明治二十二年に池上、下川上、下池守、上池守、皿尾、中里、小敷田の七ゕ村が合併し成立した星宮村は昭和三十年町村合併促進法により、行田市に編入したが、同年十月池上、下川上に分離合併している。七ヶ村合併の際「北斗妙見信仰」(北極星への信仰)に基づき七つの村を北斗七星に見立ててその名がついたとされている。また村内を流れる星川と古宮(神社)の一文字をとったとも考えられている。
明治五年下川上の村社となり、字中内出に熊野神社と字御嶽の八坂神社(無各社)を合祀したが、村に病気が流行るなどして拝んだところ、「神様が元の場所から動かないからだ」ということであったため、両社ともそれぞれの廓に戻されたという。
明治維新後の合祀政策は地域の軋轢を生み、おらが村の神様をとられてなるものかといった風潮をよんだとされる。特に隣接した村同士、水利や交通の面で利害が反すれば争いがあった時代である。
神社の創建について口碑に「昔大飢饉があり食べるものに不自由した際村人が恵比寿、大黒様を祀ったことに始まる」という。現在でも農業地域であり豊作の神として信仰が厚いという。御祭神はそれぞれ事代主命と迦具土神。この口碑に見られる大飢饉は天明の大飢饉と比定されていて、本殿も二間社であったことから江戸期には二社合殿であっと考えられている。
隣接する宝乗院愛染堂は、江戸期以降「藍染」と「愛染」の関りから関東一円の染め物業者が参拝し、賑わいを見せた。伝承に大同元年(八〇六)九月一日の大水で秩父方面から一本造りの愛染明王が流れ着いたと伝わる。今に伝わる明王は江戸期の仏師の制作だとされ、全体で1.45メートルの大きさを誇る。多くの額や絵馬が奉納され当時の信隆盛ぶりが伺える。
多くの神社で見られるように、社名を刻んだ石柱の『村』の文字が削られている」。明治時代に定められた社各制度により、神祇官の管轄となる官幣大社、国幣大社など別格官幣社とそれ以外の諸社に分別された。諸社の内、府、県、郷内で崇敬する県社、郷社、そして多くは村の神社として村社、それ以外を無各社として区別した。無各社を除いて例大祭に合わせて幣帛を受けるようになったという。
戦後社各制度は廃止され、昭和二十年(1945)GHQによる神道指令により国家と神社との関係を定めた諸法令が廃止され、多くの神社でその影響を恐れて村社や郷社の文字を消しこんでしまったという。子供の悪戯ではなく、戦後の混乱の中でもあえて無各社にすることで神社を守ろうとする人々の智恵が働いたのだという。
どんなに時代が変わっても、歴史が変わることはなく、地域の鏡として時代を映してきた神社の歴史を感じる石柱であった。