「戦後70年」の2015年が幕を閉じようとする中、戦争犠牲者を慰霊する旅を続けてきた一人の被爆者が亡くなった。長崎市の元教師塚原末子さん(享年92)。学生時代、東京で少年飛行兵採用試験の採点を担当した体験などから「私も戦犯」と自責の念を強く抱いていた。戦跡を訪ね「あの戦争は何だったのか」の答えを探し続けていた。
塚原さんは17日、長崎市内のホスピスで息を引き取った。最後に会ったのは、塚原さんの誕生日の10月19日。差し入れたケーキを見てつぶやいた。「フィリピンにいくつもりだったの。誕生日祝いじゃなくて、慰霊の日なのよ」。71年前のそのころ、レイテ沖海戦が始まった。
80歳を過ぎて慰霊の旅を始めた。アリューシャン列島、ミャンマー、サイパンなどを訪れた。戦時中の重い記憶が塚原さんを突き動かした。
太平洋戦争開戦の1941年に故郷・長崎を離れ、東京女子師範学校に進学。戦況が悪化していく中で、少年飛行兵採用試験を採点することになった。志願する10代の少年の答案用紙には、血の文字があった。「是非(ぜひ)、採用してください」。軍の担当者に「こういう人から採ったらどうですか」と進言した。
東京・明治神宮外苑のグラウンドであった学徒出陣壮行式にも参加した。降りしきる雨の中、東条英機首相(当時)と東大生のあいさつ。泣きながら同世代を見送った。
東京・赤羽の陸軍補給処に動員された時、少年に「お姉さんは人生50年と思っているでしょう。僕たちの人生は18年」と言われた。
そんな少年たちに頼まれて軍歌を教えた。少年たちは仲間の入隊が近づくと輪をつくって、歌って踊って元気に送り出した。
「私も戦犯ですよ。手伝いをしたから」。70年たっても消えない思いだった。
■ ■
長崎に戻った塚原さんは、長崎高等女学校の教員になり、45年8月9日を迎えた。爆心地から1・1キロの長崎市茂里町にあった兵器工場に生徒を引率していた。奇跡的に命は助かり、すぐに生徒を捜しに近くの防空壕(ごう)などを回った。苦しむ生徒を見つけたが、助けられなかった。
「生徒に何もできず、ただ生き残っただけ」。慰霊の旅を続ける一方で、原爆の記憶からは距離を置いていた。8月9日の原爆犠牲者慰霊の式典に参列したのは、一度だけだった。
10年前には乳がんを患い、乳房を切除した。被爆の影響かと考えた。長年自分を苦しめ、生徒を奪った原爆とは何だったのか。
それを確かめるように数年前、マリアナ諸島のテニアン島を訪れた。長崎に原爆を投下したB29「ボックスカー」が飛び立った場所だった。
■ ■
塚原さんは、戦時中を振り返りながら「(国から)何も知らされていなかったのよ」とよく口にしていた。自宅には太平洋戦争の映像をまとめたDVD、ホスピスのベッドには戦争の話題や検証に関する新聞の切り抜きが並んでいた。資料を集め、遺骨が残る激戦地に赴く姿は、あの時代に知らされなかったことを埋め、「自分のしたことは仕方なかったのか」と問いかけているようだった。
国会が安全保障関連法案で揺れていた6月、塚原さんに法案への賛否を尋ねた。「戦争を知らない子が政治家にいる」と批判しつつ、中国の軍備増強を懸念していた。「自国を守るための抑止力は必要」とは言ったが、明確な賛否は答えなかった。
塚原さんへの取材を通して、私たちが何十年後かに安保法の是非について答え合わせをする時が来ることを暗示されているようにも思えた。
=2015/12/28付 西日本新聞夕刊=
塚原さんは17日、長崎市内のホスピスで息を引き取った。最後に会ったのは、塚原さんの誕生日の10月19日。差し入れたケーキを見てつぶやいた。「フィリピンにいくつもりだったの。誕生日祝いじゃなくて、慰霊の日なのよ」。71年前のそのころ、レイテ沖海戦が始まった。
80歳を過ぎて慰霊の旅を始めた。アリューシャン列島、ミャンマー、サイパンなどを訪れた。戦時中の重い記憶が塚原さんを突き動かした。
太平洋戦争開戦の1941年に故郷・長崎を離れ、東京女子師範学校に進学。戦況が悪化していく中で、少年飛行兵採用試験を採点することになった。志願する10代の少年の答案用紙には、血の文字があった。「是非(ぜひ)、採用してください」。軍の担当者に「こういう人から採ったらどうですか」と進言した。
東京・明治神宮外苑のグラウンドであった学徒出陣壮行式にも参加した。降りしきる雨の中、東条英機首相(当時)と東大生のあいさつ。泣きながら同世代を見送った。
東京・赤羽の陸軍補給処に動員された時、少年に「お姉さんは人生50年と思っているでしょう。僕たちの人生は18年」と言われた。
そんな少年たちに頼まれて軍歌を教えた。少年たちは仲間の入隊が近づくと輪をつくって、歌って踊って元気に送り出した。
「私も戦犯ですよ。手伝いをしたから」。70年たっても消えない思いだった。
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長崎に戻った塚原さんは、長崎高等女学校の教員になり、45年8月9日を迎えた。爆心地から1・1キロの長崎市茂里町にあった兵器工場に生徒を引率していた。奇跡的に命は助かり、すぐに生徒を捜しに近くの防空壕(ごう)などを回った。苦しむ生徒を見つけたが、助けられなかった。
「生徒に何もできず、ただ生き残っただけ」。慰霊の旅を続ける一方で、原爆の記憶からは距離を置いていた。8月9日の原爆犠牲者慰霊の式典に参列したのは、一度だけだった。
10年前には乳がんを患い、乳房を切除した。被爆の影響かと考えた。長年自分を苦しめ、生徒を奪った原爆とは何だったのか。
それを確かめるように数年前、マリアナ諸島のテニアン島を訪れた。長崎に原爆を投下したB29「ボックスカー」が飛び立った場所だった。
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塚原さんは、戦時中を振り返りながら「(国から)何も知らされていなかったのよ」とよく口にしていた。自宅には太平洋戦争の映像をまとめたDVD、ホスピスのベッドには戦争の話題や検証に関する新聞の切り抜きが並んでいた。資料を集め、遺骨が残る激戦地に赴く姿は、あの時代に知らされなかったことを埋め、「自分のしたことは仕方なかったのか」と問いかけているようだった。
国会が安全保障関連法案で揺れていた6月、塚原さんに法案への賛否を尋ねた。「戦争を知らない子が政治家にいる」と批判しつつ、中国の軍備増強を懸念していた。「自国を守るための抑止力は必要」とは言ったが、明確な賛否は答えなかった。
塚原さんへの取材を通して、私たちが何十年後かに安保法の是非について答え合わせをする時が来ることを暗示されているようにも思えた。
=2015/12/28付 西日本新聞夕刊=
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