丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

移植医療

2009年06月20日 | 医療・介護・健康
 年に何度か、移植手術を受けるために渡米する子供達のニュースを目にする。幼い子供が酸素チューブを鼻につけて、飛行機の中に消えていく映像は何度見ても胸が痛くなる。あの子供達の何人が生還してくるのか。一人でも多くの命が助かってほしいと思う。
 その反面、心のどこかに何か割り切れない思いも存在する。法外な金額を払って、外国に渡って、いつ回ってくるかわからない順番を待つ。我が子の代わりに露と消える命を待ち望む……。
 そしてまた、貧困に苦しむ発展途上国では子供が誘拐されて、臓器を売りさばかれるというホラー映画のような現状がある。

 出口のない迷路のような、そんな闇を思う時、ふと鬼子母神の話を思い出すのだ。千人の子を持つ母でありながら、他人の子を奪って食ったという鬼子母神は、最愛の末っ子を仏に隠されて、初めて子を失う親の気持ちを知ったという……。

 哀しいかな、母という生き物は、誰しも心の中に鬼子母神を持つのかもしれない。私も例外ではなく、自分の子供の命を前に他人の子供をどれほど愛せるだろうか。そんな事、想像もつかない。……いや、想像したくないと言った方がいいかもしれない。

 私自身はドナーカードを持っているので、万一不慮の事故で脳死状態に陥った時は、各パーツを色んなところへと「おすそわけ」しようと思っている。人間、生きている間にどれだけの人を助け、人の役に立つことが出来るだろうか。医療関係の道に進んで痛切に思う事は、人が人を助けるというのはとても難しいという事だ。人は無力であるといつも思い知らされる。
 しかしドナーとなれば、人生の最後に間違いなく何人かの命を救うことが出来る。人生最後の花火は、小さな灯火となってどこかで燃え続ける。自分の命でいくつかの星を輝かせることが出来る。
 だから亭主には「私がもし脳死になったら、迷うことなくバラしてくれい!」といい含めてある。多分、亭主は理解してくれているだろう。もっとも長生きしたり、病気で力尽きた時は普通に荼毘に付されることになり、世間のお役にも立たないのだが(笑)。
 チビ子とチビ太郎にも少しずつそんな話をしていくつもりだ。彼らにはまだ「死」がなんたるものか、わからない。だけど子供は子供なりの「メメント・モリ」があるはず。彼らがどんな死生観を持つかはわからないが、それを充分に尊重してあげたい。

 死によって始まる命もある。死は全ての終わりではなく、生の続きであり、また生に繋がっていくものでもある。
 ただ、命のリレーは法と倫理に則って、厳粛に引き継がれていくものだ。間違っても闇の中で、欲望と血にまみれた手で引き継がれてはならない。
 だからこそ、移植医療についての法整備は急がれるべきだと思う。本当に色々な意見があると思うが、道筋を示す事が先決だ。移植や脳死というのは、個々の死生観に大きく左右される問題なので、法案が通ったからと言って移植医療が急速に普及するとも限らないだろう。勿論、議論はこれからも重ねていくべきだが、間口は少しずつでも広げていく方がいい。闇を抱えて苦しみながら命を待つのは、親にとっても子供にとっても残酷だ。闇の中で彷徨う親子にとって法という道しるべは一筋の光明に他ならない。せめて病以外の苦しみだけでも、減らしてあげたい。


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