皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

一夜飾り

2018-03-02 21:28:29 | 生活
明日は桃の節句。節分過ぎて日を選んで飾った雛人形も明日が主役の日。いつ飾りいつ片付けるか、片付けが遅いと嫁ぐのも遅くなるともいわれている。飾りつけの日に謂れはなく、大安吉日を選べば良いそうだ。但し前日に飾る「一夜飾り」は縁起が悪いらしい。これこそ風習そのもので、「一夜飾り」は通夜葬儀に繋がるかららしい。もとは正月飾りを大晦日にする事への戒めから来ているのだろう。
明日は忙しく家族揃って食事とならないため今日ちらし寿司をいただいた。風習という言葉も良く考えれば不思議な言葉だ。誰に聞くのではなく、風に習う。教義、教典を持たない教えは人から人へ時代と共に伝わり行く。いつ始まりいつ終わるのか。知り得るのはその時の風だけなのかもしれない。
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岩槻城鎮守 久伊豆神社

2018-03-01 21:53:58 | 神社と歴史
さいたま市岩槻区は「人形の町」として広く知られるが、明治四年の廃藩置県の折、岩槻県となり当初埼玉県の県庁が置かれるはずとなっていた。交通や庁舎の面で不便なことから、県庁所在地とはならなかったが、古くからの宿場町だ。
かつては元荒川の流域であり、その歴史は欽明天皇の代まで遡る。土師氏が出雲国から国造としてこの地に久伊豆明神を勧請したのが始まりという。中興の祖は鎌倉の扇ヶ谷上杉家とされ、家人の太田道灌は岩槻城を築き、久伊豆神社に軍事を祈祷している。その後天文十九年道灌の曾孫、太田正は神社を再興し、動乱の戦国期に、上杉謙信に呼応して、皿尾城に援軍として駆けつけ成田長泰を敗走させている。
維新後、岩槻城は廃絶され、明治四年の火災により、神社の社殿も焼失している。戦後まで樹齢千年を越える関東一の大杉があったが、壊死して伐採されたが、本殿裏には幹回り二メートル近い大榊があり、天然記念物にしていされている。御祭神は大国主命。
日光街道の宿場として栄えた岩槻は、東照宮建設に当たった職人が技術を伝えて、人形作りも江戸期から始まったと言われる。次世代に繋がる願いから昭和四十年代はじめから、境内に岩槻保育園を設立し、今に至っている。
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