栃木県芳賀郡茂木町に鎮座する八雲神社。町内中心部にあり、ふれあいマラソンではこのお宮の前を駆け抜ける。ご祭神は素戔嗚尊。
神社由緒略記によれば「素戔嗚尊」は天地の始め、山川を治め草木をもたらし、すべての元凶である八岐大蛇を退治したという。創建は後鳥羽院の御代建久三年(1192)この地の前身である藤縄村、槻木村の総鎮守として祀られる。後の領主細川家によって本殿拝殿鳥居などが寄進され現在の地に遷宮となる。
神社創始の伝承として次のものが伝わっている。
昔藤縄村に清兵衛なる百姓がいた。川岸で肥桶を洗っていると何やら流れてくるものがある。清兵衛は柄杓で手繰り寄せると何とも神々しく感じられる。大切に拾い上げ川岸の丘に大切にお祀りすると、不思議なことに当時流行っていた疫病が治まり、作物の害虫もなく豊作に恵まれた。それ以来その祠を大切にお祀りするようになった。
これが八雲神社の起源とされている。現在も逆川のほとりには「古天王さん」と呼ばれる祠がありその後ろの丘は「古天王山」と呼ばれている。
こうした川から神様や神輿が流れてきたという逸話や伝承は非常に多い。 高鳥邦仁先生の『古利根川奇譚』には利根川流域のそうした多くの逸話や伝承が紹介されている。流れてくるのが神輿であったり、社殿であったり、観音様であったり。利根川に限らず日本全国様々な土地、河川でそうした話は残っているのだろう。ここ下野国芳賀郡においては逆川になる。いずれにしても流れ着いた場所では拾い上げて祀ったり、或は恐れをなして流れに戻すもまた戻ってくるなど、神威を感じて祀られることが多かった。古来より川の流れは多くの恵みと共に時として大雨による被害をもたらした。
昭和61年の台風10号によって茂木町は浸水しライフラインの多くが泊まるなど壊滅的な被害をこうむっている。その当時のことを伝える石碑が逆川のほとりに建っている。また町の所々には当時の水位を伝える印が残されている。
昭和19年(1944)には初代領主細川興元公を祀る大光神社を合祀している。細川家は江戸期に入りここ茂木に1万石を与えられ領主として入っている。茂木氏,須田美濃守、と三家領主が入れ替わっている。細川家はその後260年この地を治めている。
初代細川興元は、戦国武将細川忠興の弟に当たる。兄と共に信長、秀吉に仕え小田原征伐にも加わっている。兄細川忠興の妻はキリシタンであったガラシャであることは有名だ。大河ドラマ『真田丸』でも描かれていた。弟興元には嫡子がなかったため、忠興の次男興秋を養子としている。この時すでに興秋がキリシタンの洗礼を受けていたことを興元は知らなかったとされる。しかしこれをきっかけに興元自身も洗礼を受けキリシタンになっている。
秀吉没後は家康に仕えるも兄忠興と不仲になり黒田長政に頼んで出奔してしまう。慶長十五年(1610)家康の仲介で兄と和解し、芳賀郡茂木町に一万石を与えられ大名となる。一説には二代将軍秀忠は10万石の領地を与えようとしたが、兄忠興の反対で1万石に抑えられたともいわれている。その後大阪の陣にも参戦し戦功をあげ常陸筑波、谷田部を加増され拠点を谷田部に遷したうえ、秀忠の御加衆にも取り上げられている。
拝殿には神嘗祭に奉納する初穂の稲穂がかけられている。低い山間に広がる田畑は棚田を思わせる広がりで、多くの田んぼで稲刈りも済んでいた。