彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

本村小学校焼失

2007年12月20日 23時46分39秒 | 彦中・各小学校
本村小学校旧校舎の焼失写真を見つけました。
本村小学校の裏山、辰岩のある辺りからの撮影とおもいます。

親父が、家族にいつでも避難できるように用意をさせ、
しかし、『自分が戻ってくるまで、勝手に行動するな』と言い残して
様子を見に行ったときに撮影したものです。

家の前の道路は、「キャーキャー」言いながら
大勢の人たちが避難していました。
辰岩のある山越しに、真っ赤な空が見えていたことを憶えています。
38年卒同期が小学校に入る前のことです。

その当時、中校庭での聖母園運動会の様子、
またそのころのホーダイ山からの景色も
見つけましたので紹介します。

教室のあった校舎の炎上です




大きいのが講堂と思います



そのころの聖母園の運動会は彦中校庭で行われていました。
懐かしい校舎の前での運動会です。



そのころのアルバムに貼り付けてあったホーダイ山からの写真です。
小戸から北浦方面です。彦島(有料)道路ができるよりもずっと前の風景です。
by W

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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
写真の説明? (せいあおじさん)
2007-12-22 10:02:24
わぁ~!なんと言う臨場感の有る写真でしょう!?
舞い上がる火の粉にその炎の凄さが今日のように
伝わってきます。
その後、江の浦小学校において二部学級形式で
授業をしていました。

それから下の写真、帽子をかぶってトレパン姿
(当時はこう呼んでいました)は、お若い頃の
藤沢マサ子先生?斉藤孝子先生と二人三脚で聖
母園を支え続けてこられました。

彦中の写真、後ろの校舎は、一階が職員室で二階は、
一年生の1、2,3組の教室でクラスの堺の板戸を
外して講堂とし、色々な催しに使われていました。

吉田松陰もシーボルトも通ったであろう小瀬戸海峡、
正しく「颿風煙島之外天水一碧」・・・福浦富観台の
碑文より。往時が偲ばれます。

その景色を背景にした、聖母園の遠足の写真を何処か
で見たような覚えがあるのですが・・・遠い記憶です。
せいあ
せいあおじさんへ (by W)
2007-12-23 18:26:18
写真への説明、ありがとうございます。
四枚の写真はすべて父が撮影したもので、
古い父のアルバムから見つけたものです。

本村小学校火災のとき、
親父について見に行きたかったのですが、
連れて行ってもらえませんでした。
その代わり、
家の前を避難する人たちの悲鳴だけが
耳に残っています。
そしてチラッと見た空が、
真っ赤に揺れ動いていました。
この写真を見ると、
今でもあの時の情景が思い浮かびます。

聖母園の運動会。
僕らが小学校に入ったと年かその翌年か
本村小学校で行われたことがありました。
卒園児だったということで、お菓子を母にねだって
それをもって見に行ったことを思い出しました。

斉藤先生姉妹は本当に幼児保育に
その生涯をかけてこられてきましたね。
この夏、同期会で彦島に行ったとき、
今は園長先生をなさっておられる
「たかこ先生」をお尋ねしました。
80歳になられたいまも、
熱く保育を語られる姿に感動を覚えました。

小瀬戸から北浦方面
幼いころから老の山を
自分の庭のようにして登っていました。
そして、この角度からの景色が、
私も一番好きでした。
父も写真に残したくらいですから、
父も好きだったのでしょう。
そして、私も、父も好きだったということは、
そのほかの多くの人たちも
好きだった景色だと思います。
この夏、老の山に登ってみましたが、
木々が生長し、
頂からこの角度の景色が眺められなかったのが
残念でした。

今後とも、彦島について、彦中について、
お話を伺いたいと思います。
よろしくお願いします。
by W さんへ。 (せいあおじさん)
2007-12-25 00:38:35
(By W)さんへ、コメントへのお返事を有難うございました。文面から(Wさん)の、お人柄がとても優しい方だと察する事が出来き、うれしい限りです。また本村小の火災、あのような火災を前にして当時の子供達は元より親子さん達の気持ちは、さぞかし計り知れないものが有った事と思います。

斉藤先生方は緑町の山懐?に抱かれるようにして住まわれて居られますが、昨今のひどい開発により、そのお宅の裏にも新しい住宅が迫り、もはや山懐?とはいえない有様に・・・おそらくお嘆きになって居られるのでは無いかと案じています。お二方には、私も少々ご縁が有りまして世話になりましたが、とてもいい思い出ばかりです。

老いの山について・・・上に登って最初の駐車場が在るところに老の山公園の説明が有りますが、私が子供の頃はそこが壕の入り口で、そこから入って西の方へ行き地上に出ると、西山方面が見渡せる所、現在は藤棚が有る少し手前でした。小学生時代ではかなり勇気が必要でしたけれど・・・なんとも無く入って行く友人が居り、その彼に尊敬の念を抱いたものです。

老の山山頂の景観は(Wさん)が仰る通り樹木が生長して見通しが大変悪くなっています。折角見晴らしのいい所なので下関市の早急な対応が望まれますが・・・そこまで気の廻る議員の先生方は居られないようです。自分の懐には細部まで心を通わせる事ができても・・・?それにましても第二関門橋とか何とかドームとかと言った様な、別の建設的なお話ばかり・・・辟易です。

樹木を切り払うのは私も好みません、展望台を新しくするか、高さを改造して欲しい!折角ロケーションのいい所なのですから・・・、そうして老の山に訪れる人達が増え、下関及び北九州を見て、新たなる思いを抱いてくれる事を願っています。

 少し喋りすぎました!?  せいあおじさん
懐かしい (孝子)
2010-06-25 13:50:40
38年卒業のTと申します。
同期会があることを知り投稿致しました。
家庭の事情で、46年前に下関を離れました。
聖母園も卒園しております。懐かしく思い出します。私は、今 神戸市に住んでおります。同期会の事詳しく教えて頂ければ嬉しいです。

昭和41年卒 (すみお)
2012-11-02 06:11:57
写真拝見して涙が出てきました。私は本村小学校卒です。彦中1年はグランドに面した木造校舎2階でした。クラスが20組もありました。みんなどうしてるんだろう。同期会に顔を出したい。
すみお さまへ (by W)
2012-11-03 08:34:13
コメントありがとうございます。
41年卒と言うと、
私が彦中を卒業した年に、
本村小を卒業ですね。
同期会は楽しいですよ。
是非参加されることをお奨めします。
まだ企画されていなければ、
友人を探し出して始められてはいかがですか?
昔を偲ぶ記事に感謝です (くれえもん)
2012-11-11 21:40:34
秋の夜長にネットを覗きながら わが母校の記事を探していたら 偶然このページにたどり着きました。
なんとショッキングな臨床感のある写真でしょう。
本村小学校の火事は一生忘れられない出来事でした。
まさか写真で見ることが出来るなんて----
私が小学校3年生の時の冬でした。
朝 目を覚ますと「本村小学校が火事で丸焼けになった」と父母から聞いたのです。
その日は大雪だったと記憶しています。
朝に全員で校庭に集まり明日からの事を聞いて帰ったのですが、私たちは江浦小学校での2部授業で午後からの授業でした
この事は、せいおじさんも書かれているし、江浦小学校で2部授業をしたのは同じ学年だけだったと記憶しています。
ひょっとして、せいおじさんと私は同期生の可能性十分ですね。

聖母園の書き込み これも懐かしい思いでです
私たちの時も運動会は彦島中学で実施していました。
斎藤先生って記憶にないのですが、「たかこ先生」は覚えています
園長先生(男性の方で 多分牧師か宣教師?)の娘さんって記憶していますが
間違いでしょうか?
藤原先生の妹さんで すごく綺麗で可愛い先生でした。
ひょっとしてこの方が斎藤先生 ??
聖母園って言うと 何といてもクリスマスの夜のお遊戯会が思い出します。
最後に園長先生がサンタクロースになって みんなに配るクリスマスプレゼント
これが楽しみでした。

聖母園 本村小学校 彦島中学校 懐かしい母校の名前を偶然にも読んで 今とてもハイな気分です。
2007年頃に書かれたコメントが多いのですが、遅すぎたコメントとして 書かせて頂きました
管理者殿より少し年上の初老爺さんでした。
聖母園の先生 (追伸) (くれえもん)
2012-11-11 21:46:20
せいあおじさんのコメントを読み返していると、聖母園の先生の事が確認できました

> 藤沢マサ子先生?斉藤孝子先生と二人三脚で聖
> 母園を支え続けてこられました。

私が「藤原先生」って記憶されていたのは「藤沢先生」で
「斎藤先生」っていうのは「たかこ先生」だったのですね。
~~ 納得です

Unknown (by w)
2012-11-13 00:07:04
くれえもんさん、コメントありがとうございます。

確かに、本村小学校を卒業したものにとっては、
それが入学前であろうと、入学後であろうと、
あの校舎消失の記憶は鮮烈で、
忘れられないものですね。

僕にとっては
本村小学校の消失は入学前だったし、
彦島中学校の消失は卒業後の事でした。
直接現場に居合わせたことはないですが、
それでも、その場所で学び、遊んだことを
共有する仲間の間では、校舎の焼失は
忘れることのできない出来事として、
最後まで持ち続けることになるのでしょうね。

その痛みを分かち合える友をいつまでも
持ち続けたい、
否、
分かちあえる友でいたいですね。

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