北羽歴史研究会

出羽国北端より奥羽地方と北の歴史を展望し
北羽地方の風土文化作りに寄与する。

奥羽越列藩同盟に歴史的意義はない  2

2008-11-16 17:05:28 | 雑録

3 維新変革の必然と背景<o:p></o:p>


「二百数十年の伝統ある幕府権力は、かの「黒船」の来航を機として急に激化した政争によて、わずか10年あまりのうちにもろくも崩壊した。「大獄」をはじめてする幕権維持策も、10年たらずに崩れたのである。また、この幕府打倒の中核となった大名権力や武士階級自体が、ひきつづく廃藩置県や徴兵制さらに秩禄処分によって、倒幕以来わずか九年間のうちに否定された。さらに、その間の地租改正や殖産興業をはじめとする諸施策のなかで、資本主義の諸前提すら形成されていった。西南戦争は、倒幕に動員された士族たちの末路を、一面からあざやかに映しだしているともいえる。(註:明治維新は、さらに士族の特権の放棄を必要とした。Wa)<o:p></o:p>


 このような短期間の激動を規定した要因は、もちろん一様ではない。明治維新が、日本人みずからの力で実現した数すくない歴史的大変革であったという意味においても、幕府体制下に累積された、国内における変革の客観的かつ主体的な諸条件の成熟として、明治維新をとらえなければならない事はいうまでもない。変革の推進主体は、それまでのわが国の歴史のみが具体的に与えるほかはないからである。


(註:徳川幕府支配の矛盾の現れ、政権の変わるべき時がきた必然が、維新の結果となった。Wa)<o:p></o:p>


 …その変革のプロセスを促進させ、変革の各段階の歴史課題をそれぞれ制約し、政争の具体的様相や大義名分のあり方を規定する上で、明治維新の場合は、アジアと日本をめぐる、まったく新たな国際的要因の決定的な意義が、とくに強調されなければなるまい。1850年代以降、いまだアジアの東海上に「鎖国」していたわが封建小国が、突如として先進資本主義列強との従属的な外交関係を強いられ、近代的大工業が支配する世界市場の底辺にくみ込まれたという背景こそ、維新変革の基本的な契機でさえある。」…… 以上、『世界史のなかの明治維新』芝原拓自著より  <o:p></o:p>


 二、歴史の進展にブレーキをかけたもの<o:p></o:p>


1 列藩同盟に歴史的意義はない。 <o:p></o:p>


 奥羽列藩同盟の当初は嘆願同盟といわれるが、表面は武備恭順、内実は鳥羽伏見の雪辱をはらすと戦意の高い会津と、征討を至上命令とする鎮撫使との間を調停しようとする事自体が無理なことである。征討への足引張でもある。 仙台藩は米沢藩とともに奥羽諸藩を参集させ連署嘆願をだすが、この列藩会議を新政府に反抗する軍事同盟に変質させるには、さして日を要しなかった。総督府下参謀世良周蔵の暗殺、白河城攻撃と新政府への反乱が始まった。仙台主導のもとに越後諸藩を加え奥羽越列藩同盟となり、旧幕幹部を加え、上野輪王寺宮を盟主とするに到る。しかし同盟の「速やかに江戸城を押さえ、政権を樹立す」の当初の戦略構想は、空虚な字句でしかなかった。新政府軍が藩境に迫るやたちまち仙台藩は他藩を見捨て、新政府軍に降伏したのである。歴史の結果として列藩同盟は、無益な戦争の拡大と戦場の領民へ多くの苦しみを与えたにすぎない。そして自らの墓穴「白河以北一山一文」を掘ることになっただけなのである。<o:p></o:p>


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