皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

行田電燈株式会社跡

2018-11-03 00:14:02 | 行田史跡物語

行田市郷土博物館駐車場に建つ『行田電灯株式会社跡』石碑。明治末期にここ行田の地で電力自給の取り組みがされた歴史を知ると、当時の人々の活気や行動力に驚くばかりだ。忍町の将来構想を検討する行田倶楽部(明治41年)の中心メンバーだった今津徳之助氏が発起人となり、資本金10万円で設立されたのが行田電灯株式会社。火力発電によって電灯と電力の供給を行い、独自の事業展開を目指した。

 当時すでに熊谷町や羽生町には電灯が提供されていたという。熊谷までは高崎水力電気が遠距離送電線を用いて送電していたが、忍町でもっ利用者を募り送電線の延伸を依頼したが、断られてしまったという。ならば自力でという当時の忍町事業者の気概が感じられる一面だ。

高崎水力電気が断った理由は、行田倶楽部が志向した産業電力の送電要請が設備投資高騰を招き採算上の支障になったからだという。(高圧だったため)

こうして明治四十三年、県内では川越電灯に次ぎ先駆け的な電灯会社が事業化された。

この電力提供が大きく寄与したのが行田足袋の生産で、明治42年には800万足、大正12年には1200万足、同6年には3200万足と足袋の生産は大きく伸びている。足袋製造が機械化されただけではなく、電灯のおかげで夜間製造時間のが延長でき、所謂夜なべ仕事が可能となったからだ。人、物、エネルギーが三つ巴となって、当時の需要にこたえたのだという。

 当時の人は電灯とはこんなに明るいものだと喜んだという。また当時の逸話に夕方暗くなるころ、表通りに出て『俺のてばたきで電灯がつく』といって何度も何度も皆で手を叩いて、明かりがつくと万歳三唱をして喜んだという。

 その後昭和十七年戦争のため、国家総動員法により東京電燈に強制買上げ合併を命じられ、行田電燈は34年の輝かしくも短い歴史に幕を下ろしている。

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