポートを渡した。9時半を過ぎていた。

部屋に入ってトイレに直行。下痢の勢いは収まらない。入りより出が多い、多すぎる。明らかに赤字。そして、震えがやってきた。危険なサインだ。病院へ行かなければならないかもしれない。貴重品だけ持ってすぐ一階へ降りる。顔から血の気が引いていくのが分かった。エレベーターの中で、は、わずかな時間なのに立っていられなかった。
ホテルの隣がスーパーだったので、なんとかスポーツ飲料を買ってきて、ロビーの椅子に腰掛けて飲もうとする。が、100ccくらいで、もう、飲めない。どうしても、入らない。震えは止まらない。あぁ…また病院へ行くしかない。

フロントで、この前行った人民病院は夜も開いているか尋ね、そして、タクシーで戻るときのためにホテルの名刺を貰った。外へ出ると同時に、吐いた。それでも少しずつ含んでいた水分を、全部、吐いた。
人目をはばかる余裕もなく、呆然とうずくまった。そして、震えが、止まった。
よろめきながらフロントに戻り、120を頼んだ。日本で言う119、救急車だ。日本でも乗ったことがないのに。そして、ロビーの椅子に倒れこむ。震えが止まったせいか、だんだん意識がはっきりしてきた。
フロント係りの人、そしてすぐやってきた救急隊の人に、全ての症状を口だけで伝えた。そんな自分に少し驚きもした。心音を聞かれ、血圧を測られ、とりあえず、病院へ行く、ということになった。車まではタンカではなく、ホテルマンの肩を借りながら歩いた。

着いた病院は、後から知ったが「中華人民武装警察部隊 新疆総隊 南疆病院」という物々しい名前。問診の後、血液検査と便検査があった。そして、ベッドの並ぶ部屋へ通され、「休みなさい」と促される。しばらくして点滴が始まった。助かった気がして安心したからか、熱が出てきた。いや、出ていたことに気づいたのかもしれない。ちなみに、中国の病院は全ての費用を前払いしないと何の処置もしてもらえないほど、支払能力を厳しくチェックされるのだが(救急患者も然り、というか、救急車ですら最初電話越しに値段を言われるらしい)、とりあえず、全てホテルが立て替えてくれているようだ。


長い夜だった。熱でだるくてなかなか眠りにつけず、朝方になってやっとウトウトしてきた。この間、看護士も医師も、頻繁に巡回に来ていた。

翌朝、兵士たちのトレーニングの声で気がづくと、カルテが枕元に置かれていた。診断は心配していた赤痢ではなく、急性胃腸炎だった。夜勤明けの看護士たちは自分たちの朝ごはんを分けて差し入れしてくれた。(マントウと野菜炒め。食っていいのか良く分からなかったが…まぁ彼女たちが持って来たんだし…)

点滴は延々20時間続いた(そんなに打って大丈夫?)。さすがに熱は下がった。昼飯も、看護士たちは自分たちのご飯を作って、それを差し入れしてくれた。同室のウイグル人のおばさんには、見舞いがたくさん来た。イスラム式のおまじないなのか?手で顔を覆って、それをゆっくり下げていく動作を、一同揃ってしていた。
ウイグル人の一行をなんだか羨ましく思いぼんやり眺めていると、しばらくして、今度はホテルの従業員団(皆漢族)が見舞いに来た。よっぽど心配だったのか、とにかく人が良いのか、よくわからないが(多分両方)素直に嬉しかった。いや、たいした会話はしていない。「良くなったか?」「はい」…その後は看護士が説明していた。そして、それだけで笑顔になって帰っていった。お金のことなんか一言も言われなかった。


夕暮れ時、点滴が終わり、「油っこいいものは食べちゃだめよ」「薬はこれを飲みなさいよ」「明日は来なくて大丈夫よ」ということで『解放』された。幼少のころ以来のプチ入院だった。ホテルまでは、看護婦さんが捕まえた通行人の女性が付き添って歩いてくれた。中国の、こういうところがすごいと思う。人間同士の距離が近い。
ホテルでは、昨日付き添ってくれたホテルマンが「良くなったか?」と言って迎えてくれた。「本当にありがとう」言うと、彼に限らず中国の人はいつもこう言う。
「礼は要らんよ!」


にほんブログ村 旅行ブログ 大陸横断・大陸縦断へ
旅行ブログ

幕切れ(1)

2010年10月02日 | 中国(4)烏市→喀什
肺炎の症状が完全に消えて1週間。
因縁のタシュクルガンへ、リベンジ&リハビリランに行った。



行きはバス。自転車を載せるのは交渉。最初は案の定駄目だと言われたが、食い下がって目の前で分解して見せたら成功。追加料金もなしにしてくれた。

前回訪れてから半月しか経っていないのに、途中4100mの峠には雪が積もっている。情報は耳にしていたので、冬物の服は買ってある。靴下だって厚めのものを捜し歩いた。
バスは途中休憩ばかりでノロノロ運転。6時間経って着いたのは夕方だった。夕暮れのタシュクルガンは気温7度。案の定、真冬の寒さだった。


翌日。宿の窓から朝日を浴びて輝く雪山が見える。天気は快晴とは言えないが、まずまず。峠を挟んで100km先の「カラクリ湖」を目指して予定通り出発した。体調のほうは、3日前からの軽い下痢が止まらないが、それは中国では日常茶飯事。現地人だってよくお腹を壊しているし、自分もそういう状態で走っていた。そして気づくと治っており、忘れたころにまたゆるくなる…そんなものだった。体は少しだるい。しかし、それは軽い高度障害(高山病)だろう。青海省でも経験済み。ゆっくり行けば大丈夫。

走り出して15km。標高3200m地点。息が上がるのが異常に早い。やはり高度障害だと思った。ゆっくり行けばいい。テントもあるし、まだ村もある。峠までは60km。足がだるいのはここ2、3日続けているカシュガル近郊のトレーニングの筋肉痛だろうか。


しかし、それらは全て油断だった。
途中、不意に便意に襲われる。大便に異常あり。ゆるすぎるのだ。水一歩手前のよう。
悪いものを食べた記憶はないのだが…あるいは、高地で体が弱っているところに、先日から続いている軽い下痢の原因菌がいよいよ本気になって暴れだしたか?
そして、寒い。いや、もともと寒いが、明らかに発熱を知らせる悪寒。
2週間前の悪夢が脳裏に蘇る。徐々に足取りが鈍くなる。





世界の屋根と称されるパミール高原の東端。
雪をいただいた、標高7000mを超える山々。色黒のタジク人。無数の羊、そしてヤク牛。夢にまで見た、そして2度もアタックしたその風景が、惜しげもなく眼前に曝け出される。
しかし、それを楽しむ余裕もなく、よろよろと力なく次の村までたどり着いた。


生まれて初めてヒッチハイクをした。
猿岩石のように通行車に親指を立てて…なんてナリじゃない。休憩のために偶然止まった国際トラックの運転手が、言葉の分かる漢族だったから恐る恐る話かけてみただけだ。
パキスタンから来た隋さんは、カシュガルまでなら一緒だからと快くOKしてくれた。彼はさすが国際ドライバー、英語も完璧に話せる。漢語と英語を混ぜてくれれば、筆談しなくても最低限の会話はできる。トラックに揺られながら、しばしお互いの仕事のこと、そして家族のことを話した。


トラックの助手席は想像以上に見晴らしがいい。岩と砂でできた東パミールの台地は、午後の暖かい日差しに照らされてまぶしかった。そして、ゆっくり、かみ締めるように、キルギスへ行ける体ではないことを自覚し、日本へ帰ることを決心した。2戦2敗。自分の限界が、ここにあった。


○トラックから


○途中、気を利かしてカラクリ湖で写真タイムを作ってくれた。
 湖の向こうはムスターグ・アタ峰(7,546m)


カシュガルに近づくにつれ、下痢は激しさを増していった。
高度障害だと思っていた体のだるさは、全く取れなかった。
低地に降りて気温が上がっても、寒気は引かなかった。

道中、隋さんは「俺は日本のことが好きなんだ」と言って、いろんな話をしてくれた。中国で有名な芸能人、使っている日本製品とその良い点、日本のブランド力がいかに浸透し、人々がそれにあこがれているか…。そして、いつか日本へ行きたいと言った。おれも日本でトラックドライバーできると思うか、と聞かれた。
できるに決まっている。でも、日本で働いたって、物価が高いから暮らしは大変だし、休みも全然ないんだよ。たくさんの人が心の病気にかかって、自殺もしている。中国の人たちはいつも家族一緒で、モノも豊富で、それなりに豊か暮らしをしているんだよ。例えトイレに紙が流せなくても、水道の水が飲めなくても、道が穴だらけでも、家にパソコンがなくても、部屋が狭くて汚くて、照明が裸電球一個でも、毎日家族揃って飯が食えて、毎日家族揃って眠ることができるなら、これ以上の贅沢があるか。これが叶えられない日本で、それでも働きたいのか。それでも、日本国を豊かだと思うのか。

…そんな込み入ったことまでは到底言えず。
彼には悪いと思ったが、愛想笑いも程ほどに、無口な青年を装った。


カシュガルまで10km、トラックは日の暮れかかった車庫に着いた。
隋さんはお金が欲しそうな素振りなどは一切見せず、何事もなかったかのように去って行った。

暗くなったポプラ並木の道を、市内へと急いだ。


にほんブログ村 旅行ブログ 大陸横断・大陸縦断へ
旅行ブログ