いい作品です。
翻訳もいいのでしょうね、
文体が執事という生き方そのもので。
一つ一つ紙の箱に入れてふたを閉めていくような、いかにも執事らしい語り口は、
ハリウッド映画的なダイナミズムやスピード感、ある種の流麗さとは対照的な・・・
と思っていたら、映画になってるんですね(笑)
知らなかった。しかもかなり評価高いようですが、面白いんでしょうかねその映画は?
というのも、最初読んだ時とあちこち再読、再々読する時と、どんどん印象が変わっていくんですよ。
一読した時は、
執事という職業の理想に徹しすぎた初老の男が、
自分の本音はわきに隠しながら、その本当の目的もわきに隠した旅をして、
しかししだいに思い出したくないことを思い出し、認めたくないことを認めていく、
きわめて穏やかにその過程を描いた小説だと思ったんです。
しかし・・・読み返すにつれていやいやそれほど心地よいだけの話ではないぞと。
人物にモデルがあるとか全体が強烈なパロディであるとか、そのへんは知識がなくてわかりません。
私にできるのはこの作品をただ読むことだけです。
でもたとえばミス・ケントンとの間のことが、語り手の語るままでは不自然だということはすぐ気がつきます。
もっといろいろあっただろうなんてことは憶測にすぎないけれど、
本人が語るほど冷静につくろえたわけでないことは周囲の反応で分かる。
まぁ、だからミス・ケントンが、この木で鼻をくくったような人を好きになる余地もあったのでしょうし。
と、分かりやすいところから取り掛かって、
執事さん、あなたはあなたの思っているあなた自身ではありませんよ、と気がつく。
一度ラストまで読んで読み直すと最初より語り手の行動全体が滑稽味を帯びて見えもします。
その忠節の行きつくところを知っているし、理想化し、尽くし抜いた彼の主の限界も知っているので。
といってあながち皮肉だよ、諧謔だよと見てしまうこともできない。
お父さんのエピソードがあるので。
自分がもう長くないと思ったお父さんが
「わしは良い父親だったろうか?そうだったらいいが・・・・・・」と聞く。語り手は
「父さんの気分がよくなって、何よりです」と執事の鎧の中から答える。父親は
「(略)・・・お前にとっても、わしがよい父親だったならいいが・・・・・・。そうではなかったようだ」と言い、
息子はあくまで鎧の中から答える。
お父さんの言う通りなのでしょうね。語り手は一切ふれませんが。
このエピソードは小説全体が諧謔側にひっくり返らないための、
いわばページが裏返らないための一点ののり付けみたいに私には思えたのですが。
古き良き時代のイギリスを懐かしむような雰囲気で始まって、しかしちらちらと
語り手がかばっていながらその弱点が見えてくる。
といってそれを倒して次に何が来るのか?という疑問もわく。
語り手が善意の人物であることは間違いなく、
しかしいったん読み終えてから何重にも重なって見えてくるウソやら皮肉やらなにやかや。
積み重なった落ち葉がカサコソと移動して違う模様が見えてくるような・・・。
こういうのは一人称で語られているから可能なので、
映画になって当人が語る以上に観客の前に目に見える事実が描写されてしまったらどうなんだ??という疑問が。
見てみりゃいいんですけどね(笑)なかなか好評な映画だったようですし。
でも映画で見るより、この手強い小説をもうしばらく読み返していたいです。
あまりにもブサイクにしか描けないのでいっそトレースしてみた。
改めて、顔と頭のバランスの良さにみとれ、これが描けないデッサン力のなさに落ち込む。
翻訳もいいのでしょうね、
文体が執事という生き方そのもので。
一つ一つ紙の箱に入れてふたを閉めていくような、いかにも執事らしい語り口は、
ハリウッド映画的なダイナミズムやスピード感、ある種の流麗さとは対照的な・・・
と思っていたら、映画になってるんですね(笑)
知らなかった。しかもかなり評価高いようですが、面白いんでしょうかねその映画は?
というのも、最初読んだ時とあちこち再読、再々読する時と、どんどん印象が変わっていくんですよ。
一読した時は、
執事という職業の理想に徹しすぎた初老の男が、
自分の本音はわきに隠しながら、その本当の目的もわきに隠した旅をして、
しかししだいに思い出したくないことを思い出し、認めたくないことを認めていく、
きわめて穏やかにその過程を描いた小説だと思ったんです。
しかし・・・読み返すにつれていやいやそれほど心地よいだけの話ではないぞと。
人物にモデルがあるとか全体が強烈なパロディであるとか、そのへんは知識がなくてわかりません。
私にできるのはこの作品をただ読むことだけです。
でもたとえばミス・ケントンとの間のことが、語り手の語るままでは不自然だということはすぐ気がつきます。
もっといろいろあっただろうなんてことは憶測にすぎないけれど、
本人が語るほど冷静につくろえたわけでないことは周囲の反応で分かる。
まぁ、だからミス・ケントンが、この木で鼻をくくったような人を好きになる余地もあったのでしょうし。
と、分かりやすいところから取り掛かって、
執事さん、あなたはあなたの思っているあなた自身ではありませんよ、と気がつく。
一度ラストまで読んで読み直すと最初より語り手の行動全体が滑稽味を帯びて見えもします。
その忠節の行きつくところを知っているし、理想化し、尽くし抜いた彼の主の限界も知っているので。
といってあながち皮肉だよ、諧謔だよと見てしまうこともできない。
お父さんのエピソードがあるので。
自分がもう長くないと思ったお父さんが
「わしは良い父親だったろうか?そうだったらいいが・・・・・・」と聞く。語り手は
「父さんの気分がよくなって、何よりです」と執事の鎧の中から答える。父親は
「(略)・・・お前にとっても、わしがよい父親だったならいいが・・・・・・。そうではなかったようだ」と言い、
息子はあくまで鎧の中から答える。
お父さんの言う通りなのでしょうね。語り手は一切ふれませんが。
このエピソードは小説全体が諧謔側にひっくり返らないための、
いわばページが裏返らないための一点ののり付けみたいに私には思えたのですが。
古き良き時代のイギリスを懐かしむような雰囲気で始まって、しかしちらちらと
語り手がかばっていながらその弱点が見えてくる。
といってそれを倒して次に何が来るのか?という疑問もわく。
語り手が善意の人物であることは間違いなく、
しかしいったん読み終えてから何重にも重なって見えてくるウソやら皮肉やらなにやかや。
積み重なった落ち葉がカサコソと移動して違う模様が見えてくるような・・・。
こういうのは一人称で語られているから可能なので、
映画になって当人が語る以上に観客の前に目に見える事実が描写されてしまったらどうなんだ??という疑問が。
見てみりゃいいんですけどね(笑)なかなか好評な映画だったようですし。
でも映画で見るより、この手強い小説をもうしばらく読み返していたいです。
あまりにもブサイクにしか描けないのでいっそトレースしてみた。
改めて、顔と頭のバランスの良さにみとれ、これが描けないデッサン力のなさに落ち込む。
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