参考 米沢、仙台藩の戊辰戦争
インターネットd4.dion.ne.jp抜粋<o:p></o:p>
奥羽列藩同盟は、京都守護職で会津藩主の松平容保の処分問題と、江戸薩摩藩邸を焼き討ちした庄内藩の追討令に端を発し、東北北陸の31藩が同盟を結んだものである。 / 慶応3年4月下旬東北列藩同盟は公儀府と軍事局を設置した。東北地方に別の政体を確立したのである。<o:p></o:p>
一国二政府の形態となった。諸外国は両政府に戦争には局外中立を宣言した。 当然統一国家を創ろうとしていた西南雄藩との全面戦争は避けられなくなった。 だが、東北政府指導者層に、1.戦争が銃弾大量使用の消耗戦の時代に入っていた。2.ロジステイクが万全か。3.財政的裏づけがあるか。4.汽船の時代に入っていた。有効的活用が視野に入っていたであろうか。/ これらが認識されていたのであろうか?否、全くといってよいほど認識されていなかったであろう。… … / 財政的裏づけについて 仙台藩御用達しの日野屋中井新三郎は破産寸前に追い詰められ、戦い終わって藩の借金は200万両にたっしたとう。 米沢藩は、越後下関渡辺家に戦費を調達させた。また、庄内藩も本間家に戦費を調達させている。 長期戦になれば、まず東北、北越、奥羽諸藩が財政的に音をあげたであろう。 長岡藩戦費償還目途がたたず廃藩置県をまたずに版籍奉還を行っている。/ 戦える実力も能力も財政力もなく新政府(西軍)に戦いを挑んだ。敗戦は自明の理である。 戦いに先立つ閏4月20日、鎮撫総督府世良参謀殺害の報が公儀府に伝わるや、愉快、愉快と並み居る老臣が喝采したと史書は伝える。これから起こるであろう自藩の惨憺たる敗戦を想起していたであろうか。/ …<o:p></o:p>
慶応4年9月4日東北北越諸藩が新政府軍(西軍)とまだ戦っている中で米沢藩は降伏。米沢藩が土佐藩の申しいれを受け入れる経緯について、「木滑要人(きめなりかなめ)日記8月19日、晴」「上方数十藩之大兵押下、奥羽軍気日ニ縮り、最早、今日に至り候テハ萬々可切開見込も無之」、戦争をやってみて初めて気が付いたが、相手の装備に圧倒され手も足もでなかった。ここまで負けてしまうと現状を打開する手段がない。米沢藩 戦って初めて彼我軍事力の懸絶ありしを知る。愚かというべし。米沢藩は自ら決断の先にある惨禍を想像すべきであった。<o:p></o:p>
… / 指揮官達は彼我戦力と補給に絶望的隔絶を知る。死が必然となる局所戦で肉薄攻撃が繰り返されたなら、間違いなく厭戦気分が横溢する。藩首脳部は何を考えたであろうか。」続w<o:p></o:p>
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