前回に引き続き仏教的禁煙法の2回目です。
5 断煙する事は廻りの人には決して公言してはいけない。
大抵の人は、私もそうでしたが、禁煙の決意をすると廻りの人にこれから禁煙することを言いふらします。そのことにより廻りの監視の目が助けになり禁煙の可能性が高まると期待するのでしょう。しかし、実際には絶対に禁煙を達成させないといけないという義務感、強制感が発生してしまい、それが重荷になり、反って禁煙をすることに疲れてしまい失敗します。これは非常に大事なことです。しかし世の中には、逆に禁煙は廻りに公言してから始めるべしと書いてある本が沢山あります。これが失敗の原因であるにも関わらず。しかし、あくまで“断煙”です。断煙は自分の意志でやるものです。やるかやらないかは自分の選択なのです。自分が断煙を選択し実行しているのです。あくまで断煙は密かに行うべきなのです。
6 断煙を始める時は今まで吸っていたタバコ、愛用していた灰皿、ライター、その他喫煙道具は一切そのままにして身近に今までどおり置いておく。
これも一般的に言われている事と正反対のことです。5項と共通することでもあるのですが、断煙をすることを公言しないと同時に人に知られないようにタバコも灰皿もライターもいつもの通りにしておきます。奥さんにも断煙の事を知られないようにします。灰皿には吸い殻もそのままにしておきます。タバコの買い置きを少なくとも2,3個は持っておきましょう。机の引き出しにはいつでも買い置きがあるようにします。1本だけ吸って19本、箱に残っていたとしたらそのまま19本入った箱を今まで通り大事に持っておきます。机の上にいつも置いている習慣の人であれば、そのまま置いておきます。ポケットに持っているのであればそのままポケットに入れて過ごします。着替える時はタバコを忘れないようにポケットに入れましょう。タバコは今まで愛用して、楽しい時も、苦しい時も、悲しい時も一緒に過ごしてきて、お世話になった大事な大事な、いとおしいものなのです。決して、敵意を抱くようなものではないのです。タバコを肌身離さず今までと全く同じように持ち歩きましょう。只、今までと違うのはタバコを吸わないという事だけなのですから。
7 タバコを吸いたくなったらどうするか
6項のような事をしたら、廻りがタバコだらけですぐにでもタバコに手を出すようになるのではないかと思われるでしょうが、それは違います。今自分は自分の意志で断煙を始めたのです。誰に強制されているわけでありません。そう簡単に手は出さないでしょう。でも長年の習慣とニコチン中毒でタバコが吸いたくなります。強烈な欲求が出てくることがあるでしょう。その時はどうするか。その時はタバコの事から気持ちを切り替えて立ち上がったり、歩いたりしてタバコを忘れます。水、お茶を飲むことは良い事です。この辺の事情は他の多くの本にも記載されているので参考にするのも良いでしょう。
8 それでも、タバコの欲求が消えない時はどうするか。
そのときは、身近にあるタバコの箱を取り上げて愛用の箱と戯れましょう。今まで長い間一緒に暮らしお世話になった過去を振り返ったりしながらタバコの箱をいとおしみましょう。そして時間を稼ぎます。この時、禁煙の本を読み返したりします。
それでも欲求があるのであれば箱からタバコを一本取り出し匂いを嗅いだり、くわえたりしても良いでしょう。でも決して吸ってはいけません。ライターで火を付ける真似をして遊んでみても良いでしょう。とにかくタバコはいつでも身近にあって吸おうと思えばいつでも吸えるのだけれども自分の意志で吸わないだけなのだという思いで過ごしましょう。さらに強烈な欲求の時は「自分はタバコを吸わないことを選択しているが、強烈な欲求が今湧き上がっている」という事を客観的に観察しましょう。そして「この欲求は本当に強烈であるが、後30分だけ我慢してみよう」と思いましょう。そのうちに欲求が消えていく事が分かるでしょう。
タバコを決して敵に回して排除しようとしてはいけません。排除しようとすればするほどタバコは強烈な力で追いかけて来ます。排除するのではなく、タバコの中に身を置いて安心を得るのです。ただ吸わないだけなのです。
この辺の時期になると、友人、知人、家族からしきりに「この頃タバコは吸っていないの、止めたの」とか聞かれるでしょう。この時も、決して止めたと公言してはいけません。「今体調が悪いのでしばらく吸っていない」とだけ答えておきましょう。あくまで密かに断煙するのです。
9 それでも、タバコの誘惑に負けそうになったらどうするか。
タバコの魔力は強烈なものがあります。何度も誘惑に負けそうになるでしょう。その都度自分の選択でタバコを吸わないことを選びましょう。タバコと仲良く遊んで、たまには匂いを嗅いだり、口にくわえてみたり、吸い殻と戯れたりしても良いでしょう。それでも治まらないなら、手持ちの禁煙の本をもう一度読んで、健康に対する害悪、経済的な事、受動喫煙の害等をしみじみ再確認します。そうしているうちに知らぬ間に欲求が治まっているでしょう。それでも駄目な時は、仕方がない、ライターでタバコに火をつけましょう。煙が口のなかに少し入ってきます。強烈な臭いがするでしょう。しかしすぐに吐き出します。肺に吸い込まなければよいのです。まだまだ断煙は自分の意志で続いています。
10 運悪く肺まで吸いこんでしまったらどうするか。
吸いこんでしまっても、落胆して断煙を止めてしまわないことです。審判がいて合否を判定しているわけではありません。あくまで自分自身の意志なのです。ここまで断煙してきたのですから成功したのとほぼ変わりません。ガラガラポンの元の木阿弥にはしないことです。1回や2回このような事は起こりえるのです。このまま断煙を継続していけば必ず断煙が達成できるでしょう。
以上1項~10項が私がお世話になった本の内容で、私の思いも含めて書きました。実際私はこの本の内容を忠実に実行して断煙に成功して30数年間タバコは吸っていません。今思い出してみると、一番苦しかったのは断煙を始めて5日目くらいでその後だんだん落ち着いて来ましたが、半年位まではタバコと戯れるというような事が多くありました。でも決して肺まで吸いこむことはありませんでした。1年くらいで断煙成功という実感を得ることが出来ましたが、3年くらいはタバコを身近においていつでも吸える状態にしておきました。もっとも、3年後のその頃にはタバコにカビが生えてとても吸えるものではありませんでしたが。
この本の中にも書いてあったのですが、「喫煙、断煙は板に釘を打ち込むのと同じで、釘は釘ぬきで抜きとれるが板についた釘の穴はいつまでもなくならない」という事を本当に感じます。というのもタバコを吸う事は止めることは出来たのですが、30数年後の今でもタバコの夢を年に一回は見るのです。それは夢の中でいつの間にかタバコを吸っていてハッと気がついて、「しまった、またこれから断煙を始めないといけない」という夢です。このようにタバコの影響は一度吸ったら釘の穴のように長く消えない強力なものでありました。
ところで、この禁煙法をなぜ仏教的禁煙法と私が思ったかですが、仏教的というより禅的禁煙法といった方が適切かもしれませんが、1番目は禁煙を人から強制されるのではなく自分の意志で実行すること即ち自力的禁煙法である事、2番目はタバコを吸いたいという強烈な欲求をそれに振り回されるこのなく客観的に観察することが仏教の瞑想に通ずる事、3番目はタバコという煩悩を嫌って厭だ厭だと排除するのではなく、煩悩を見つめ煩悩の中に身を置き煩悩と一体となったところに安心を見出す事、が仏教的と思われるからです。いずれにしろ、煩悩を嫌えば嫌うほど、煩悩は強烈に追いかけて来ます。煩悩に力で打ち勝つことは出来ないのです。煩悩があってもその中に安住することこそが悟りの世界という事であり煩悩即菩提ということでしょう。
多くの人がこの仏教的禁煙法により“断煙”に成功され、心身ともに健康的な生活を過ごされることを祈念いたします。