
今年は伊勢湾台風から60年になります。
1959年(昭和34年)9月26日土曜日、私は高校2年生、定期試験が終わってすぐ映画を見に行った
帰り道はすでに風が強かった記憶があります。家に帰ると父が板塀の補強をしていました。
「おみゃぁらぁは知らんだろうが大正元年のおおかぜはおそがかったで おおかぜは気をつけんといかん」と
父は口癖のように言っていました。おおかぜは台風の事。
雨戸を立て廻し、早々に夕食を済ませて父の仕事場に集まってラジオを聞いていました。
大人たちの様子と風の音に大変なことが起きそうな気がしてました。そのうちに停電になり
近所の人が「雨漏りと風で家が揺れておれんで」と何人か仕事部屋に加わりました。
「外はトタンや瓦が紙みてぁに飛んどるでかんわ」その人達から聞く外の様子が怖かった。
そのうちにガシャーンともダーンとも言えない音がして「わぁ~」と母の叫び声がしてふり向くと
北側の窓が少し明るいのです。北側にはお座敷と私の部屋がある離れが建っていたのに・・・
翌日になって見ると座り込むように潰れていました。
その夜の記憶は母が正気を失うのではないかと心配したことが一番大きかった。
昭和15年、自分の住む土地を買い家族と住み込みの何人かが住む家を建てて借家住まいから抜け
出した5年目に空襲で全焼。その後焼け残った長屋の一角に住んで10年。座敷と茶室風の離れを
建て増してホッとして4年目にその離れが全壊したのです。
「なんにものうなってまった」と座り込んで繰り返すばかりの母。
「また建てりゃええが」と気丈な父でした。
翌朝外に出ると当時の木製の雨戸には大小のガラス片や瓦の欠片が手裏剣でも投げたかのように
突き刺さっていて「あの時外に出とったらえらいことだったなぁ」と言い合っていました。
父が夕方補強していた板塀はどこかへ飛んで行ったようです。
それでも誰も怪我もなく離れは潰れても狭くても他に部屋はあるし、当面暮らしには困らなかった
気がします。学校は休みになっていたので潰れた私の部屋から必要なものを掘り出して後は近くの
井戸のあるお宅へ水をもらいに行くのが仕事でした。私にとっては小学校から集めていた切手帳を
見つけても泥水を被ってくっついてしまっていたのがとても残念でした。でも、親には言えなかった。
「こんな時に切手なんか」と言われそうでしたから。
姉の嫁ぎ先は運河沿いの材木店だったので2階すれすれまで水が来て何日も引かずに困ったらしい。
切手ごときで泣いていたら叱られます。
潮岬に上陸した台風15号は紀伊半島から東海地方を抜けて日本海へ。
名古屋の最低気圧は958,2hpa(昔はmb)
最大瞬間風速は45・7m
名古屋市南部とその周辺の干拓地は地盤沈下でゼロメートル地帯だった所へ高潮と貯木場の
ラワン材の流出で被害が一層大きくなり死者、行方不明者合わせて5000名を超える大惨事に
なりました。
父にとっては「大正元年のおおかぜ」私には「伊勢湾台風」がトラウマになりました。
台風が来るたびに思い出して怖いのでいっそのこと頑丈なマンションにでも引っ越したいと思う。
台風が去ればそんな思いは台風一過・・・今の家でいいと思う。
きっとそんな思いを繰り返しながらずっとこの家に住んでいるはずです。
関東の台風被害の大きさを想うと歳をとって家を失うなんてどんなにつらい事かと思います。
私だったらどうだろうか。母と同じように「何にもなくなってしまった」とただ座っているかも
しれません。そんな災害が来ないことを祈っています。

今日から少し忙しくブログまたお休みします。