彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

下関市太平町「了円寺」

2011年07月12日 04時39分49秒 | 神社・仏閣
功山寺で僅かの奇兵隊と共に挙兵した高杉晋作は、新地町の
「萩藩新地会所」を襲いました。
司馬遼太郎の「世に棲む日々」を読んだのは三十年前ぐらい
だったと思います。

下関市出身のワタクシメが、住み慣れた京都で読む小説としては、
「世に棲む日々」ほどふさわしい小説はありません。
両方の土地勘があるんだから、こりゃ、読みやすいものだわいと
気分良く読んだ記憶があるのです。

晋作が新地町の「新地会所」を襲った・・・ふむふむ、新地町は
あの辺だったよなと簡単にイメージできました。襲撃後、「了圓寺」
にたてこもったとありましたので、ちょっと離れた地区に「了圓寺」
があんのだろうと思いながら読んでいました。

ところが、齢六十にして初めて知ったのは


この了圓寺さんが、襲撃された「萩藩新地会所」から、近いこと、近いこと!
地図で今計測しますと、635メートルです。徒歩で10分かからない距離
なんですよね。


戦争だったらこんな近くに陣を張りません。高杉晋作は「会所襲撃」は
政治ショーだと見切っているのが、この「距離」でよく分かります。
革命家とは革命期の政治家という意味なんですね。


境内に入っても高杉晋作のことに触れているものは一切見当たりません。


見当たりませんが、そんなことどうでもよくなります。このお寺さん、
感じのいいお寺さんなのです。


寺院建築には全く不案内なのですが、このお寺さん、何故だか分かりませんが、
品格があり、落ち着くお寺さんなのです。


檀家さんが多くて余裕があるお寺さんなんでしょうか、心落ち着く、
感じのいいお寺さんでした。


篤志家であられた何代か前のご住職の顕彰碑がありました。




裏面には寄付をした人々の名前が彫られていました。造られたのが
比較的最近なので、名前の方は消しています。
彦島特有の苗字が多いでしょう。植田、百合野、登根さんなんか
百パーセント彦島の名前です。和田も彦島の和田さんかもしれません。

徳川家光の時代、彦島の人は彦島が海賊系統の輩に支配されていて、
本土の方にまだ避難していたんです。その時に「寺請け制度」が、
できてしまってね、元々彦島の人間は彦島本村の西楽寺を菩提寺として
届け出たんですけど、今住んでいる近くのお寺しか菩提寺として
認められないと蹴られてね、泣く泣く近くの浄土真宗系のお寺を
菩提寺として届け出たわけなんです。

だから、彦島の古くからの家のお寺さんは、たいてい本土の方にあります。
唐戸の教法寺さんなんか、彦島に門徒さんが多いもんだから、彦島江浦町に
出張所のようなものがあります。三菱病院跡地の後にあるあの建物ですよ。
ちなみにワタクシメのオフクロの実家も教法寺さんのお坊さんが来ていましたね。

by K

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