2月も後わずか。コートを脱ぎ捨て、太陽をいっぱいに浴びたい。もうすぐ、春爛漫の季節だ。
(昨年の3月、笹尾根の春の日差しいっぱいの林の小道)
先頃、リヤカーマンと呼ばれている、植村直己冒険賞を受賞した永瀬忠志さんの「アンデス横断の冒険の旅」を、テレビで偶然拝見しました。その番組を見て私が感じたことを、今日は綴ります。
人は、どうしてこうした厳しい道を選択するのだろう。山に散った、多くの先鋭的なクライマーがそうであったように、人は時として、生死をかけた困難な道を選択します。安穏とした日常から抜け出し、そこが自分の生きる場所とでも言うかのように、また見えざる糸に手繰り寄せられるように、世界の果ての深淵を歩きます。そうした人の一人が、永瀬忠志なのでしょう。志に忠実と名付けられ、この世に生まれ出て…。
私は、リヤカーを引いて旅する永瀬さんを、かなり以前から知っていましたが、今回のテレビを拝見するまで、詳しい人物像を知りませんでした。リヤカーマンと同年代の私は、人生の生き方・考え方の一つとして、興味深くその番組を見ました。そのドキュメンタリーの中で、彼が行った言動で、最も私が印象に残った三つの点について少し述べてみたいと思います。
一つは、「なぜあなたは、リヤカーマンとなって冒険の旅に出ているのか」との質問に、彼はサラリーマンであった時の自分の体験を述べています。
「一日・一週間・一年があっという間に過ぎていく。振り返ると何も思い出せない。」
仕事に忙殺されて、ふと気が付くと、あっという間に時間だけが過ぎていく。これでよいのだろうか。こうした自分への問いかけは、たぶん誰もがしていることではないでしょうか。
ところで、フランスの精神病理学者ピエール・ジャネが、人が感じる「時間の長さ」に関して上手い表現をしています。「人間の感じる時間の長さは、幼いころは長く、年をとると短くなる。ある年齢の時間の長さは、大体年齢分の1である。」という法則がそれです。
簡単に言い換えれば、その人の「年齢」とその人が感じる「時間の長さ」は、常に積が一定で反比例している。その人の「年齢」の逆数が、その人の感じる「時間の長さ」の割合になるというものです。
もっと具体的に説明すれば、12才の小学6年生と、60才定年のおじさんとが感じる時間の長さは、年齢の比12:60=1:5の逆比、すなわち5:1となります。とすると、6年生の5日間の時間の感覚が、60才のおじさんには、1日にしか感じられないと言うことです。一般の人が感じる時間の長さを、上手く言い当てた法則ではありませんか。
否応なく流れていく時間、自分の死に向かって確実に時を刻む時間。生まれてからの年月を数える年齢から、自分の最期の時までをカウントダウンする年齢になると、「ジャネの法則」も確実に身にしみて感じられるようになります。
「これで良いのだろうか?」
どんなに充実した人生を送っていようとも、どんなに満ち足りた生活をしていても、ふとため息とともに、脳裏をよぎる言葉ではないでしょうか。
次に、リヤカーマンが、苦難が連続する冒険の旅の最中に、そうした厳しい生き方を選択し、そこから逃避することをしない、またはそこから抜け出すことができない、自分の性(さが)に対して、涙する場面がありました。
自分の生き方を誇っているわけでもない、無論卑下しているわけでもない。反省しているわけでもない。自分の道として、また自分の居場所として、納得して選択した「冒険の人生」ではあるものの、時としてその辛さに感涙してしまう、「人間リヤカーマン」の姿が、そこにありました。
人は、自分の人生を、自分の意志で選択して、生きているのでしょうか。
人は人生を選択して生きているようで、実は生まれながらに決められた運命の道を、またはすでに遺伝子に組み込まれたDNAの司令に従って、ただ生きているだけではないか。そんな疑問も、頭の中をよぎりました。
最後の一つは、アマゾンの奥深く原住民の家庭で、彼は一泊するのですが、その原住民の主人に、「あなたには、家族がいるのか」との問いが、リヤカーマンに投げかけられた場面がありました。
リヤカーマンは、嬉々として、彼の家族写真を相手に見せるのですが、相手の問いの真意は、「こんな危険な冒険を続けているということは、あなたには扶養する家族がいないのではないですか。」と言うことではなかったでしょうか。文化的とは言い難い、アマゾンの原住民の家長からさえも、一般的な家長の義務を果たさずに、どうして冒険の旅を続けられるのかという、それは当然の疑問として、投げかけられた質問だったはずです。
私は、リヤカーマンを責めているわけではありません。多分、彼なりに家族の生活を考え、様々の手だてを講じていることでしょう。それでも、家族を持つと、自分の人生を、自分だけのものとして、生きることができません。そこを断ち切って、自分を最も活かす道を選択することは、現実には多くの人には難しいことです。
私には、「リヤカーマン」のような人生を選択することは、できそうにありません。しかし、制約ある中で、自分を活かす道、自分なりの「リヤカーマンの冒険の旅」を見つけたいと願っています。
さて、幾重にも入り組んで、至る所で岐路に行き当たり、
そこには丁寧な案内板さえもない。
しかし、そうした道に足を踏み入れない限り、
自分というものを、自分の真の姿を、
見つけることができないのかもしれない。