昨年11月からブログを始めて、初めて私のブログに対する批判のコメントをいただいた。
昨日、帰り際にこのコメントを読み、1日考えた末に、このコメントと共に、私の考えを述べることとした。
ブログを公にしている以上、そこに書かれていることに対する内容に、私は責任を持とうと思う。
無論、わたしのブログを真剣に読んだ結果としての反論・批判なら、やはりわたしも真剣に考えねばならないだろう。
今日は、ブログを書く曜日ではないが、
そういった意味で、今回来た《コメント》と、
それについての私の考えたこと、
そして今回の本来のテーマの《自分が自分でなくなる》について、
様々な方の言葉を載せておきたい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/12/9ff7efb95921cc82046ae9426b3cbe08.jpg)
老木と桜
《今回のコメント内容》
失礼ですが、このブログ自体も「未熟だ」と思いました。
伊藤さんの作品をなぜ奥様と比べていられるのかわかりませんし(そもそもYAとして書かれたものですよね)、生徒さんが選んだ本は読んでもいないというのは(たしか芥川賞のものですね)、ただの勉強不足ではないですか。
わからない状態のままで何かを言うという、一番不真面目な姿勢を、はからずも生徒さんにさらしてしまっているのは、大人としてどうだろうかと危惧した次第です。
勉学を教える者が、それでよろしいのでしょうか。
《今回のわたしのブログの趣旨》
何度も読み返して、このコメントの一行目の助詞の「も」が、どうしても気になった。
もしかしたら、この方は、私が今回の生徒を「未熟」だと考えて、この文を書いたと思っているのか?
決してそうではない。この子に対する私の評価は、その反対で、小6ながら、いろいろなことを考えている、物事をしっかり考える生徒であると考えている。
次に、作家の評価について、確かに比較はまずかったかも知れない。どこまで自分の考えをブログで述べることができるのか、考えていきたいと思う。
わたしのブログの最初に指針として、「個人攻撃はしない」と言うことも決めたが、政治家や、自分の考えを世に問う作家などは、批評があっても許されるのではないか。
もちろんそういった意味では、ブログなども、批評・批判の対象になるのであろう。
ただ、ブログに書くと言うことは、ある程度文責が明らかであるが、それに対するコメントは、匿名性の批評・批判であるから、どの程度真剣に対応すべきなのか、やはり考えてしまう。
私の前回のブログを良く読んで頂けば分かることではあるが、私が取り上げたのは、「自分が自分でなくなる」というフレーズについてである。
「自分が自分でなくなる」というフレーズについて、小6の生徒の話からスタートして、私なりの考えを述べたのである。
今回のコメントは、耳には痛いが、厳しい目で見れば当たっているとも言え、ブログを公にするものとして、心して今後に役立てていきたいと思う。感謝!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/29/a6e46c6aab946526720c7565a2bfaa83.jpg)
散り始めた満開の桜
コメントに対する答えを書くのは、少し疲れます。
今回の「自分が自分でなくなる」というフレーズ、多くの人が、そのことについて語っています。
出典は、省略させて頂いて(これもどこまで許されることなのだろう?)、興味を感じた部分だけ、掲載します。お読み下さい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/b8/76af774ee6a300b45a53fea78554e970.jpg)
芝桜も満開です
(その1)
解離とは、体験したことが記憶となるプロセスがまとまりを失い、
自己の意識、自我、記憶に混乱する現象です。
極端な場合は、重い精神疾患となり、解離性障害と呼ばれます。
その中には、記憶喪失、自分が自分と感じられなくなる離人症、
多重人格などがあります。
(その2)
「自分が自分でなくなる。まるでもうひとりの自分が、
自分から分離して、自分に指令をだしているような感覚。
まったく別個の自我、資質をもったもうひとりの自分が、
明らかにそこに存在している」
この症状が激化すれば、精神科ではまちがいなく解離性同一障害、
いわゆる多重人格と診断される。
軽度で離人症、分裂症との診断であろうか。
私はこれをあえて、多重感覚とよびたい。
感覚は病でも、心の病気でもない。
人間に本来備わっている本能、
鋭敏にとぎすまされた感覚脳、生物脳なのである。
動物的であればあるほど、この感覚はとぎすまされていく。
とぎすまされた感覚は五感以上の超力を発揮していく。
(その3)
私が一番嫌なこと。
自分が自分でなくなること。
自分の頭で考えなくなること。
Tea break
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/28/66129e012d51b3767b7f5472011d9891.jpg)
講習が終わって、木々の芽吹きに気づきました
(その4)
『生物都市』という作品自体が一面的に描いていないように、
自分が自分でなくなること個人の自立性を否定されること自体を
プラスかマイナスのいずれかに評価するのは難しいです。
束縛されるのはいやだなんけど、
あやつられるのはゾクゾクするほど魅力的でもあります。
(その5)
以前の私は、クリスチャンになると
自分が自分でなくなるのではないかと心配していました。
でもそうではなかったのです。
神様は、それぞれの素材を生かして下さる方です。
ちょうど、真っ黒なススが特別の状況におかれて、
神様の御手の中で、輝くダイヤモンドに変わるように、
神様は私達一人一人の素材を生かして、
それをすばらしいものに造り変えて下さるのです。
(その6)
アルツハイマーという病におかされ始めた人は
その初期にどのような恐怖を味わうのだろうか。
今こうしてある自分が、時間とともに知能が退化して
自分でなくなってしまうという事実を知った時の恐怖は
どのようなものなのだろうか。
知能を失っていくということは、
自分が自分でなくなるということなのだろうか。
また、自分が自分でなくなるということは
肉体的な死の恐怖とどのように違うのだろうか。
Tea break
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/68/8d13bb514ebe7a6d4fae26e8e2182690.jpg)
桜の季節も過ぎようとしています
(その7)
自分が自分でなくなる。自分は今何をやっているんだ?
プライドなんて持っていない。
だが実は人一倍プライドを持っていたりする。
だから自分に「劣等感」を感じる。自分が低く惨めに見えていく。
こんな何も出来ない奴は世の中には「不必要」である。
自分を壊したくなる。人と接触したくない。
部屋で独りになると放心状態になり、何も覚えていない。意識が飛ぶ。
人前でペルソナの被る。偽りの自分を作る。本来の自分が消していく。
ギャップが激しくなる。反動が辛い。
布団という殻にこもる。部屋を暗くする。起きると物に八つ当たりする。
壁が傷だらけだ。頭に瘤ができている。
自分には取り柄はない。
自分より上の実力を持っている人がゴマンといる。
人は死ぬのなら、早めに死にたい。
これから起こる苦痛に遭いたくない。
同じ苦痛なら死の苦しみのみに遭いたい。
(その8)
世の中には、「私が感じたようにあなたも感じろ」と強制する人達がいる。
自分が思ったように行動しなければならない、
自分が感じたように感じなければならない、
自分の分身的な役割を相手にも要求する。
つまり、相手には「ありのままの自分でいてはいけない」と
暗黙的に要求する人達が、世の中に存在するのである。
こうした人に捕まった人達はまさに悲劇である。
自分が自分でなくなる、
自分は相手の思うままに行動しなければ受け入れられない、
こうした状況が、下手すれば永遠に続いてしまうのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/fc/6bcbe892752b1532a440bcdf7221034f.png)
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昨日、帰り際にこのコメントを読み、1日考えた末に、このコメントと共に、私の考えを述べることとした。
ブログを公にしている以上、そこに書かれていることに対する内容に、私は責任を持とうと思う。
無論、わたしのブログを真剣に読んだ結果としての反論・批判なら、やはりわたしも真剣に考えねばならないだろう。
今日は、ブログを書く曜日ではないが、
そういった意味で、今回来た《コメント》と、
それについての私の考えたこと、
そして今回の本来のテーマの《自分が自分でなくなる》について、
様々な方の言葉を載せておきたい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/12/9ff7efb95921cc82046ae9426b3cbe08.jpg)
老木と桜
《今回のコメント内容》
失礼ですが、このブログ自体も「未熟だ」と思いました。
伊藤さんの作品をなぜ奥様と比べていられるのかわかりませんし(そもそもYAとして書かれたものですよね)、生徒さんが選んだ本は読んでもいないというのは(たしか芥川賞のものですね)、ただの勉強不足ではないですか。
わからない状態のままで何かを言うという、一番不真面目な姿勢を、はからずも生徒さんにさらしてしまっているのは、大人としてどうだろうかと危惧した次第です。
勉学を教える者が、それでよろしいのでしょうか。
《今回のわたしのブログの趣旨》
何度も読み返して、このコメントの一行目の助詞の「も」が、どうしても気になった。
もしかしたら、この方は、私が今回の生徒を「未熟」だと考えて、この文を書いたと思っているのか?
決してそうではない。この子に対する私の評価は、その反対で、小6ながら、いろいろなことを考えている、物事をしっかり考える生徒であると考えている。
次に、作家の評価について、確かに比較はまずかったかも知れない。どこまで自分の考えをブログで述べることができるのか、考えていきたいと思う。
わたしのブログの最初に指針として、「個人攻撃はしない」と言うことも決めたが、政治家や、自分の考えを世に問う作家などは、批評があっても許されるのではないか。
もちろんそういった意味では、ブログなども、批評・批判の対象になるのであろう。
ただ、ブログに書くと言うことは、ある程度文責が明らかであるが、それに対するコメントは、匿名性の批評・批判であるから、どの程度真剣に対応すべきなのか、やはり考えてしまう。
私の前回のブログを良く読んで頂けば分かることではあるが、私が取り上げたのは、「自分が自分でなくなる」というフレーズについてである。
「自分が自分でなくなる」というフレーズについて、小6の生徒の話からスタートして、私なりの考えを述べたのである。
今回のコメントは、耳には痛いが、厳しい目で見れば当たっているとも言え、ブログを公にするものとして、心して今後に役立てていきたいと思う。感謝!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/29/a6e46c6aab946526720c7565a2bfaa83.jpg)
散り始めた満開の桜
コメントに対する答えを書くのは、少し疲れます。
今回の「自分が自分でなくなる」というフレーズ、多くの人が、そのことについて語っています。
出典は、省略させて頂いて(これもどこまで許されることなのだろう?)、興味を感じた部分だけ、掲載します。お読み下さい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/b8/76af774ee6a300b45a53fea78554e970.jpg)
芝桜も満開です
(その1)
解離とは、体験したことが記憶となるプロセスがまとまりを失い、
自己の意識、自我、記憶に混乱する現象です。
極端な場合は、重い精神疾患となり、解離性障害と呼ばれます。
その中には、記憶喪失、自分が自分と感じられなくなる離人症、
多重人格などがあります。
(その2)
「自分が自分でなくなる。まるでもうひとりの自分が、
自分から分離して、自分に指令をだしているような感覚。
まったく別個の自我、資質をもったもうひとりの自分が、
明らかにそこに存在している」
この症状が激化すれば、精神科ではまちがいなく解離性同一障害、
いわゆる多重人格と診断される。
軽度で離人症、分裂症との診断であろうか。
私はこれをあえて、多重感覚とよびたい。
感覚は病でも、心の病気でもない。
人間に本来備わっている本能、
鋭敏にとぎすまされた感覚脳、生物脳なのである。
動物的であればあるほど、この感覚はとぎすまされていく。
とぎすまされた感覚は五感以上の超力を発揮していく。
(その3)
私が一番嫌なこと。
自分が自分でなくなること。
自分の頭で考えなくなること。
Tea break
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/28/66129e012d51b3767b7f5472011d9891.jpg)
講習が終わって、木々の芽吹きに気づきました
(その4)
『生物都市』という作品自体が一面的に描いていないように、
自分が自分でなくなること個人の自立性を否定されること自体を
プラスかマイナスのいずれかに評価するのは難しいです。
束縛されるのはいやだなんけど、
あやつられるのはゾクゾクするほど魅力的でもあります。
(その5)
以前の私は、クリスチャンになると
自分が自分でなくなるのではないかと心配していました。
でもそうではなかったのです。
神様は、それぞれの素材を生かして下さる方です。
ちょうど、真っ黒なススが特別の状況におかれて、
神様の御手の中で、輝くダイヤモンドに変わるように、
神様は私達一人一人の素材を生かして、
それをすばらしいものに造り変えて下さるのです。
(その6)
アルツハイマーという病におかされ始めた人は
その初期にどのような恐怖を味わうのだろうか。
今こうしてある自分が、時間とともに知能が退化して
自分でなくなってしまうという事実を知った時の恐怖は
どのようなものなのだろうか。
知能を失っていくということは、
自分が自分でなくなるということなのだろうか。
また、自分が自分でなくなるということは
肉体的な死の恐怖とどのように違うのだろうか。
Tea break
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/68/8d13bb514ebe7a6d4fae26e8e2182690.jpg)
桜の季節も過ぎようとしています
(その7)
自分が自分でなくなる。自分は今何をやっているんだ?
プライドなんて持っていない。
だが実は人一倍プライドを持っていたりする。
だから自分に「劣等感」を感じる。自分が低く惨めに見えていく。
こんな何も出来ない奴は世の中には「不必要」である。
自分を壊したくなる。人と接触したくない。
部屋で独りになると放心状態になり、何も覚えていない。意識が飛ぶ。
人前でペルソナの被る。偽りの自分を作る。本来の自分が消していく。
ギャップが激しくなる。反動が辛い。
布団という殻にこもる。部屋を暗くする。起きると物に八つ当たりする。
壁が傷だらけだ。頭に瘤ができている。
自分には取り柄はない。
自分より上の実力を持っている人がゴマンといる。
人は死ぬのなら、早めに死にたい。
これから起こる苦痛に遭いたくない。
同じ苦痛なら死の苦しみのみに遭いたい。
(その8)
世の中には、「私が感じたようにあなたも感じろ」と強制する人達がいる。
自分が思ったように行動しなければならない、
自分が感じたように感じなければならない、
自分の分身的な役割を相手にも要求する。
つまり、相手には「ありのままの自分でいてはいけない」と
暗黙的に要求する人達が、世の中に存在するのである。
こうした人に捕まった人達はまさに悲劇である。
自分が自分でなくなる、
自分は相手の思うままに行動しなければ受け入れられない、
こうした状況が、下手すれば永遠に続いてしまうのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/fc/6bcbe892752b1532a440bcdf7221034f.png)
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